心のデボーション4831
「謙遜者はくらひて飽ことをえ ヱホバをたづねもとむるものはヱホバをほめたたへん 願くはなんぢらの心とこしへに生んことを」 詩篇22:26
「貧しい者は食べて飽くことができ、主を尋ね求める者は主をほめたたえるでしょう。どうか、あなたがたの心がとこしえに生きるように。」 口語訳聖書
「子規の悟り」
正岡子規は「病牀六尺」の冒頭に「病床六尺、これが我世界である。しかもこの六尺の病床が余には広過ぎるのである。僅かに手を延ばして畳に触れる事はあるが、蒲団の外へまで足を延ばして体をくつろぐ事も出来ない。甚だしい時は極端の苦痛に苦しめられて五分も一寸も体の動けない事がある。苦痛、煩悶、号泣、麻痺剤、僅かに一条の活路を死路の内に求めて少しの安楽を貪る果敢なさ、それでも生きて居ればいひたい事はいひたいもので、毎日見るものは新聞雑誌に限つて居れど、それさへ読めないで苦しんで居る時も多いが、読めば腹の立つ事、癪にさはる事、たまには何となく嬉しくてために病苦を忘るるやうな事がないでもない。」と書き起し、「余は今まで禅宗のいはゆる悟りといふ事を誤解して居た。悟りといふ事は如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思つて居たのは間違ひで、悟りといふ事は如何なる場合にも平気で生きて居る事であつた」と書き継いでいる。(正岡子規 「病牀六尺」 二十一 六月二日)
(心のデボーション4831)
心のデボーション4832
「斯く我らの勸告を納れるによりて『主の御意の如くなれかし』と言ひて止む。」 使徒21:14 大正文語訳聖書
「こうして、パウロが勧告を聞きいれてくれないので、わたしたちは「主のみこころが行われますように」と言っただけで、それ以上、何も言わなかった。」口語訳聖書
「えい、ままよ」
追いつめられて、なりゆきに任せるしかないとき「えい、ままよ」とつぶやくことがある。「まま」とは「その如く」の意味で「ありのまま」、「そのまま」というふうに使われる。「主のみこころのままに」は、みこころになりゆきを任せることでもある。「えい」と気合いを入れないと「まま」に任せることはできない。大切なことは「まま」に任せた後、その方向を見守ることである。そうしないと本当に「ままならぬ」ことになってしまう。
(心のデボーション4832)
心のデボーション4833
「願はくは平和の主、みづから何時にても凡ての事に平和を汝らに與へ給はんことを。願はくは主なんぢら凡ての者と偕に在さん事を。」 Ⅱテサロニケ3:16 大正文語訳聖書
「どうか、平和の主ご自身が、いついかなる場合にも、あなたがたに平和を与えて下さるように。主があなたがた一同と共におられるように。」 口語訳聖書
「平和への祈り」
パウロは「平和の主ご自身が、いついかなる場合にも、あなたがたに平和を与えて下さるように」と祈り、さらに「主があなたがた一同と共におられるように」。と祈る。ある者は健康に、ある者は家庭に、ある者は心に、ある者は地の騒乱に「平和」を祈る。人の数だけ「祈られる平和」があり、神はそのこと如くに応え給う「平和の神」である。
(心のデボーション4833)
心のデボーション4834
「汝等のうち、誰かその子パンを求めんに石を與へ、」 マタイ7:9 大正文語訳聖書
「あなたがたのうちで、自分の子がパンを求めるのに、石を与える者があろうか。」 大正文語訳聖書
「愛という名の支配」
「子どもの幸せ以外に考えたことがない」という母親は危ないと思う。愛情という名の支配は、それがいかに暴力的であっても、愛であるが故に許されてしまう。この歪んだ愛情には激しい怒りが内在することが少なくない。当人はそれに気づかないのが普通である。母親には是非とも「子どもの幸せ」以外のことも考えてほしい。そうすれば、子どもが飢えているのに石を与える誤りに気づくのではないかと思う。
(心のデボーション4834)
心のデボーション4835
「『ナザレのイエスよ、我らは汝と何の關係あらんや、汝は我らを亡さんとて來給ふ。われは汝の誰なるを知る、神の聖者なり』」 マルコ1:24 大正文語訳聖書
「ナザレのイエスよ、あなたはわたしたちとなんの係わりがあるのです。わたしたちを滅ぼしにこられたのですか。あなたがどなたであるか、わかっています。神の聖者です」。 口語訳聖書
「なんの関わりが」
汚れた霊はイエスに「あなたはわたしたちとなんの係わりがあるのですτί ἡμῖν καὶ σοί」と言う。イエスと関わりのないものは一つもない。「このことだけは、主よ、関わらないでください」と言ってはならない。
(心のデボーション4835)
心のデボーション4836
「我を見る者は我を遣し給ひし者を見るなり」 ヨハネ12:45 大正文語訳聖書
「また、わたしを見る者は、わたしをつかわされたかたを見るのである。」 口語訳聖書
「キリストを見る」
キリストを観る者はキリストを「つかわされたかた〔すなわち神〕を見るのである」。(ヨハネ12:45) 「観るθεωρέω」は「熟考、推測、観察」で「ありのままに観る」の意である。「理論」を意味するtheoryは「観るθεωρέω」を語源とし、「世界をありのままに観る」ことによって知られる真実、理論」の意である。
(心のデボーション4836)
心のデボーション4837
「それ乳を搾れば乾酪いで鼻を搾れば血いで 怒を激ふれば爭端おこる」 箴言30:33 明治元訳聖書
「乳をしめれば凝乳が出る、鼻をしめれば血がでる、怒りをしめれば争いが起る。」 口語訳聖書
「怒りをかき回す」
乳をかき回せばバターができる、鼻をかき回せば血が出る、怒りをかき回せば争いがおきるとこの箴言は教える。気がつくと、いつも争いの中にいる人は、心の深くに怒りをためていて、それをかき回しているのかもしれない。やっかいなことに本人は自分にそんな怒りがあることも、自分がそれを「かき回している」ことも気づかない。怒りはかき回されるといきおいづき、凝縮されると争いを引き寄せる。静かに味わうしかない。
(心のデボーション4837)
心のデボーション4838
「『死よ、なんぢの勝は何處にかある。死よ、なんぢの刺は何處にかある』」 Ⅰコリント15:55 大正文語訳聖書
「死は勝利にのまれてしまった。死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか。死よ、おまえのとげは、どこにあるのか」 口語訳聖書
「メメント・モリ」
ヨーロッパの公共時計にはラテン語で「ultima forsan(ことによると、これが最後)」や、「vulnerant omnes,ultima necat(みな傷つけられ、最後は殺される)」と刻まれたものがあるという。見る者は緊張しないわけにはいかない。現代では、「メメント・モリmemento mori(死を想え、いつか必ず死ぬことを忘れるな)」と共に、終わりを想うことによって「今」を生きよと促す時計である。
(心のデボーション4838)
心のデボーション4839
「汝ら見られんために己が義を人の前にて行わぬよう心せよ。然らずば、天にいます汝らの父より報いを得じ」マタイ6:1 大正文語訳聖書
「自分の義を、見られるために人の前で行わないように、注意しなさい。もし、そうしないと、天にいますあなたがたの父から報いを受けることがないであろう。」 口語訳聖書
「虫唾(虫酸)が走る」
「虫唾(虫酸)が走る」の「虫唾(虫酸)」は、吐き気をもよおしたときなどに口に逆流する胃液、胃酸のことである。昔から胃酸は身体に寄生する虫が出す「酸っぱい液体(虫酸)」「虫のよだれ(虫唾)」と考えられた。
「見られんために己が義を人の前にて行う人」には、お腹の虫も不快感から苦いよだれを出すものらしい。
(心のデボーション4839)
心のデボーション4840
「生命を愛し、善き日を送らんとする者は、 舌を抑へて惡を避け、 口唇を抑へて虚僞を語らず、」 Ⅰペテロ3:10 大正文語訳聖書
「いのちを愛し、さいわいな日々を過ごそうと願う人は、舌を制して悪を言わず、/くちびるを閉じて偽りを語らず、」 口語訳聖書
「孤独蟻」
蟻を「群れから隔離して一匹だけの孤独蟻」と「群れ蟻」を観察した実験によると、「孤独蟻」は「群れ蟻」の半分の寿命しかなかったという。蟻が社会的生物であることから、そのまま人間に当てはめることはできない。人の場合、社会に不適応からくる心の病もあれば、過剰適応からくる心の病もある。寿命の長さが、幸せとも限らない。それぞれが自分の存在を見出すことができればよい。
(心のデボーション4840)
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