心のデボーション483

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心のデボーション4821

「荒野に呼はる者の聲す、「主の道を備へ、その路すぢを直くせよ」』 と録されたる如く、」 マルコ1:3  大正文語訳聖書

「荒野で呼ばわる者の声がする、『主の道を備えよ、その道筋をまっすぐにせよ』」と書いてあるように、」 口語訳聖書

 「主の道」

『主の道を備えよ、その道筋をまっすぐにせよ』はイザヤ40:3の引用である。イザヤ40:3「荒れ野〔砂漠〕に主の道を備えよ。荒れ地にわたしたちの神のための街道をまっすぐにせよ。」(フランシスコ会訳聖書) 「ヤーウェのために荒れ地に道を備え、わたしたちの神のためさばくにまっすぐな大通りを造れ」。(フランシスコ会訳聖書マルコ1:3欄外注昭和53/9)

(心のデボーション4821)

心のデボーション4822

「ヱホバよわれを憐みたまへ われ萎みおとろふなり ヱホバよ我を醫したまへ わが骨わななきふるふ」 詩篇6:2  明治元訳聖書

「主よ、わたしをあわれんでください。わたしは弱り衰えています。主よ、わたしをいやしてください。わたしの骨は悩み苦しんでいます。」 口語訳聖書

 「かまなくなった蛇」

アントニー・デ・メロの「沈黙の泉」(アントニー・デ・メロ「沈黙の泉」女子パウロ会1989/3)にあるお話である。村で多くの人々が蛇にかまれた。そこで師が蛇に非暴力の教えをさとした。蛇がおとなしくなると村人は石を投げたり、しっぽをつかんでいじめるようになった。それを見て師は蛇に「わしは、かむなと言ったが、脅かすのをやめよとは言っていない」と語ったという。私はあえて蛇に代わって師にお尋ねしたい。「たしかに私はおろかかもしれませんが、村人に罪はないのでしょうか」。

(心のデボーション4822)

心のデボーション4823

「富を得んと思煩らふこと勿れ 自己の明哲を恃むこと勿れ」 箴言23:4  明治元訳聖書

「富を得ようと苦労してはならない、かしこく思いとどまるがよい。」 口語訳聖書

 「最大の罪」

「われわれの人類に対する最大の罪は、彼らを憎むことではなく、無関心であることだ。それは非人間性の精髄だ」。(バーナード・ショー「バーナード・ショー名作集」 悪魔の弟子 白水社1978)バーナード・ショウ自身、1876年3月、20歳のとき、故郷を出て都会に移り、5年間、一日5ページの文章を書く日課を自分に与え、この間、あらゆる分野の生活に関心を寄せ、それがその後の作家への礎石になった。

(心のデボーション4823)

心のデボーション4824

「たとひわれ死のかげの谷をあゆむとも禍害をおそれじ なんぢ我とともに在せばなり なんぢの笞なんぢの杖われを慰む」 詩篇23:4  明治元訳聖書

「たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません。あなたがわたしと共におられるからです。あなたのむちと、あなたのつえはわたしを慰めます。」 口語訳聖書

 「ある慰め」

若い二人の息子を亡くし、今は自分も死の床にある老女がいた。彼女は二人の息子のことで、長いこと深い悲しみの中にいた。その夜、彼女は夢で二人の息子をみる。一人は犯した罪のため首をつられ、一人は護送車に乗せられていた。それは、もし生きていたらそうなったであろう息子の姿であった。それで彼女は、そうなる前に息子をとられたのは神の恵みだったと信じ、三日後に、安らかに息を引きとったそうである。

(心のデボーション4824)

心のデボーション4825

「わが兄弟よ、われは汝らが自ら善に滿ち、もろもろの知識に滿ちて互に訓戒し得ることを確く信ず。」 ロマ15:14  大正文語訳聖書

「さて、わたしの兄弟たちよ。あなたがた自身が、善意にあふれ、あらゆる知恵に満たされ、そして互に訓戒し合う力のあることを、わたしは堅く信じている。」 口語訳聖書

 「半人前意識」

自分はまだ満ちていないという「半人前意識」は青年のものだけではない。老いてもなお「半人前」と思うことが生きる力になる。老いてもまだ選択されていない生がある。

(心のデボーション4825)

心のデボーション4826

「これを避よ 過ること勿れ 離れて去れ」 箴言4:15  明治元訳聖書

「それを避けよ、通ってはならない、それを離れて進め。」 口語訳聖書

 「馬の目」

山羊、羊、馬など草食動物は肉食動物の襲撃を一早く避けるために、視野を広くするために目の位置が頭蓋骨の端にあり、瞳孔は横を広く見る為に横長の四角になっている。馬の目は正面、側面、後方を同時に見ることができるという。敵を見つけたら、戦うよりも早く走って逃げるが、逃げられない時には逃げるための強い足で蹴るという生き方がある。しかし、「生き馬の目を抜く世」であれば、それとても完全ではない。

(心のデボーション4826)

心のデボーション4827

「その日、夕になりて言ひ給ふ『いざ彼方に往かん』」 マルコ4:35  大正文語訳聖書

「さてその日、夕方になると、イエスは弟子たちに、「向こう岸へ渡ろう」と言われた。」 口語訳聖書

 「訪れ」

船が転覆するほどの激しい暴風の中で、イエスは眠っておられた。よほど疲れていたに違いない。そうしてまで「向こう岸」に渡ろうとしたのは、「夜昼となく叫びつづけ、石で自分の体を傷つける」男に会うためであった。人は必ずしも「助けて」と叫ぶとは限られない。悲鳴を押し殺して、自分で自分を傷つけるしかない心の叫びもある。叫ぶ人の声が聞こえなくなるほど幸せになってはいけない。「向こう岸πέραν」には叫びつつ訪れを待っている人がいる。

(心のデボーション4827)

心のデボーション4828

「民よ、いかなる時にも神に信頼せよ。そのみ前にあなたがたの心を注ぎ出せ。神はわれらの避け所である。〔セラ〕 詩篇62:8  明治元訳聖書

「民よ。どんなときにも、神に信頼せよ。あなたがたの心を神の御前に注ぎ出せ。神は、われらの避け所である。 セラ」 口語訳聖書

 「覆水盆に返らず」

中国の周に本ばかり読んでいる呂尚という男がいた。一向に働こうともしない夫に愛想を尽かして妻は出ていってしまった。しかし、呂尚が斉の諸侯に封ぜられると、かつての妻が復縁を願った。すると呂尚は盆の水を地面に撒き散らし、水を盆に戻せたら望み通りにしよと言ったという。ここから「覆水盆に返らず(起こったことは取り返しがつかない)」の言葉が生じた。呂尚は後の太公望である。

神に信頼する人は、自然の「不可逆性」に神の深い恵みと力強い御業を見出すだろう。

(心のデボーション4828)

心のデボーション4829

「汝ら見られんために己が義を人の前にて行わぬよう心せよ。然らずば、天にいます汝らの父より報いを得じ」マタイ6:1 大正文語訳聖書

「自分の義を、見られるために人の前で行わないように、注意しなさい。もし、そうしないと、天にいますあなたがたの父から報いを受けることがないであろう。」 口語訳聖書

 「天からの報い」

「天からの報いμισθός」とは何か? 落ち込んで動けなくなったとき、自分の背を後ろからそっと押してくれるものがいる。それが天から与えられる「報い」ではないか?

(心のデボーション4829)

心のデボーション4830

「われはいにしへの日をおもひいで 汝のおこなひたまひし一切のことを考へ なんぢの手のみわざをおもふ」 詩篇143:5  明治元訳聖書

「わたしはいにしえの日を思い出し、あなたが行われたすべての事を考え、あなたのみ手のわざを思います。」 口語訳聖書

 「思い出」

50年前に海浜で拾った、何でもない小さな木片を今も持っている。一度見失ったときは、あらゆるところを捜しまわり、ついに見つけ、その後は机の奥にしまっている。木片を失えば、一緒にその時の記憶も消えるように感じられ、何よりも恐れたのである。

(心のデボーション4830)

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