心のデボーション4811
「この故に我なんぢらに告ぐ、何を食ひ、何を飮まんと生命のことを思ひ煩ひ、何を著んと體のことを思ひ煩ふな。生命は糧にまさり、體は衣に勝るならずや。」 マタイ6:25 大正文語訳聖書
「それだから、あなたがたに言っておく。何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらい、何を着ようかと自分のからだのことで思いわずらうな。命は食物にまさり、からだは着物にまさるではないか。」 口語訳聖書
「思い煩い」
「自分の命のことで思いわずらい、何を着ようかと自分のからだのことで思いわずらうな」。(マタイ6:25) 「思い煩うμεριμνάω」は「心にかける、心を労する、空想する」こと。ASVは「be not anxious for your life」と訳す。Anxiousの語源ラテン語 anxietatemは「心配して心が乱れる」で、「不確実なことを受けて、悪いことが起こるのではないかと不安に陥ること」をあらわす。「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられる」。(マタイ6:33)
(心のデボーション4811)
心のデボーション4812
「それ監督は神の家司なれば、責むべき所なく、放縱ならず、輕々しく怒らず、酒を嗜まず、人を打たず、恥づべき利を取らず、」 テトス1:7 大正文語訳聖書
「監督たる者は、神に仕える者として、責められる点がなく、わがままでなく、軽々しく怒らず、酒を好まず、乱暴でなく、利をむさぼらず、」 口語訳聖書
「短気な人」
「短気な者は愚かなことをする」と箴言は語ります。(箴言14:17)しかし、そうとわかっていても愚かをしてしまうのが短気である。短気な人は来た電車に飛び乗るようなところがある。ひと電車遅らせてみれば、座ってゆっくり外の景色を楽しめるものだが、それが出来ない。しかし、つき合い方さえ覚えれば短気も大切な感情である。教会の監督に選ばれるのは「ゆっくり怒ることのできる人」ではないか。
(心のデボーション4812)
心のデボーション4813
「酒はあかく盃の中に泡だち滑かにくだる 汝これを見るなかれ。是は終に蛇のごとく噬み蝮の如く刺すべし」 箴言23:31-32
「 酒はあかく、杯の中にあわだち、なめらかにくだる、あなたはこれを見てはならない。これはついに、へびのようにかみ、まむしのように刺す。」 口語訳聖書
「泥酔」
「泥酔」の語源は中国古典「異物志」にでてくる南の海に棲むという架空の虫で、この虫には骨がない。水の中では活発に動くが、水がなくなるとふにゃふにゃと泥のように崩れる姿が、酒に酔いつぶれた姿そのものであることから、「泥酔」という言葉が生まれたという。
箴言は「赤き酒」に酔う者は「目は怪しいものを見、あなたの心は偽りを言う。あなたは海の中に寝ている人のように、帆柱の上に寝ている人のようになる」と言う。(箴言23:33-34) 水のない南海の虫のようなものか。
(心のデボーション4813)
心のデボーション4814
「婦ここにおいてサムソンよペリシテ人汝におよぶといひければ彼睡眠をさましていひけるはわれ毎のごとく出て身を振はさんと彼はヱホバのおのれをはなれたまひしを覺らざりき」 士師16:20 明治元訳聖書
「そして女が「サムソンよ、ペリシテびとがあなたに迫っています」と言ったので、彼は目をさまして言った、「わたしはいつものように出て行って、からだをゆすろう」。彼は主が自分を去られたことを知らなかった。」 口語訳聖書
「どれ、もうひとゆすり」
力の秘密をデリラに明かしてしまったサムソンは、自分から力が失われたことを知らなかった。そして「どれ、からだをひとゆすり」とペリシテ人を散らそうとするが、逆に捕らえられ両目をえぐられる。霊的な人はいつも「どれ、もうひとゆすり」と、自分の内で何かがつぶやくのを耳にする。その時は、急いで手を頭にやって、髪の毛七房がそり落とされていないか確かめばなるまい。
(心のデボーション4814)
心のデボーション4815
「善人はその產業を子孫に遺す されど罪人の資財は義者のために蓄へらる」 箴言13:22 明治元訳聖書
「善良な人はその嗣業を子孫にのこす、しかし罪びとの富は/正しい人のためにたくわえられる。」 口語訳聖書
「悪銭身に付かず」
「悪銭(あくせん)身に付かず」という。「悪銭」は元々「粗悪なつくりの銭」を意味したが、この場合は「不正な手段や働かずに得た銭のこと。いわば、「あぶく銭」である。居心地が悪いのか、身に着けようとしても、すぐに出ていってしまう。
(心のデボーション4815)
心のデボーション4816
「ヱホバは心のくだけたるものを醫しその傷をつつみたまふ」 詩篇147:3 明治元訳聖書
「主は心の打ち砕かれた者をいやし、その傷を包まれる。」 口語訳聖書
「噂」
「人の噂も七十五日」という。なぜ「七十五日」なのかといえば、昔の暦で春夏秋冬に土用の丑の日を加えて5旬節とし一年を5で割ると七十三になるところから、「七十五日」を「一季節」とするという説がある。どんな噂も季節が変わる頃には消えるという意味か。英語で同様の諺に「It will be a nine days’ wonder. 驚ききが続くのは9日間まで」とあり、こちらは随分と短い。いずれにしても、噂が消えるまでの間をどう過ごすかが問題であり、一旦、自分が人の噂になったことは心に刻まれ「一季節」どころでは消えない傷となることが問題である。
(心のデボーション4816)
心のデボーション4817
「又いひたまひけるは我はなんぢの父の神アブラハムの神イサクの神ヤコブの神なりとモーセ神を見ることを畏れてその面を蔽せり」 出エジプト3:6 明治元訳聖書
「また言われた、「わたしは、あなたの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」。モーセは神を見ることを恐れたので顔を隠した。」 口語訳聖書
「神に近づく」
モーセは神の山ホレブで、神の臨在にふれる。そこでモーセは神を仰ぎ見ることを恐れ、顔を隠す。神の許しと守りなしに、聖なるものに近づくことは危険である。私たちは、「キリストを信じる信仰によって、大胆に神に近づく」。(エペソ3:12) 神に近づく人は、「おりにかなった助け」を受ける。(ヘブル4:16) 私たちは「恐れ」と「悔い改め」の大胆さをもって神に近づくのである。
(心のデボーション4817)
心のデボーション4818
「耳は説話を辨へざらんや その状あたかも口の食物を味ふがごとし」 ヨブ12:11 明治元訳聖書
「口が食物を味わうように、耳は言葉をわきまえないであろうか。」 口語訳聖書
「明日食う塩辛」
諺に「明日食う塩辛に、今日から水を飲む」という。手回しの良すぎるのも無駄という意味である。水は塩辛を食べてから飲めばよいが、むしろ、水を飲まねばならぬほど塩辛を食べるのは問題だろう。食べすぎを見通してあらかじめ胃薬を飲むようなものだ。「口も耳」も自らが「味わえる量」をわきまえている。
(心のデボーション4818)
心のデボーション4819
「汝ら見られんために己が義を人の前にて行わぬよう心せよ。然らずば、天にいます汝らの父より報いを得じ」マタイ6:1 大正文語訳聖書
「自分の義を、見られるために人の前で行わないように、注意しなさい。もし、そうしないと、天にいますあなたがたの父から報いを受けることがないであろう。」 口語訳聖書
「見てもらおうとして」
「見てもらおうとしてθεάομαι」は「驚きの目で見る、観察する、じっくりと眺める、感づく、見つけ」られようとしての意。彼はただ「見られる」だれでは満足しない、「驚き見られる」でなくてはならない。そこで、人々の前に出て、その面前で「善行」を行った。しかし、人の目があるという理由で善行を止めるのは、見られている所でことさらになされる善行よりもたちが悪い。
(心のデボーション4819)
心のデボーション4820
「縲絏の中にて生みし我が子オネシモの事をなんぢに願ふ。」 ピレモン1:10 大正文語訳聖書
「捕われの身で産んだわたしの子供オネシモについて、あなたにお願いする。」 口語訳聖書
「捕われの身で産んだわたしの子」
ピレモンはパウロが獄中にあって「産んだわたしの子供」であった。(ピレモン1:10)「産む」を意味するギリシャ語「γεννάω」は妻ばかりでなく夫にも使われる。(マタイ1:2「アブラハム、イサクを生み」) パウロの囚われがピレモンを生んだ。
(心のデボーション4820)
コメント