心のデボーション4801
「わが時はすべてなんぢの手にあり ねがはくはわれを仇の手よりたすけ われに追迫るものより助けいだしたまへ」 詩篇31:15 明治元訳聖書
「わたしの時はあなたのみ手にあります。わたしをわたしの敵の手と、わたしを責め立てる者から救い出してください。」 口語訳聖書
「わたしの時」
「わたしの時はあなたのみ手にあります」。(詩篇31:15) 「わたしの時 עֵת」は「時、時期、時代」の意で、フランシスコ会訳聖書は「わたしの生涯」と訳す。LXXはκαιρός「時、時代、時期、機会、決定的な時、定められた時」が用いられる。「私の人生の時」は神の御手のなかで静かにその時を刻む。
(心のデボーション4801)
心のデボーション4802
「なんぢの僕のたましひを悦ばせたまへ 主よわが霊魂はなんぢを仰ぎのぞむ」 詩篇86:4 明治元訳聖書
「あなたのしもべの魂を喜ばせてください。主よ、わが魂はあなたを仰ぎ望みます。」 口語訳聖書
「いたいの いたいの」
「いたいの、いたいの、とんでけー」。この素晴らしいおまじないをはじめて使ったのは誰だろうか。小麦粉を入れただけのニセ薬で病気が治ったりするプラセボ効果はよく知られている。プラセボはラテン語で「喜ばせる」という意味である。身体が喜びを感じていれば、痛みはどこかにとんで行ってしまうのです。心が痛むとき、そっと「いたいの、いたいの、とんでけー」とささやいてみるとよいかもしれません。
(心のデボーション4802)
心のデボーション4803
「心のたのしみは良薬なり 霊魂のうれひは骨を枯す」 箴言17:22 明治元訳聖書
「心の楽しみは良い薬である、たましいの憂いは骨を枯らす。」 口語訳聖書
「プラセボ効果」
身体に何の効果を与えない偽薬を処方したのに、なんらかの改善がみられるのを「プラセボ効果Placebo effect」といい、逆に症状が悪化することを「ノセボ効果nocebo effect」と呼ぶ。Placeboはラテン語の動詞「placere私は喜ばせる」が語源で、noceboはラテン語で「私は害を与える」の意である。信じて飲むか、疑って飲むかによって効果が分かれることがある。
(心のデボーション4803)
心のデボーション4804
「その子女みな起てかれを慰むれどもその慰謝をうけずして我は哀きつつ陰府にくだりて我子のもとにゆかんといふ斯その父かれのために哭ぬ」 創世37:35 明治元訳聖書
「子らと娘らとは皆立って彼を慰めようとしたが、彼は慰められるのを拒んで言った、「いや、わたしは嘆きながら陰府に下って、わが子のもとへ行こう」。こうして父は彼のために泣いた。」 口語訳聖書
「私を忘れないで」
「ねぇ、おかあさん わたしではだめなの?」(若林一美「悲しみを超えて生きる」講談社1998/3より)
ヤコブは息子ヨセフを失って、悲しみに胸がふさがれ「よみにいるわが子のところに下って行きたい」と泣く。子どもを亡くした親は、時に残された子どもの存在を忘れる。どんなに深い悲しみの中にあっても、周囲に泣いてくれる人のいることを忘れてはいけない。悲しみは自分一人のものではない。
(心のデボーション4804)
心のデボーション4805
「互に相訴ふるは既に當しく汝らの失態なり。何故むしろ不義を受けぬか、何故むしろ欺かれぬか。」 Ⅰコリント6:7 大正文語訳聖書
「そもそも、互に訴え合うこと自体が、すでにあなたがたの敗北なのだ。なぜ、むしろ不義を受けないのか。なぜ、むしろだまされていないのか。」 口語訳聖書
「敗北の意味」
教会の内部で「互に訴え合うこと自体が、すでにあなたがたの敗北なのだ」。(Ⅰコリント6:7) 「敗北ἥττημα」は「敗北、負け」の意。NKJVは「failure失敗」と訳す。この失敗の意味を知ることが失敗を癒してくれる。
(心のデボーション4805)
心のデボーション4806
「ヱホバよ朝になんぢわが聲をききたまはん 我あしたになんぢの爲にそなへして俟望むべし」 詩篇5:3 明治元訳聖書
「主よ、朝ごとにあなたはわたしの声を聞かれます。わたしは朝ごとにあなたのために、いけにえを備えて待ち望みます。」 口語訳聖書
「言葉を整え」
フランシスコ会訳聖書は本節を「朝、あなたはわたしの声を聞いてくださいます。朝、わたしは言葉を整え、あなたを待ち望みます」と訳す。人が「言葉を整える」のは、神が私の声を聞いてくださるからである。整えられた言葉は神を待ち望む。
(心のデボーション4806)
心のデボーション4807
「神ソロモンに智慧と聰明を甚だ多く賜ひ又廣大き心を賜ふ海濱の沙のごとし」 Ⅰ列王4:29 明治元訳聖書
「神はソロモンに非常に多くの知恵と悟りを授け、また海べの砂原のように広い心を授けられた。」 口語訳聖書
「自分を感じること」
ニューヨークにプロの俳優を養成する専門のスタジオがある。そのプログラムの中心は「自分を感じること」だそうである。自分というものをつきとめなければ人を演じることはできないと考える。自分にしか存在しないものをつきとめることができたら、どんなにやさしくなれることだろうか。慰められるのは、それは私が気づくのをいつまでも待っていてくれるということである。
(心のデボーション4807)
心のデボーション4808
「そのロマに居りし時には懇ろに尋ね來りて、遂に逢ひたり」 Ⅱテモテ1:17 大正文語訳聖書
「ローマに着いた時には、熱心にわたしを捜しまわった末、尋ね出してくれたのである。」 口語訳聖書
「求め」
捕らわれてローマに到着したパウロの所在は教会にもはっきりしなかったようだ。オネシポロはそのパウロを「熱心に捜しまわった末、尋ね出した」。(Ⅱテモテ1:17) 「熱心に捜すσπουδαίως ἐζήτησέν」は「熱心にσπουδαίως
(急いで、真剣に、切に)」+「ζητέω(追求し、探求し、捜索する)」である。魂は、「熱心に捜しまわった末、尋ね出す人」を捜し求める。
(心のデボーション4808)
心のデボーション4809
「汝ら見られんために己が義を人の前にて行わぬよう心せよ。然らずば、天にいます汝らの父より報いを得じ」マタイ6:1 大正文語訳聖書
「自分の義を、見られるために人の前で行わないように、注意しなさい。もし、そうしないと、天にいますあなたがたの父から報いを受けることがないであろう。」 口語訳聖書
「他人の視線」
人が感じる他人の「視線」は、実はその人自身の内にある、自分の目が自分に向ける視線に他ならない。この内なる視線に「見られようとして」善行をしないようにとイエスは言われる。内なる視線から解放されれば、外の視線に行動が影響を受けることはなくなる。
(心のデボーション4809)
心のデボーション4810
「されど汝は健全なる教に適ふことを語れ」 テトス2:1 大正文語訳聖書
「しかし、あなたは、健全な教にかなうことを語りなさい。」 口語訳聖書
「健全な教え」
すべての教えが「健全な教え」ではない。「健全な教えὑγιαίνω」とは「健康である、病が癒されている」の意で、「癒しとる力ある教え」のことである。悩みに閉じ込めて、そこから解放する道筋を持たない教えは健全ではない。
(心のデボーション4810)
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