心のデボーション4751
「何ゆゑ兄弟の目にある塵を見て、己が目にある梁木を認めぬか。」 ルカ6:41 大正文語訳聖書
「なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。」 口語訳聖書
「自分の正体」
「子曰、視其所以、観其所由、察其所安、人焉廋哉。(人焉廋哉子曰わく、其の以す所を視、其の由る所を観、其の安んずる所を察れば、人焉んぞ廋さんや。人焉んぞ)」孔子
その人の行為を見、その行為の原因、動機を知り、その人がどこに安らぎを得るかを見れば、その人の正体が分かると孔子は語る。まずは、それに従って自分の正体を知りたい。
(心のデボーション4751)
心のデボーション4752
「汝おのれの水溜より水を飮み おのれの泉より流るる水をのめ」 箴言5:15 明治元訳聖書
「あなたは自分の水ためから水を飲み、自分の井戸から、わき出す水を飲むがよい。」 口語訳聖書
「一本の井戸」
箴言5:15で、「妻」は「深い井戸」にたとえられる。荒野から帰った夫の乾きをいやすのは妻の差し出す一杯の冷たい水である。汲めば汲むほど、井戸は新しい水をたたえる。夫婦から喜びが失われるのは、汲み上げることをしないからではないか。妻から汲むことをしない夫は、自分の井戸も枯らしてしまう。井戸は二本あるのではなく、夫と妻で一本の井戸である。
(心のデボーション4752)
心のデボーション4753
「そは此のことの汝らの祈とイエス・キリストの御靈の賜物とによりて、我が救となるべきを知ればなり。」 ピリピ1:19 大正文語訳聖書
「なぜなら、あなたがたの祈と、イエス・キリストの霊の助けとによって、この事がついには、わたしの救となることを知っているからである。」 口語訳聖書
「霊の助け」
「祈と、イエス・キリストの霊の助けとによって、この事〔「あらゆるしかたで、キリストが宣べ伝えられている」こと(新改訳聖書)〕がついには、わたしの救となる」とパウロは確信する。(ピリピ1:19) 「イエス・キリストの霊の助けἐπιχορηγίας τοῦ πνεύματος ἰησοῦ χριστοῦ」、「助けἐπιχορηγία」は「備え、支え、助け、供給」を意味し、主はキリストの「霊をもって備え、霊によって支え、霊の供給をし」給うことにより、すべての事は相働きて益となる。
(心のデボーション4753)
心のデボーション4754
「裂に時あり縫に時あり 默すに時あり語るに時あり」 伝道3:7 明治元訳聖書
「裂くに時があり、縫うに時があり、黙るに時があり、語るに時があり、」 口語訳聖書
「語る時、沈黙する時」
どうしても言わなければならないと感じても、相手を怒らせないために沈黙しなければならない時もある。それを言えば相手を怒らせると分かっていても、言わなければならない時もある。言うべきでない時に言ってしまったり、沈黙してしまうのは、相手を本当には見ていないからかもしれない。自分を与える備えさえできれば、沈黙していても相手に語り、語っていても深く沈黙を守ることができる。いつ語り、いつ黙るかは愛が知っている。
(心のデボーション4754)
心のデボーション4755
「詭計をもて得たる資財は減る されど手をもて聚めたくはふる者はこれを増すことを得」 箴言13:11 明治元訳聖書
「急いで得た富は減る、少しずつたくわえる者はそれを増すことができる。」 口語訳聖書
「急いで得た富」
明治元訳聖書はヘブル語から「詭計をもて得たる資財」と訳し、口語訳聖書はLXXから「急いで得た富ὕπαρξις ἐπισπουδαζομένη」と訳す。ἐπισπουδάζωは「駆り立てる」の意。「詭計(いつわり)」のヘブル語「הֶבֶל」は「つまらないこと、むなしい」の意。富は手にて少しずつ蓄えるべきものである。
(心のデボーション4755)
心のデボーション4756
「かつ天より聲出づ『なんぢは我が愛しむ子なり、我なんぢを悦ぶ』」 マルコ1:11 大正文語訳聖書
「すると天から声があった、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」 口語訳聖書
「王の即位」
イエスがバプテスマを受けられ、水から上がられると、天から「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」の声があった。(マルコ1:11 マタイ3:17) 「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」は詩篇2:6-9からの、王の即位をあらわすことばである。(詩篇89:27 Ⅱサムエル7:14) イエスは新しい神の国の王として即位された。
(心のデボーション4756)
心のデボーション4757
「なんぢのわが心にあたへたまひし歓喜はかれらの穀物と酒との豊かなる時にまさりき」 詩篇4:7 明治元訳聖書
「あなたがわたしの心にお与えになった喜びは、穀物と、ぶどう酒の豊かな時の喜びにまさるものでした。」 口語訳聖書
「遊び」
時には遊びほうけるというのも良い。遊びを心底楽しめる人は、自分の生き方に満足しているに違いない。人生に嫌気がさしている時には、遊びもどこか空しく感じられる。どうやっても、人生に意欲が取り戻せない時に、思い切って自分を遊ばせるのもひとつの方法である。単純に遊ぶことだ。遊びに意味など求めていては、心は「喜ぶ」ことができない。
(心のデボーション4757)
心のデボーション4758
「神は凡ての滿ち足れる徳を彼に宿して、」 コロサイ1:19 大正文語訳聖書
「神は、御旨によって、御子のうちにすべての満ちみちた徳を宿らせ、」 口語訳聖書
「御子イエス・キリスト」
「御子のうちにすべての満ちみちた徳を宿らせ」、聖書協会共同訳聖書「神は、御心のままに満ち溢れるものを/余すところなく御子の内に宿らせ」。「満ちみちた徳τὸ πλήρωμα」は「満ち満ちたもの」の意であり、祥訳聖書は「神の充満<神の完全、力、属性の全量>」と訳す。新改訳聖書「満ち満ちた神の本質」。御子イエス・キリストに「神の完全、力、属性の全量」が「宿ったκατοικέω(定住した)」。
(心のデボーション4758)
心のデボーション4759
「さらば汝らの天の父の全きが如く、汝らも全かれ」 マタイ5:48 大正文語訳聖書
「それだから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」 口語訳聖書
「愛の完全」
神の愛が完全であるように、あなた方も愛において完全でありなさい。「完全τέλειος」は「τέλος その終りに
達していること、成長し切る、完全」からきた言葉で、「(自分で自分の意図、計画を)成し遂げ、(他人の為
にその意図、計画を)達成させる、叶える」の意である。
(心のデボーション4759)
心のデボーション4760
「われ汝にむかひて罪ををかすまじき爲になんぢの言をわが心のうちに蔵へたり」 詩篇119:11 明治元訳聖書
「わたしはあなたにむかって/罪を犯すことのないように、心のうちにみ言葉をたくわえました。」 口語訳聖書
「信仰の鼎足」
「我は聖書と天然と歴史とを極めんかな」。(内村鑑三『内村鑑三随筆集』信仰の鼎足 岩波文庫832-833)彼は「聖書と自然と歴史」を信仰の鼎足とし、その一つを欠いても信仰は健全ではないとした。「聖書をもって科学の僭越を矯め、歴史の供する常識を以て二者の均衡を保つ」信仰であった。
(心のデボーション4760)
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