心のデボーション475

デボーション1
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心のデボーション4741

「この福音は神その預言者たちにより、聖書の中に預じめ御子に就きて約し給ひしものなり。」 ロマ1:2 大正文語訳聖書

「この福音は、神が、預言者たちにより、聖書の中で、あらかじめ約束されたものであって、」 口語訳聖書

 「聖書の中に」

神の福音は、神が「聖書の中で(聖書の中に)ἐν γραφαῖς ἁγίαις」、「あらかじめ約束されたもの」である。「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なる神を愛する者」(マタイ22:37)は、聖書の中に「約束された福音」を見出す。「聖書の中にἐν γραφαῖς ἁγίαις」深く入れ。英語「福音gospel」は「 god (良い)+ spel (話、メッセージ)」の意であったが、godをGodとして「神に関する話」から「福音書」をあらわすようになった。

(心のデボーション4741)

心のデボーション4742

「われらの男子はとしわかきとき育ちたる草木のごとくわれらの女子は宮のふりにならひて刻みいだしし隅の石のごとくならん」 詩篇144:12  明治元訳聖書

「われらのむすこたちはその若い時、よく育った草木のようです。われらの娘たちは宮の建物のために刻まれたすみの柱のようです」 口語訳聖書

 「したいことをさせる」

河合隼雄さんによるとスイスの幼稚園では先生が入口のところで子どもに「あなたは今日、なにをしたい?」と聞くのだそうである。「スベリ台」と答えると「はい、スベリ台のところに行きなさい」と言い、あとはほったらかし。ある遊びに大勢の子どもが集中しても、その調節は子どもたちにまかせる。それなら、先生は楽かといえば逆で、子どもにやりたいことをやらせることができるには、すごいエネルギーが必要だそうである。ふと、神さまのご苦労を思わないだろうか。

(心のデボーション4742)

心のデボーション4743

「その國の使者たちに何とこたふべきや 答へていはん ヱホバ、シオンの基をおきたまへり その民のなかの苦しむものは避所をこの中にえん」 イザヤ14:32  明治元訳聖書

「その国の使者たちになんと答えようか。「主はシオンの基をおかれた、その民の苦しむ者はこの中に避け所を得る」と答えよ。」 口語訳聖書

 「苦しむ者」

ヘブル語「苦しむ者ע‏ָנִי ‏」は「苦しみ、悩み、貧しい、謙遜な」の意である。苦しみは人を謙遜にし、神の中に「避け所」を見出す。LXXταπεινόςは「身を低くする、卑しい、貧しい、へりくだった、謙遜な人」である。神は、心へりくだる者を慰め給う。

(心のデボーション4743)

心のデボーション4744

「ヱホバ如此いひたまふ 視よわれ河のごとく彼に平康をあたへ 漲ぎる流のごとく彼にもろもろの國の榮をあたへん 而して汝等これをすひ背におはれ膝におかれて樂しむべし」 イザヤ66:12  明治元訳聖書

「主はこう言われる、「見よ、わたしは川のように彼女に繁栄を与え、みなぎる流れのように、もろもろの国の富を与える。あなたがたは乳を飲み、腰に負われ、ひざの上であやされる。」 口語訳聖書

 「心を傷つけられた子」

赤ん坊はただ泣くことしかできない。母親がすぐ手を伸ばしてくれれば、安心し、人に信頼することを覚える。泣いてもほっておかれれば、不安におびえ、人を疑うようになる。「あなたは、あなたのままでかわいい」というメッセージを伝えなければ、子どもは心を傷つけられ、ありのままの自分を評価して生きることができなくなる。赤ん坊は、親の視線を自分に吸収し、自分として一生感じ続ける。ひざの上でかわいがられた子は若草のように生き返る。

(心のデボーション4744)

心のデボーション4745

「かれは義人のために聰明をたくはへ 直く行む者の盾となる」 箴言2:7 明治元訳聖書

「彼は正しい人のために、確かな知恵をたくわえ、誠実に歩む者の盾となって」 口語訳聖書

 「誠実に歩む者」

「ユングは、第一人格が善玉で第二人格が悪玉のようにみえるとき、その第二人格を「悪」として否定するのではなく、第一人格の一面性を補償し新しい人格の発展の可能性をもつ傾向が、第一人格との統合を妨害された結果生ずるものと考えた」。(河合隼雄「日本文化のゆくえ」岩波書店2000.5より) 生きることを退けられた人格の暗黒面を自己として統合してゆく過程が人格の成熟であるという。

(心のデボーション4745)

心のデボーション4746

「事毎に謙遜と柔和と寛容とを用ひ、愛をもて互に忍び」 エペソ4:2  大正文語訳聖書

「できる限り謙虚で、かつ柔和であり、寛容を示し、愛をもって互に忍びあい、」 口語訳聖書

 「力の及ばないこと」

「力の及ばないことに無駄なほねおりをするな。すでに示されたことでさえ、人間の理解を超えている」。(旧約聖書外典ベン=シラの知恵 フランシスコ会訳聖書) 「力の及ばないこと」、日本聖公会訳聖書「汝に過ぎたる働」、新共同訳聖書「できないこと」、聖書協会共同訳聖書「なすべき務めを超えたこと」。「〔神が〕すでに示されたことでさえ、人間の〔あなたの〕理解を超えている」。「力の及ばないことπερισσός」は「必要以上の、過度に、思いあがって」の意。

(心のデボーション4746)

心のデボーション4747

「孰の家に入るとも、先づ平安この家にあれと言へ」 ルカ10:5  大正文語訳聖書

「どこかの家にはいったら、まず『平安がこの家にあるように』と言いなさい。」 口語訳聖書

 「ファミリーロマンス」

子どものころ、私は自分が橋の下で生まれた子だと思い込んでいた。当時の「橋」は木製で、その下にむしろを張って生活していた人もいたのである。子どもは自分を意識しはじめると、自分の出生の物語を創ることがある。それを「ファミリーロマンス」と言う。「今のお母さんはお母さんじゃない。本当のお母さんは別にいる」などと考えていることがわかっても、うろたえたり悲しんだりしないこと。健全に成長している証拠で、そっとしておけばよい。ファミリー・ロマンスFamily Romanceは、フロイトが提唱した精神分析の概念で「家族空想」とも訳される。

(心のデボーション4747)

心のデボーション4748

「我より前に使徒となりし人々に逢はんとてエルサレムにも上らず、アラビヤに出で往きて遂にまたダマスコに返れり」 ガラテヤ1:17  大正文語訳聖書

「また先輩の使徒たちに会うためにエルサレムにも上らず、アラビヤに出て行った。それから再びダマスコに帰った」 口語訳聖書

 「アラビヤの地」

パウロは回心後、「先輩の使徒たちに会うためにエルサレムにも上らず〔エルサレムの先輩の使徒たちに会って、今後のことについて助言を求めることもせず〕」、「アラビヤに出て行った」。昨日まで教会の迫害者であったパウロの回心が、ただちにエルサレムの信徒たちに受け入れられなかったであろうことは想像できる。パウロは一人アラビヤにゆき、神に導かれるまま宣教を開始した。これもまた神の御計画によるものであった。

(心のデボーション4748)

心のデボーション4749

「さらば汝らの天の父の全きが如く、汝らも全かれ」 マタイ5:48 大正文語訳聖書

「それだから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」 口語訳聖書

 「完全」

「完全τέλειος」は、存在に関する事柄。神がご自分を成し遂げ、実現し、達成されるように、人は自らを成し遂げる。人は自らを神ではないと自認することにおいて「完全τέλειος」である。

(心のデボーション4749)

心のデボーション4750

「涙とともに播くものは歡喜とともに穫らん」 詩篇126:5  明治元訳聖書

「涙をもって種まく者は、喜びの声をもって刈り取る。」 口語訳聖書

 「罪深い世界を」

二―バーの祈り第三節は「これまでの私の考え方を捨て、イエス・キリストがされたように、この罪深い世界をそのままに受け入れさせてください。Taking, as Jesus did,This sinful world as it is,Not as I would have it,」である。「イエス・キリストがされたように」は、主の十字架を意味している。十字架に、そのまま受け入れられた「罪深い世界」は、復活により新しいいのちを吹き込まれた。

(心のデボーション4750)

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