心のデボーション4731
「御子を我が内に顯して其の福音を異邦人に宣傳へしむるを可しとし給へる時、われ直ちに血肉と謀らず、」 ガラテヤ1:16 大正文語訳聖書
「異邦人の間に宣べ伝えさせるために、御子をわたしの内に啓示して下さった時、わたしは直ちに、血肉に相談もせず、」 口語訳聖書
「血肉に相談せず」
パウロは神の召命を受けて「直ちに、血肉に相談する」ことをしなかった。「血肉」と訳されたギリシャ語は「σαρκὶ καὶ αἵματι(肉と血)」で、「神に対する弱い人間」を意味する。神の御心は「人間的な思考」をもって判断することはできない。
(心のデボーション4731)
心のデボーション4732
「聽くところの耳と視るところの眼とはともにヱホバの造り給へるものなり」 箴言20:12 明治元訳聖書
「聞く耳と、見る目とは、ともに主が造られたものである。」 口語訳聖書
「聞く耳」
自分を他人とは違う特別な存在と思うことと、他人と同じ普通の人と思うのでは、どちらが意味深いだろうか。答は簡単には出ない。ただ、わかることは、特別の存在でありつづけるには、自分を他人と同じに思えなければならないということである。自分を他人と同じ普通の人に思えてはじめて、人のことばに耳を傾け、「聞く耳」をもつことができる。それが、その人を他人とは違う特別な存在にする。
(心のデボーション4732)
心のデボーション4733
「われらが彼に言ふべき事を我らに敎へよ 我らは暗昧して言詞を列ぬること能はざるなり」 ヨブ記37:19 明治元訳聖書
「われわれが彼に言うべき事をわれわれに教えよ、/われわれは暗くて、言葉をつらねることはできない。」 口語訳聖書
「空白」
エリフはヨブに「われわれは暗くて、言葉をつらねることはできない」と言う。(ヨブ記27:19) 「暗いחֹשֶׁךְ」は「闇、秘密の場所、暗さ」の意である。TEVはour minds are blankと訳す。英語blankは中世のフランス語blanc(白い、色のない)からきて「空白な」の意をあらわす。「空白な心」からは神に申し上げることばがでない。「神は心のこざかしい者を決して顧みない」(ヨブ記37:24 新改訳聖書訳)
(心のデボーション4733)
心のデボーション4734
「受けしとき、家主にむかひ呟きて言ふ、」 マタイ20:11 大正文語訳聖書
「もらったとき、家の主人にむかって不平をもらして」 口語訳聖書
「文句」
ぶどう園の主人に賃金のことで「文句をつけた」のは失敗だった。文句は言いやすいわりには報われることの少ない、効率の悪い抗議であった。仲間が遅れて雇われたのに、自分と同じ額の賃金をもらえた幸せを、一緒に喜ぶことができたら、主人の態度も違ったものになったかもしれない。文句より、感謝の方がずっと報われる。文句が引き寄せるのは文句でしかない。「文句γογγύζω」は文字通り「ぶつぶつ不平を言う」の意。
(心のデボーション4734)
心のデボーション4735
「ヱホバ宣給く わが民はゆゑなくして俘れたり されば我ここに何をなさん ヱホバのたまはく 彼等をつかさどる者さけびよばはり わが名はつねに終日けがさるるなり」 イザヤ52:5 明治元訳聖書
「それゆえ、今わたしはここに何をしようか。わが民はゆえなく捕われた」と主は言われる。主は言われる、「彼らをつかさどる者はわめき、わが名は常にひねもす侮られる。」 口語訳聖書
「良心の囚人」
アムネスティ・インターナショナルAmnesty Internationalは、1961年に、当時軍事政権下にあった国のカフェで、学生二人が「自由のために!」と乾杯したために逮捕され、7年の刑を受けたという記事に衝撃を受けた英国の弁護士ピーター・ベネンソンは暴力をもちいていないのに、自らの信念や人種、宗教、肌の色などを理由に囚われの身となった人びとを「良心の囚人prisoners of conscience」と呼び、彼らの釈放を求め、世界各地の市民の手で各国の政府に手紙を書こう、と呼びかけたことに始まる市民運動である。Amnestyアムネスティは「恩赦、特赦、解放」を意味することばである。「ゆえなく捕らわれた人々」(イザヤ52:5)を忘れてはならない。
(心のデボーション4735)
心のデボーション4736
「主ヱホバの靈われに臨めり こはヱホバわれに膏をそそぎて貧きものに福音をのべ傳ふることをゆだね 我をつかはして心の傷める者をいやし俘囚にゆるしをつげ 縛められたるものに解放をつげ」 イザヤ61:1 明治元訳聖書
「主なる神の霊がわたしに臨んだ。これは主がわたしに油を注いで、貧しい者に福音を宣べ伝えることをゆだね、わたしをつかわして心のいためる者をいやし、捕われ人に放免を告げ、縛られている者に解放を告げ、」 口語訳聖書
「貧しい者への福音」
主は「貧しい者」に福音を宣べ伝えられる。(イザヤ61:1) 「貧しい者עָנָו」は「謙遜な、へりくだった、貧しい」の意。LXXはπτωχός「決定的に貧しい、無一物の」。決定的な魂の貧しさに心を痛めるへりくだった謙遜な者に「捕われ人に放免を告げ、縛られている者に解放が告げられる。(マタイ5:3)
(心のデボーション4736)
心のデボーション4737
「汝の神ヱホバ汝をして美地に到らしめたまふ是は谷にも山にも水の流あり泉あり瀦水ある地」 申命記8:7 明治元訳聖書
「それはあなたの神、主があなたを良い地に導き入れられるからである。そこは谷にも山にもわき出る水の流れ、泉、および淵のある地、」 口語訳聖書
「良い地」
引っ越しで一番困るのが植物であろう。植物は自分の好きな場所があって、それ以外のところではみるみる勢いをなくしてしまうからである。そのたびに重い鉢をかかえてウロウロしなければならない。高さ80センチ、胴まわり20センチの「金のなる木」は台所がよく、一年中咲きっぱなしの花キリンはどういうわけか寝室がお好みのようだ。人にも自分を生かす場所があり、それはウロウロと探すしかない。
(心のデボーション4737)
心のデボーション4738
「われ汝ををしへ汝をあゆむべき途にみちびき わが目をなんぢに注てさとさん」 詩篇32:8 明治元訳聖書
「わたしはあなたを教え、あなたの行くべき道を示し、わたしの目をあなたにとめて、さとすであろう。」 口語訳聖書
「信仰を迷信になるまで固執すること」
「信仰を迷信になるまで固執することは、それを破壊することであるTo carry piety as far as superstition is to destroy it.」。(パスカル「パンセ」255前田陽一・由木康訳 中央公論社1973)superstitionはラテン語superstitionem(神への過度な恐れ、迷信)を語源とし、「誤った宗教的信念、神秘への無知な恐れ、異教の神々への礼拝」を意味する。「神を恐れる」を意味するギリシャ語δεισιδαιμονίαは「敬神」と「迷信」の両意味を持つ。熱心な信仰は「迷信」への誘惑にさらされる。
(心のデボーション4738)
心のデボーション4739
「さらば汝らの天の父の全きが如く、汝らも全かれ」 マタイ5:48 大正文語訳聖書
「それだから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」 口語訳聖書
「多少の暗霧」
「この人生に於いてはあらゆる完全、皆多少の不完全を伴うている。で、私共の思索にも、すべて多少の暗霧の懸からぬはない」。(アケンピス「基督のまねび」内村達三郎訳 春秋社昭和21年2月) 「多少の不完全」を伴い、「多少の暗霧」が懸かるのをも喜べ。それなくしては「知る」喜びもない。
(心のデボーション4739)
心のデボーション4740
「『時は滿てり、神の國は近づけり、汝ら悔改めて福音を信ぜよ』」 マルコ1:15 大正文語訳聖書
「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」 口語訳聖書
「心ォ切り換ァで」
ケセン語訳聖書(山浦玄嗣訳聖書)は本節を「心ォ切り換ァで、こらがらァずっとこの良い便りに、その身も心も委ね続げろ」と訳す。「悔い改めてμετανοέω」は「考えを切り替える」の意であることから、「悔い改め」を「「心ォ切り換ァで」とした。「一度正しい進路に方向転換したら、後はもう過去のことに捕らわれす、明るくまっすぐに前へ進むことが大切です」。(山浦玄嗣「イエスのことば」文藝春秋2011/11より)
(心のデボーション4740)
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