心のデボーション473

デボーション1
Generic selectors
完全一致
タイトルから
記事本文から
Post Type Selectors
Filter by Categories

心のデボーション4721

「ヱホバは月をつくりて時をつかさどらせたまへり 日はその西にいることをしる」 詩篇104:19  明治元訳聖書

「あなたは月を造って季節を定められた。日はその入る時を知っている。」 口語訳聖書

 「月日」

神は「月を造って季節を定められた」。(詩篇104:19) 時と空間は神の御手の中にある。ローマ暦で月をあらわすのは、7月「Quintilis5番目の月」、8月「Sextilis6番目の月」、9月「September7番目の月」、10月「October8番目の月」11月「November9番目の月」、12月「December10番目の月」である。ローマ暦は3月を起点をあらわす「一番目の月」と定めたので、そこからそのような月の名称がつけられた。9月は「Septem7+時をあらわす接尾語-ber」で「7番目の月」である。ちなみにローマ暦の元になったロムヌス暦は3月から12月までの10カ月分で、11月と12月は名前がつけられていない2カ月間である。

聖書には神がイスラエルに与えられた「暦」があり、現代のユダヤ人まで、それに従って生活をしている。(→聖書暦)

(心のデボーション4721)

心のデボーション4722

「しかしてヱホバ、ハンナをかへりみたまひければハンナ孕みて三人の男子と二人の女子をうめり童子サムエルはヱホバのまへにありて生育てり」 Ⅰサムエル2:21  明治元訳聖書

「こうして主がハンナを顧みられたので、ハンナはみごもって、三人の男の子とふたりの女の子を産んだ。わらべサムエルは主の前で育った。」 口語訳聖書

 「面倒みのよすぎる恐竜」

「面倒みのいい母親」という名前の恐竜がいる。カモノハシ竜マイアサウラMaiasauraで、成獣は体長10メートルに達する。赤ちゃんは50 ㎝くらいで誕生し、1年で3メートルに成長する。土を盛り上げたドーム型の大営巣地からかえったばかりの小さな赤ちゃんと子どもの化石が米国で多数みつかったが、体長1メートルを超えるものは一体もなかった。マイアサウラの母親は、わが子が1メートルを超えると巣から追い出したと考えられる。そこから「良い母親トカゲマイアサウラMaiasaur」という名がつけられた。Maiasaurはラテン語で「Maia マイア、良い母親+saura爬虫類、竜」の意。

現代は体長が自分をはるかに超えても、巣から追い出せないどころか、乳まで与え続けようとする「面倒みのよすぎる母親恐竜」が出現しているようである。

(心のデボーション4722)

心のデボーション4723

「アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系圖(けいず)」 マタイ1:1 大正文語訳聖書

「アブラハムの子であるダビデの子、イエス・キリストの系図。」 口語訳聖書

 「救いの系譜」

マタイの「イエスの系図γένεσις」は多くの英語聖書に「genealogy(系譜、宗家、家系)と訳される。英語genealogyはフランス語genealogieからきて、ラテン語genealogia(家族の系譜を辿る)、ギリシャ語γενεα-λογία(家族の系譜を辿ること)が語源である。神の救いの約束(契約)は数百年を超える年月を各世代を経て成就し、「私」にいたり、さらに、数百年を超える年月を各世代に証し続けるのである。

(心のデボーション4723)

心のデボーション4724

「彼らを捨ておけ、盲人を手引する盲人なり、盲人もし盲人を手引せば、二人とも穴に落ちん」 マタイ15:14  大正文語訳聖書

「彼らをそのままにしておけ。彼らは盲人を手引きする盲人である。もし盲人が盲人を手引きするなら、ふたりとも穴に落ち込むであろう」 口語訳聖書

 「放っておきなさい」

どんなに正しいことばでも、それを理解しようとしない人はいる。イエスは、そのような人のことは「放っておきなさいἀφίημι  」と言われる。ἀφίημι  は「捨ておく、構わずにおく、そのままに任せる」の意である。冷たく突き放すのではなく、あたたかく放置する。反対する人を自分から締め出さないこと。反対者を構わずにいられるのも一つの正しさである。何もしないことが多くを生む。

「彼らを捨ておけ」の英語訳「Let them alone放っておく・放任する・独りにしておく・そっとしておけ」( KJV・NKJ V・ASV・etc.)と訳し、MSBは「Disregard them!無視せよ!」である。

(心のデボーション4724)

心のデボーション4725

「汝らの知るごとく、彼はそののち祝福を受けんと欲したれども棄てられ、涙を流して之を求めたれど囘復の機を得ざりき。」 へブル12:17  大正文語訳聖書

「あなたがたの知っているように、彼はその後、祝福を受け継ごうと願ったけれども、捨てられてしまい、涙を流してそれを求めたが、悔改めの機会を得なかったのである。」 口語訳聖書

 「頑迷の裁き」

エソウは一杯の紅羹(アドムあかきもの)と引き換えにイサクに「長子の権」を売り、「その後、祝福を受け継ごうと願ったけれども、捨てられてしまい」、「涙を流してそれを求めたが、悔改めの機会を得なかった」。(創世記27:30-40) カール・ヒルティは、これを「頑迷の裁きBigoted judgment」として「この裁きによって、無法者は死に至るまで心が打ち砕かれることなく、反抗しつづけ、神の恵みを乞い求めることをさえぎられるのである」と書く。(カール・ヒルティ「幸福論」(第二部)岩波文庫青638-4 1962/1より)

神は頑迷に反論しつづける者を「悔い改めの機会を、涙を流して求めても与えられない」までに、祝福を閉ざされる。彼が望んだままに委ねられるのである。

(心のデボーション4725)

心のデボーション4726

「己に根なければ暫し耐ふるのみにて、御言のために艱難あるひは迫害の起るときは、直ちに躓くものなり。」 マタイ13:21  大正文語訳聖書

「その中に根がないので、しばらく続くだけであって、御言のために困難や迫害が起ってくると、すぐつまずいてしまう。」 口語訳聖書

 「困難は平穏への道」

「二―バーの祈り」第二節は「Living one day at a time,Enjoying one moment at a time,Accepting hardship as a pathway to peace, 一日一日を生き、この時をつねに喜びをもって受け入れ、困難は平穏への道として受け入れさせてください。」と続く。「困難hardship」は「hard厳しさ+ship形作る」で「厳しさを形作るもの、状況」を「平穏への道として受け入れさせてください」という祈りである。ギリシャ語「困難θλῖψις」は「悩み、苦難、圧迫」の意で、ここでは「御言葉」に対する困難を指し、御言葉への「根が浅い」ところから発生する困難である。

(心のデボーション4726)

心のデボーション4727

「召されて主にある奴隷は、主につける自主の人なり。斯くのごとく自主にして召されたる者は、キリストの奴隷なり」 Ⅰコリント7:22  大正文語訳聖書

「主にあって召された奴隷は、主によって自由人とされた者であり、また、召された自由人はキリストの奴隷なのである。」 口語訳聖書

 「感動」

パウロが自分を「キリストの奴隷」という時、イエスとの出会いが感動と共に思い返されているに違いない。感動を理屈で説明するのは難しい。その瞬間に心は奪われてしまう。そして本当の感動は、その後の自分をしっかりとらえて離さない。感動を探し回る必要はない。それは出会うものだからである。ただ、感動したがっている自分を抑えないことだ。魅力的な人とは感動にとらわれた人のことではないか。「感動」をあらわすギリシャ語καίωは「火をつける、熱くする」の意である。

(心のデボーション4727)

心のデボーション4728

「神はわが強き堅衆にてわが道を全うし」 Ⅱサムエル22:33 明治元訳聖書

「この神こそわたしの堅固な避け所であり、わたしの道を安全にされた。」 口語訳聖書

 「わたしの道」

神は「わたしの堅固な避け所」、「わたしの道を安全にされる〔その道は完全(詩篇18:30)〕」。(Ⅱサムエル22:33  詩篇18:32) 「私の道my pathway(TEV)」、pathwayは古英語weg「道、道程、旅の進路」、また比喩的に「人生の進路」、複数形で「倫理的、精神的生き方」をあらわす。神は、人の行くべき道と、その道程を完全なものと守られる。

(心のデボーション4728)

心のデボーション4729

「兄弟にのみ挨拶すとも何の勝ることかある、異邦人も然するにあらずや」 マタイ5:47 大正文語訳聖書

「兄弟だけにあいさつをしたからとて、なんのすぐれた事をしているだろうか。そのようなことは異邦人でもしているではないか。」 口語訳聖書

 「異邦人」

「異邦人ἐθνικός」は漢訳聖書「税吏」、明治元訳も「税吏(みつぎとり)」である。ともにユダヤ人のもっとも軽蔑した人々である。だが、その人々も丁寧な挨拶を交わすのである。「軽蔑する人々」の「礼儀正しさ」を学べ。彼らは異なる思想、宗教、職業観の人々であっても、優れた人々である。

(心のデボーション4729)

心のデボーション4730

「我は我が蒙りたる默示の鴻大なるによりて高ぶることのなからん爲に、肉體に一つの刺を與へらる、即ち高ぶることなからん爲に我を撃つサタンの使なり。」 Ⅱコリント12:7  大正文語訳聖書

「そこで、高慢にならないように、わたしの肉体に一つのとげが与えられた。それは、高慢にならないように、わたしを打つサタンの使なのである。」 口語訳聖書

 「高慢」

Ⅱコリント12:7の口語訳聖書訳「そこで、高慢にならないように」には、原文「τῇ ὑπερβολῇ τῶν ἀποκαλύψεων(我は我が蒙りたる默示の鴻大なるによりて)が略されている。「あまりに多くの啓示を受けた」(聖書協会共同訳聖書)ことが「高慢」と結びつく。「高慢ὑπεραίρω」は「上に上げる」で「自分を高く引きあげる」の意。人は霊的なことからからも高慢になる。

(心のデボーション4730)

コメント