心のデボーション470

デボーション1
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心のデボーション4691

「智慧ある者と偕にあゆむものは智慧をえ 愚なる者の友となる者はあしくなる」 箴言13:20  明治元訳聖書

「知恵ある者とともに歩む者は知恵を得る。愚かな者の友となる者は害をうける。」 口語訳聖書

 「早く遠くまで」

アフリカの諺に「はやく進みたければひとりで行け。遠くまで進みたければみんなで行け」という。では、早く遠くまですすみたければどうするか? 私なら「友を選べ」と言う。友の中で同じ方向にゆく友なら、あまりに道が遠く、挫折しそうなときに手を引いてくれ、方向を誤りそうなときに正してくれ、その結果、一人で行くよりもはるかに早く目的地に着く。
(心のデボーション4691)

心のデボーション4692

「この婦は譁しくしてつつしみなく 其足は家に止らず」 箴言7:11  明治元訳聖書

「この女は、騒がしくて、慎みなく、」 口語訳聖書

 「狼藉者」

ほとんどのスズメはエサ場のくず米を一粒一粒口に含む。その中に一羽、若武者ふうの勇ましいのがいて、米の山に乗り、くちばしを深くさし、思いっきり首を振る。米はザッ、ザッと四方に散る。飛び散るのが面白いのか、いつまでもやめようとしない。この狼藉者に、仲間はさぞ迷惑だろうと思うと、そうではない。エサ場が怖くて近寄れない気弱なスズメがいて、飛んだ米を遠くでひろっているのである。

(心のデボーション4692)

心のデボーション4693

「信仰の導師また之を全うする者なるイエスを仰ぎ見るべし。彼はその前に置かれたる歡喜のために、恥をも厭はずして十字架をしのび、遂に神の御座の右に坐し給へり」 へブル12:2  大正文語訳聖書

「信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。彼は、自分の前におかれている喜びのゆえに、恥をもいとわないで十字架を忍び、神の御座の右に座するに至ったのである。」 口語訳聖書

 「信仰の導き手」

自分として位置づけることのできない人生の経験を、一つの物語として位置づけようとする心の成熟を示す動きがある。刺繍の裏から見れば混沌としか見えない糸の交差が、裏返して見ると、そこに美しい絵柄を見出すような経験である。主の導き()を感じるのはそのような時である。「導き手ἀρχηγός」は「創造者」の意である。

(心のデボーション4693)

心のデボーション4694

「イエスいたく憫みて彼らの目に觸り給へば、直ちに物見ることを得て、イエスに從へり。」 マタイ20:34  大正文語訳聖書

「イエスは深くあわれんで、彼らの目にさわられた。すると彼らは、たちまち見えるようになり、イエスに従って行った。」 口語訳聖書

 「傷に見合うこと」

精神科医笠原嘉は「心のなかの傷に見合うことが、どこかで起らないと、なかなか人が癒されるということは、ないのではないでしょうか」と指摘する。(笠原嘉「こころの病」岩波書店1997.3より) 道端に座っていた目の不自由な二人の男が癒されたのは、イエスとの出会いに「その身に見合うこと」が起こったからであったに違いない。

(心のデボーション4694)

心のデボーション4695

「すべての操守べき物よりもまさりて汝の心を守れ そは生命の流これより出ればなり」 箴言4:23  明治元訳聖書

「油断することなく、あなたの心を守れ、命の泉は、これから流れ出るからである。」 口語訳聖書

 「目をかける」

三才をすぎたら「手をかけないで、目をかけなさい」といわれる。「目をかける」は、先回りして手を出すのを止めて、子どもが助けを求めてきたら応じる姿勢である。「手をかけないで、目をかける」ことで育てられるのは母親自身かもしれない。子どもの心を「見守る」作業が、いつか母親の心を見守ることになっていく。子どもが助けを求めているのに、「手をかけないで、目をかけて」いる母親もいる。その目は冷たすぎる。

(心のデボーション4695)

心のデボーション4696

「それ神の見るべからざる永遠の能力と神性とは、造られたる物により世の創より悟りえて明かに見るべければ、彼ら言ひ遁るる術なし。」 ロマ1:20  大正文語訳聖書

「神の見えない性質、すなわち、神の永遠の力と神性とは、天地創造このかた、被造物において知られていて、明らかに認められるからである。したがって、彼らには弁解の余地がない。」 口語訳聖書

 「神の見えない神性」

「神の見えない性質、すなわち、神の永遠の力と神性」は「天地創造このかた、被造物において知られている」。(ロマ1:20) 「神性θειότης」は英語divinity、Godhead、divine natureと訳される。Divinityはラテン語 divus(神の、神)が語源である。「神の永遠の力と神性」は目に見えないが、被造物において知られる。神は「創造の神」である。

(心のデボーション4696)

心のデボーション4697

「されど我は汝らに告ぐ、汝らの仇を愛し、汝らを責むる者のために祈れ」 マタイ5:44 大正文語訳聖書

「しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。」 口語訳聖書

 「祝福を祈る」

『十二使徒の教え』(『ディダケー(教え)Διδαχή 第1章』)によれば、マタイ5:44は「あなたがたに悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたの敵のために祈りなさい」、「あなたがたを迫害する者のために断食しなさい」と教えられる。

自分に悪口を言う者のために祈ることはできたとしても、「祝福」を祈ることは難しい。迫害する者のために祈ることが出来たとしても、何ゆえにその者のために「断食」ができるだろうか?

(心のデボーション4697)

心のデボーション4698

「そはキリストの我を遣し給へるはバプテスマを施させん爲にあらず、福音を宣傳へしめんとてなり。而して言の智慧をもつてせず、是キリストの十字架の虚しくならざらん爲なり。」 Ⅰコリント1:17  大正文語訳聖書

「いったい、キリストがわたしをつかわされたのは、バプテスマを授けるためではなく、福音を宣べ伝えるためであり、しかも知恵の言葉を用いずに宣べ伝えるためであった。それは、キリストの十字架が無力なものになってしまわないためなのである。」 口語訳聖書

 「知恵の言葉によらず」

パウロの宣教は「知恵の言葉」によらず「十字架の言葉」によった。(Ⅰコリント1:17) ここで「知恵の言葉σοφίᾳ λόγου」は「Gnosticism  グノーシス主義」の「 γνῶσις認識、知識」である。彼らはキリストは宇宙の至高神の神性の流れαἰώνの一つで物質を創造した下位の造物主デミュウルゴスΔημιουργόςで地上に下って「グノーシス γνῶσις認識、知識」をもたらすと教えた。パウロはグノーシス主義を退け、「神の知恵、神の力」である「十字架につけられたキリスト」を宣べ伝えた。(Ⅰコリント1:23-24)

(心のデボーション4698)

心のデボーション4699

「兄弟にのみ挨拶すとも何の勝ることかある、異邦人も然するにあらずや」 マタイ5:47 大正文語訳聖書

「自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか」 新共同訳聖書

 「挨拶」

「挨拶ἀσπάζομαι」は「強く抱擁する」こと。自分の兄弟だけを「強く抱擁」し、「柵の外の人」とは抱擁しない(できない)のは、あるべきことではない。世界は内と外からなり、内のみ(外のみ)で存在せず、外あっての内、内あっての外である。「柵」は自己である。自己という「柵」を壊してはいけない。人は「柵」を出て内を知り、「柵」に戻って外を語る。 

(心のデボーション4699)

心のデボーション4700

「この確信をもて先づ汝らに到り、再び益を得させ、」 Ⅱコリント1:15  大正文語訳聖書

「この確信をもって、わたしたちはもう一度恵みを得させたいので、まずあなたがたの所に行き、」 口語訳聖書

 「祝福の計画」

パウロはマケドニアにゆく途中でコリントに寄り、また帰りにコリントに寄って、コリントの教会に「2度恵みを得させたい」という計画を立てたが、何らかの理由で計画を変更しなければならなかった。「2度恵みを得させたい」は「二度祝福を与えたい」の意。倍の祝福を願う計画も閉ざされる時もある。しかし、それもまた真実な神のなさることである。

(心のデボーション4700)

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