心のデボーション4671
「我なんぢの愆を雲のごとくに消し なんぢの罪を霧のごとくにちらせり なんぢ我にかへれ我なんぢを贖ひたればなり」 イザヤ44:22 明治元訳聖書
「わたしはあなたのとがを雲のように吹き払い、あなたの罪を霧のように消した。わたしに立ち返れ、わたしはあなたをあがなったから。」 口語訳聖書
「雲と霧」
罪は「雲」のように光を閉ざし、「霧」のように視野を妨げる。しかし、神は「雲」を吹き払い、「霧」を消し去られる。光の中に神を見、神の造られた世界が現れ、人は自己の存在をその目で見、手で触れて知る。
(心のデボーション4671)
心のデボーション4672
「凡そ事忍び、おほよそ事信じ、おほよそ事望み、おほよそ事耐ふるなり。」 Ⅰコリント13:7 大正文語訳聖書
「そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。」 口語訳聖書
「黙って隠す」
「私のこと、どれくらい愛してる?」。これはとても下手な質問だ。愛は、相手に対して不安を感じないことだからである。愛を確認しようとすれば、ますます愛がわからなくなる。聖書は、愛は「すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍ぶ」と教える。「私のこと、どれくらい信じてる?」と質問してみるとよい。相手の愛がわかる。「耐えるστέγω」は「覆い隠す」で「黙って隠す」の意。
(心のデボーション4672)
心のデボーション4673
「地は定形なく曠空くして黑暗淵の面にあり神の靈水の面を覆たりき」 創世記1:2 明治元訳聖書
「地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。」 口語訳聖書
「深淵」
古代ギリシャの哲学者デモクリトスは「真理は井戸の底にある」と言った。「われわれは何も知らない。真理は深いところにあるのだから」(デモクリトス「断片」) 神の霊が面を覆う「深淵תְּהוֹם テホーム」の深淵であろうか?
(心のデボーション4673)
心のデボーション4674
「もし神、原樹の枝を惜み給はざりしならば、汝をも惜み給はじ。」 ロマ11:21 大正文語訳聖書
「もし神が元木の枝を惜しまなかったとすれば、あなたを惜しむようなことはないであろう。」 口語訳聖書
「けんか」
良い子というのは母親や先生にかわいがられて、それで自分を守ろうとする。裏返せば、自己主張のできない子でもある。良い子でいられる間はよいが、ひとたび良い子を維持できなくなると、それまで抑えていた自己主張がむき出しの形で出てくる。そして、抑えのきかない攻撃的な自分を嫌悪する。子どもはけんかをしたり、仲直りしながら、自分の衝動に振り回されない自我を形成していく。けんかを悪いことと決めつけないこと。
(心のデボーション4674)
心のデボーション4675
「彼らは信仰によりて國々を服へ、義をおこなひ、約束のものを得、獅子の口をふさぎ、」 へブル11:33 大正文語訳聖書
「彼らは信仰によって、国々を征服し、義を行い、約束のものを受け、ししの口をふさぎ、」 口語訳聖書
「征服すべきもの」
アレクサンダー大王は「征服すべき世界が亡くなった時に泣いた」という。何一つ征服したもののないことを知っても、人は泣く。征服すべきものに囲まれて、その何一つ成し遂げていないと知る哀しさである。
(心のデボーション4675)
心のデボーション4676
「ヤコブよなんぢを創造せるヱホバいま如此いひ給ふ イスラエルよ汝をつくれるもの今かく言給ふ おそるるなかれ我なんぢを贖へり 我なんぢの名をよべり汝はわが有なり」 イザヤ43:1 明治元訳聖書
「ヤコブよ、あなたを創造された主はこう言われる。イスラエルよ、あなたを造られた主はいまこう言われる、「恐れるな、わたしはあなたをあがなった。わたしはあなたの名を呼んだ、あなたはわたしのものだ」。 口語訳聖書
「タブラ・ラーサ」
ラテン語でタブラ・ラーサtabula rasaは「何もきざまれていない石板(文字をすべて消して何も書かれていない石板)」から「白紙状態」を意味する。ジョン・ロックは、生まれたばかりの人間は「tabula rasa白紙の状態」で、その後の経験が観念を形成するという認識論を展開した。聖書は、人は生まれる前から神と共にあり、神の息を吹き込まれて人間として誕生すると教える。その意味で人は誕生した時からすでに「人間」である。
(心のデボーション4676)
心のデボーション4677
「ヱホバをおもふわが思念はたのしみ深からん われヱホバによりて喜ぶべし」 詩篇104:34 明治元訳聖書
「どうか、わたしの思いが主に喜ばれるように。わたしは主によって喜ぶ。」 口語訳聖書
「なじみ深いもの」
こわれた万年筆、廃車したバイクの鍵、昔のメガネのレンズが一枚。ある期間、自分となじんだものは簡単に捨てる気になれない。心にはそれまで自分がなじんできた思いや生き方がある。それが役に立たなくなったので苦しむが、簡単に捨ててしまわない方が良いのではないか。そういうものをもっている自分を含めて問題と取り組んでいると、何となく、道が見えてくる。(詩篇104:34)
(心のデボーション4677)
心のデボーション4678
「もし及かずば、敵なほ遠く隔るうちに、使を遣して和睦を請ふべし。」 ルカ14:32 大正文語訳聖書
「もし自分の力にあまれば、敵がまだ遠くにいるうちに、使者を送って、和を求めるであろう。」 口語訳聖書
「平和」
もし、一万の兵をもつ王に二万の敵が侵攻してきた場合、「自分の力にあまれば、敵がまだ遠くにいるうちに、使者を送って、和(εἰρήνη「平和」)を求めるべきである」と教える。では二万の味方に一万の敵の侵攻には戦うべきだろうか? そうではなく、聖書はやはり、「敵がまだ遠くにいるうちに、使者を送って、和(εἰρήνη「平和」)を求めるべきである」と教えるだろう。「平和」は戦争の勝利によるのではなく、「二つのものを一つにし、敵意という隔ての中垣を取り除き、ご自分の肉によって、二つのものをひとりの新しい人に造りかえて平和をきたらせる」キリストによるのである。(エペソ2:14-15)
(心のデボーション4678)
心のデボーション4679
「なんぢら己を愛する者を愛すとも何の報をか得べき、取税人も然するにあらずや」 マタイ5:46 大正文語訳聖書
「あなたがたが自分を愛する者を愛したからとて、なんの報いがあろうか。そのようなことは取税人でもするではないか。」 口語訳聖書
「好意」
「自分を愛してくれる人を愛する」のは、「自分に寄せられる好意」を愛しているだけかもしれない。その愛は「存在の愛」とは言えない。聖書で「好意」と訳されるギリシャ語にχάρις(恵み深い無償の愛)とπροθυμία(喜んでしようとする熱意)がある。この人が相手に求めるのはπροθυμίαかもしれない。Προθυμίαの真意を知るのはχάριςによるのである。
(心のデボーション4679)
心のデボーション4680
「非禮を行はず、己の利を求めず、憤ほらず、人の惡を念はず、」 Ⅰコリント13:5 大正文語訳聖書
「不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。」 口語訳聖書
「愛は恨まず」
「愛は…、恨みをいだかない」。(Ⅰコリント13:5) 漢字の「恨」は「忄(こ ころ)+艮(ごん)」で「すなおにきき入れな い心」すなわち「恨む」の意である。しかし、「恨みをいだかない」と訳されるギリシャ語οὐ λογίζεται τὸ κακόνは「悪を思わず」(新共同訳聖書訳)である。相手に「素直に聞き入れること」が愛というよりも、「相手の悪を思わない」のが愛である。
(心のデボーション4680)
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