心のデボーション465

デボーション1
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心のデボーション4641

「なんぢ己とおのれの教とを愼みて此等のことに怠るな、斯くなして己と聽く者とを救ふべし。」 Ⅰテモテ4:16  大正文語訳聖書

「自分のことと教のこととに気をつけ、それらを常に努めなさい。そうすれば、あなたは、自分自身とあなたの教を聞く者たちとを、救うことになる。」 口語訳聖書

 「自身をじっと見つめる」

教えを宣ぶる者は、「己のこと」と「教え」に心を向けなければならない。それによって、「自分自身」と「教えを聞く者」を救うことになる。「気をつけἐπέχω」は「かたく握る、じっと見つめる」の意。常に自身を「かたくにぎり、じっと見つめ」る。「信仰の破船τὴν πίστιν ἐναυάγησαν」にあっている者が他者を救うことができようか?

リビングバイブルは本節を「自分の思想と行動全般に、いつでも気を配っていなさい、正しいことは、あくまでも忠実でありなさい。そうすれば、神様はあなたを祝福し、他の人たちを助けるのに役立つ者としてくださいます」と訳す。

(心のデボーション4641)

心のデボーション4642

「汝らは朽つる種に由らで、朽つることなき種、すなはち神の活ける限りなく保つ言に由りて新に生れたればなり。」 Ⅰペテロ1:23  大正文語訳聖書

「あなたがたが新たに生れたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変ることのない生ける御言によったのである。」 口語訳聖書

 「ツタンカーメンのエンドウ」

1983年にイギリスの考古学者ハワード・カーターはエジプトの王家の谷でツタンカーメンの墓を発掘した。王のミイラを納めた黄金の棺から、多くの副葬品と共に、ブドー酒色をしたエンドウの種が混じっていた。三千年前のエンドウの種はイギリスで蒔かれて芽をだし、「ツタンカーメンのエンドウ」として大切に育てられた。「ツタンカーメンのエンドウ豆」は、1983年10月、2粒広島市教育センターに届けられ、翌年発芽し、1985年には35万株紫色の種約2万粒が収穫された。「朽ちない種ἄφθαρτος」は数千年の時を経て、今もなお発芽する。いのちは「朽ちない種」から生まれる。「朽ちることのないἄφθαρτος」は「腐敗することのない、不滅の」の意。

(心のデボーション4642)

心のデボーション4643

「されど我なんぢの爲に、その信仰の失せぬやうに祈りたり、なんぢ立ち歸りてのち兄弟たちを堅うせよ』」 ルカ22:32  大正文語訳聖書

「しかし、わたしはあなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈った。それで、あなたが立ち直ったときには、兄弟たちを力づけてやりなさい」。」 口語訳聖書

 「立ち直る」

ペテロはイエスを3度否定する失敗を犯したが、復活の主により失敗から立ち直る。「立ち直るἐπιστρέφω」は「向きを変える、引き返る」の意である。ペテロが方向を変えて立ち直ることができたのはイエスの愛に触れたことによる。その魂は「兄弟たちを力づけてやるστηρίζω(かたく据え付ける)」ことができる。

(心のデボーション4643)

心のデボーション4644

「ヱホバ又言給ふソドムとゴモラの號呼大なるに因り又其罪甚だ重に因て」 創世記18:20  明治元訳聖書

「主はまた言われた、「ソドムとゴモラの叫びは大きく、またその罪は非常に重いので、」 口語訳聖書

 「罪の絶叫」

ソドムとゴモラの「その罪は」は非常に重かった。「重いכָּבֵדQal(H3513)」は「重くなる、無感覚になる」の意。NKJは「their sin is very grave」と訳す。「grave」の語源はgravis(重い)に由来し、「深刻で危機的な状況」を指す。その「〔罪の〕絶叫、叫び声」は天に届いた。

(心のデボーション4644)

心のデボーション4645

「その日には喜び躍れ。視よ、天にて汝らの報は大なり、彼らの先祖が預言者たちに爲ししも斯くありき。」 ルカ6:23  大正文語訳聖書

「その日には喜びおどれ。見よ、天においてあなたがたの受ける報いは大きいのだから。彼らの祖先も、預言者たちに対して同じことをしたのである。」 口語訳聖書

 「自分を捨てる」

「自分を捨てる」というのは、からっぽの自分になることではなく、相手のことで心を満たすことではないか。自分をなくしてしまうのではなく、自分にあるものを相手に向ける。相手に自分を開くことによって、自分という存在の意味もわかる。自分を捨てる人は本当の自分と出会い、自分を捨てられない人は本当の自分を見失う。キリストに従う人はキリストのことで心をいっぱいにし、それで、自分の内に本当のいのちを見出す。

(心のデボーション4645)

心のデボーション4646

「なんぢは鍳たまへりその殘害と怨恨とを見てこれに手をくだしたまへり 倚仗なきものは身をなんぢに委ぬ なんぢは昔しより孤子をたすけたまふ者なり」 詩篇10:14  明治元訳聖書

「あなたはみそなわし、悩みと苦しみとを見て、それをみ手に取られます。寄るべなき者はあなたに身をゆだねるのです。あなたはいつもみなしごを助けられました。」 口語訳聖書

 「気持ちを送る」

「寄るべなき者はあなたに身をゆだねる」。(詩篇10:14)英訳は「The helpless commit themselves to you 無力な者はあなたに身を任せる」。Commitは「comともに+mit送る」で「気持ちを送りあう」の意。神に「気持ち」を送ること。「神はあなたがたをかえりみていて下さるのであるから、自分の思いわずらいを、いっさい神にゆだねるがよい」(Ⅰペテロ5:7)

(心のデボーション4646)

心のデボーション4647

「人はまたその時を知ず 魚の禍の網にかかり鳥の鳥羅にかかるが如くに世の人もまた禍患の時の計らざるに臨むに及びてその禍患にかかるなり」 伝道9:12 明治元訳聖書

「人はその時を知らない。魚がわざわいの網にかかり、鳥がわなにかかるように、人の子らもわざわいの時が突然彼らに臨む時、それにかかるのである。」 口語訳聖書

 「風の向き」

網がしかけられたことに気づかない魚は、自ら囲いに入っていく。時が変わったことに気づかない人は、これまでの生き方を押し通そうとして運命のわなにかかる。風の向きが変わったら、歩みかたも変えるべきである。        しかし、知らないうちに時が変わるのではないかと心配する必要はない。時はいつも「しるし」を伴ってやってくるからである。問題は時が変わったのに、それを認めたがらない心である。

(心のデボーション4647)

心のデボーション4648

「アジヤに居る者みな我を棄てしは汝の知る所なり、その中にフゲロとヘルモゲネとあり。」 Ⅱテモテ1:15  大正文語訳聖書

「あなたの知っているように、アジヤにいる者たちは、皆わたしから離れて行った。その中には、フゲロとヘルモゲネもいる。」 口語訳聖書

 「背を向ける」

ある人々はパウロから「離れて行ったἀποστρέφω」。(Ⅱテモテ1:15) ἀποστρέφωは「~から顔をそむける」の意。フランシスコ会訳聖書は「背を向ける」と訳す。主イエスはその悲しみをよく知っておられる。

(心のデボーション4648)

心のデボーション4649

「これ天にいます汝らの父の子とならん爲なり。天の父は、その日を惡しき者のうへにも善き者のうへにも昇らせ、雨を正しき者にも正しからぬ者にも降らせ給ふなり」 マタイ5:45 大正文語訳聖書

「こうして、天にいますあなたがたの父の子となるためである。天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さるからである。」 口語訳聖書

 「この人」

雨が降り自分の畑が潤うとき、隣の畑にも雨は降っていることを忘れてはいけない。神の恵みが自分に来たとき、それと全く同じ恵みが隣人にも訪れている。「この人」にも神は私と同じ恵みを下さると知れ。雨は私の畑にだけ降るのではない。

「もし汝に善業があったなら、更に善い業が他人にあると知れ」。(トマス・アケンピス『基督のまねび』より)

(心のデボーション4649)

心のデボーション4650

「みづから神を知ると言ひあらはせど、其の行爲にては神を否む。彼らは憎むべきもの、服はぬ者、すべての善き業に就きて棄てられたる者なり。」 テトス1:16  大正文語訳聖書

「彼らは神を知っていると、口では言うが、行いではそれを否定している。彼らは忌まわしい者、また不従順な者であって、いっさいの良いわざに関しては、失格者である。」 口語訳聖書

 「失格者」

口では神を知っていると言いながら、行いでは神を否定していることの罪は自覚しにくい。「良いわざの失格者ἀδόκιμος」という自覚も薄い。

(心のデボーション4650)

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