心のデボーション456

デボーション1
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心のデボーション4551

「愛しむに時あり惡むに時あり 戰ふに時あり和ぐに時あり」 伝道3:8  明治元訳聖書

「愛するに時があり、憎むに時があり、戦うに時があり、和らぐに時がある。」 口語訳聖書

 「毒を失った蛇」

ポルトガル語の諺で「毒を失った蛇」は「怒り狂う」の意味だそうである。それには次のようなお話がある。蛇は沼や川で水を飲むときに自分の毒で死なないように、毒を口から吐き出して、茂みの中に隠し、水を飲み終えると隠した毒を再び口にいれる。ところが隠した毒が見つからず、唯一の武器を失った蛇が怒り狂ったことからこの諺が生まれた。呑込めば自分を殺す毒など、口先に置くべきではない。失ったことをそれほど怒らなくてもよいではないか。毒だけが戦いの武器ではない。

(心のデボーション4551)

心のデボーション4552

「また我なんぢのすべての作爲をおもひいで汝のなしたまへることを深くおもはん」 詩篇77:12  明治元訳聖書

「わたしは、あなたのすべてのみわざを思い、あなたの力あるみわざを深く思う。」 口語訳聖書

 「主のはからい」

詩人はたましいが「なぐさめを拒むほどの苦しみ」の中にある。彼は苦しみを乗り越えようとして、「昔の主のみわざ」を思い起こす。「主のはからい」を「静かに考え」、その一つ一つのできごとの意味に「思いを巡らす」の。苦しみの意味は、完全に理解できるものではない。ただ、人にできるのは、意味に近づくだけである。詩人も、わからないところはそのままにして、神を信じたのではないだろうか。

(心のデボーション4552)

心のデボーション4553

「ああ神よなんぢはわが神なり われ切になんぢをたづねもとむ 水なき燥きおとろへたる地にあるごとくわが霊魂はかわきて汝をのぞみ わが肉體はなんぢを戀したふ」 詩篇63:1  明治元訳聖書

「神よ、あなたはわたしの神、わたしは切にあなたをたずね求め、わが魂はあなたをかわき望む。水なき、かわき衰えた地にあるように、わが肉体はあなたを慕いこがれる。」 口語訳聖書

 「死絵」

江戸時代に、歌舞伎役者が亡くなると「死絵」が描かれた。亡くなった役者の絵姿に、没年月日、戒名、辞世の句などと、他にさまざまな仏事を思わせる小物が描かれるが、しばしば、「蝶」の絵が見られる。「蝶」はギリシャ語ψυχή(プシュケー「魂」)で人間の生と死と復活のシンボルである。「蝶ψυχή」には死者の魂が宿るとされ不死を信じたのだろうか。

(心のデボーション4553)

心のデボーション4554

「『なんぢの隣を愛し、なんぢの仇を憎むべし』と云へることあるを汝等きけり」 マタイ5:43 大正文語訳書

「『隣り人を愛し、敵を憎め』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。」 口語訳聖書

 「汝の隣を愛し」

ピアニストのフジコ・ヘミングさんの好きな言葉は、「汝の隣を愛し」だそうである。彼女のピアノにはいつも「貧しい者、弱い者」としての「隣(りんじん)πλησίον」がいる。

(心のデボーション4554)

心のデボーション4555

「悖れる者の途には荊棘と罟とあり 霊魂を守る者は遠くこれを離れん」 箴言22:5  明治元訳聖書

「よこしまな者の道にはいばらとわながあり、たましいを守る者は遠くこれを離れる。」 口語訳聖書

 「沈黙の兵器」

2023年現在、世界には一億個以上の地雷が埋められている。地雷は「休まぬ番人」、「沈黙の兵器」と呼ばれ、戦争が終わっても人々を苦しめ続ける「悪魔の兵器」である。しかし、埋められた一個の地雷を除去する間に、どこかで、その数十倍が埋められている。

(心のデボーション4555)

心のデボーション4556

「曰く『なんぢの見る所のことを書に録して、エペソ、スミルナ、ペルガモ、テアテラ、サルデス、ヒラデルヒヤ、ラオデキヤに在る七つの教會に贈れ』」 黙示1:11  大正文語訳聖書

「その声はこう言った、「あなたが見ていることを書きものにして、それをエペソ、スミルナ、ペルガモ、テアテラ、サルデス、ヒラデルヒヤ、ラオデキヤにある七つの教会に送りなさい」。」 口語訳聖書

 「七つの教会」

ヨハネ黙示録はアジアにある「エペソ、スミルナ、ペルガモ、テアテラ、サルデス、ヒラデルヒヤ、ラオデキヤ」の教会に宛てて記された。アジアにはこれら七つの教会以外にも教会は存在し、七つの教会がすべて有力な教会というのでもない。どのような基準で選ばれたのかは不明である。「七」が完全数であることから、これらの「教会」は地にあるすべての教会を意味し、ヨハネの黙示録は、地にあるすべての教会に宛ててしるされた神のことばである。

(心のデボーション4556)

心のデボーション4557

「『なんぢの隣を愛し、なんぢの仇を憎むべし』と云へることあるを汝等きけり」 マタイ5:43 大正文語訳書

「『隣り人を愛し、敵を憎め』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。」 口語訳聖書

 「隣人を愛する」

同胞を愛するということが、同胞の敵を強く憎むことによって証明される社会がある。そこでは敵への憎しみの強さは、同胞への愛の深さとみなされる。「隣人を愛する」ことが「敵を憎む」こととセットになるような「愛」を求めることはすまい。やがて憎しみの連鎖は自身に向けられることになる。

(心のデボーション4557)

心のデボーション4558

「彼は我らの中に數へられ、此の務に與りたればなり。」 使徒1:17  大正文語訳聖書

「彼はわたしたちの仲間に加えられ、この務を授かっていた者であった。」 口語訳聖書

 「仲間」

イスカリオテのユダは「仲間に加えられ、この務を授かっていた者」であった。しかし、悲しいことであるが、「仲間」がすべてその務めを全うするものではない。与えられた務めを全うするのは神である。

(心のデボーション4558)

心のデボーション4559

「されど我は汝らに告ぐ、惡しき者に抵抗ふな。人もし汝の右の頬をうたば、左をも向けよ」 マタイ5:39 大正文語訳聖書

「しかし、わたしはあなたがたに言う。悪人に手向かうな。もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい。」 口語訳聖書

 「もう一つ」

右の頬を打つ者に「もう一つ」を向けるのは、考えて出来ることではなく、思わずの行為である。考えて向ける「もう一つ」は打つ者をさらに刺激する。 

(心のデボーション4559)

心のデボーション4560

「その故は、神につきて知り得べきことは彼らに顯著なればなり、神これを顯し給へり。」 ロマ1:19  大正文語訳聖書

「なぜなら、神について知りうる事がらは、彼らには明らかであり、神がそれを彼らに明らかにされたのである。」 口語訳聖書

 「神につきて知り得べきこと」

「神につきて知り得べきこと(日本正教会訳「神の事に於て知るべき所」)」は、「不義をもって真理をはばもうとする人間のあらゆる不信心と不義とに対して」も「明らかである」、「神がそれを彼らに明らかにされたのである」。(ロマ1:19) すべての人間に弁解の余地はない。

(心のデボーション4560)

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