心のデボーション454

デボーション1
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心のデボーション4531

「なんぢ海の泉源にいたりしことありや 淵の底を歩みしことありや 死の門なんぢのために開けたりしや 汝死蔭の門を見たり」 ヨブ38:16-17  明治元訳聖書

「あなたは海の源に行ったことがあるか。淵の底を歩いたことがあるか。死の門はあなたのために開かれたか。あなたは暗黒の門を見たことがあるか。」 口語訳聖書

 「死の門」

死と死ぬことについて研究したアメリカの精神科医エリザベス・キューブラ・ロスElisabeth Kübler-Ross(19216/7/8-2001/8/24)は晩年脳卒中と心臓病で死に瀕し、孤独な生活を送り、インタビューに答えて、「これまでの自分の学問や職業的な経験というものは何の役にも立たないとか、精神分析はカネと労力の無駄づかいだった」と語った。死とは、これまでの経験が役にたたないような、深く根源的な世界に入っていくことなのか。(河合隼雄 柳田邦男『心の深みへ』講談社2002/9参考) 

(心のデボーション4531)

心のデボーション4532

「婦その乳兒をわすれて己がはらの子をあはれまざることあらんや 縦ひかれら忘るることありとも我はなんぢを忘るることなし」 イザヤ49:15 明治元訳聖書

「女がその乳のみ子を忘れて、その腹の子を、あわれまないようなことがあろうか。たとい彼らが忘れるようなことがあっても、わたしは、あなたを忘れることはない。」 口語訳聖書

 「生き形見」

万葉の時代には「生き形見」というのがあった。何か相手と忍ぶものを取り交わし、互いに身につけた。生き形見として相手の心に残せるものがあるとしたら、それは形あるものではないかもしれない。しかし、やがて「生き形見」を見ても、相手を思い出せなくなる時が来る。それもまた、愛である。「わたしはあなたを忘れない」と語られる主のみ言葉に、心が癒されたのである。

(心のデボーション4532)

心のデボーション4533

「『キリスト・イエス罪人を救はん爲に世に來り給へり』とは、信ずべく正しく受くべき言なり、其の罪人の中にて我は首なり。」 Ⅰテモテ1:15 大正文語訳聖書

「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世にきて下さった」という言葉は、確実で、そのまま受けいれるに足るものである。わたしは、その罪人のかしらなのである。」 口語訳聖書

 「罪人のかしら」

「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世にきて下さった」、パウロは「わたしは、その罪人のかしらなのである」と告白する。「かしらπρῶτος」は「最初の者、第一の者」の意。キリストの十字架の救いの先頭に立つ者(第一に救われる者)との意味である。

(心のデボーション4533)

心のデボーション4534

「わが軛は易く、わが荷は輕ければなり」 マタイ11:30  大正文語訳聖書

「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」 口語訳聖書

 「重荷を負って」

人はみな生まれた時から負うべき重荷がある。イエスは私の重荷に手を添え、「軽く」してくださる。「軽いἐλαφρός」ということばには「役に立つ」という意味もある。イエスは背にくいこむ重荷を「役に立つ」ものにしてくださる。それで、重荷は「軽い」と感じられるのである。人は自分の負うべき重荷を知るにつれて、他人にやさしくなれる。

(心のデボーション4534)

心のデボーション4535

「かつ委ねられたる善きものを我等のうちに宿りたまふ聖靈に頼りて守るべし。」 Ⅱテモテ1:14  大正文語訳聖書

「そして、あなたにゆだねられている尊いものを、わたしたちの内に宿っている聖霊によって守りなさい。」 口語訳聖書

 「あなたにゆだねられている尊いもの」

「あなたにゆだねられている尊いもの」とは「神の御言葉」である。神の御言葉を「内に宿っている聖霊によって守りなさい」。(Ⅱテモテ1:14) 御言葉は聖霊によって解き明かされ、信じる者の内で実を結ぶ。御言葉は神から人に「ゆだねられ」た。「ゆだねるπαραθήκη」は「預かり物、委託物」の意。神から預かり、実を結び、お返しすべきものである。

(心のデボーション4535)

心のデボーション4536

「潔き人には凡ての物きよく、汚れたる人と不信者とには一つとして潔き物なし、彼らは既に心も良心も汚れたり。」 テトス1:15  大正文語訳聖書

「きよい人には、すべてのものがきよい。しかし、汚れている不信仰な人には、きよいものは一つもなく、その知性も良心も汚れてしまっている。」 口語訳聖書

 「汚れている不信仰な人」

「汚れている不信仰な人には、きよいものは一つもなく、その知性も良心も汚れてしまっている」。(テトス1:15)

「汚れている不信仰な人μεμιαμμένοις καὶ ἀπίστοις」とは「偽教師」のことである。(テトス1:14) 汚れた知性と良心から教える。「汚れている不信仰な人」に対する「きよい人」とは、「健全な信頼すべき御言葉」をもって人を教え、励ます者」(テトス1:8-9)のことである。

(心のデボーション4536)

心のデボーション4537

「汝らの中にありて優しきこと、母の己が子を育てやしなふ如くなりき。」 Ⅰテサロニケ2:7  大正文語訳聖書

「むしろ、あなたがたの間で、ちょうど母がその子供を育てるように、やさしくふるまった。」 口語訳聖書

 「温める」

子どもを亡くした母ザルがいつまでも死んだ子ザルを抱いていることがある。そのうちに、子ザルはミイラになってしまったが、それでも、母ザルは離そうとしない。河合雅雄さんによると、それはいちど抱いて乳を飲ませた子で、流産で死んだ子には全く無関心なのだそうである。聖書でも「優しくふるまうθάλπω」は「温める」という意味である。母ザルは抱いて優しく温めてやれば、子ザルが生き返ると思うのでだろか。

(心のデボーション4537)

心のデボーション4538

「なんぢの承諾を經ずして斯くするを好まざりき、是なんぢの善の止むを得ざるに出でずして心より出でんことを欲したればなり。」 ピレモン 1:14

「しかし、わたしは、あなたの承諾なしには何もしたくない。あなたが強制されて良い行いをするのではなく、自発的にすることを願っている。」 口語訳聖書

 「自発的に」

いかなる「善い行為」も、強制されるべきではない。パウロは「あなたの承諾なしには何もしたくない}として、自発的に行われることを期待した。(ピレモン1:14)「自発的にἑκούσιος」は「心から」の意。

(心のデボーション4538)

心のデボーション4539

「愛しむに時あり惡むに時あり 戰ふに時あり和ぐに時あり」 伝道3:8  明治元訳聖書

「愛するに時があり、憎むに時があり、戦うに時があり、和らぐに時がある。」 口語訳聖書

 「家庭内暴力」

イエス・キリストは、「左の頬を打つような者には右の頬も向けなさい」と教えられた。しかし、家庭内暴力でこの教えを単純に実行するのは危険である。暴力という「悪」と戦うことをしない親を戦いの場に引きずり出そうとして子どもが暴力をふるう場合も少なくないからである。子どもの前に立ちはだかるために、右の頬を向けるということがされないと、この「戦い」は完結しないのかもしれない。(マタイ5:39)

(心のデボーション4539)

心のデボーション4540

「これらは滅びん、されど汝は常に存へたまはん。 これらはみな衣のごとく舊びん。」 へブル1:11  大正文語訳聖書

「これらのものは滅びてしまうが、あなたは、いつまでもいますかたである。すべてのものは衣のように古び、」 口語訳聖書

 「創造の神」

神の御手の業である天も地も「滅びてゆくἀπόλλυμι」、しかし、神はいつまでも変わることがない。(へブル1:11) およそ存在するものは変化する。神の創造は固定的な不変のものではなく、変化よって継続される生きた創造である。

(心のデボーション4540)

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