心のデボーション4521
「義は道を直くあゆむ者をまもり 惡は罪人を倒す」 箴言13:6 明治元訳聖書
「正義は道をまっすぐ歩む者を守り、罪は悪しき者を倒す。」 口語訳聖書
「必要は法を持たない」
ラテン語格言に「Necessitas non habet legem.必要は法を持たない」という。ラテン語necessitasには「運命」の意味もある。この格言は、いのちの危険が迫るような時にしか使えない。つまり、めったには使えない、だが使えば偉大な力を発揮することもある。
(心のデボーション4521)
心のデボーション4522
「汝等のうちの戰爭は何處よりか、分爭は何處よりか、汝らの肢體のうちに戰ふ慾より來るにあらずや。」 ヤコブ4:1 大正文語訳聖書
「あなたがたの中の戦いや争いは、いったい、どこから起るのか。それはほかではない。あなたがたの肢体の中で相戦う欲情からではないか。」 口語訳聖書
「連戦連勝」
連戦連勝でこれたのは幸運な人というべきだろう。しかし、負けることへの備えのない人は、その幸運がプレッシャーになる。何かに勝つことは、何かを失うことで、何かに負けること。負けを含まない勝ちは存在しない。人生に「戦いや争いμάχη」があることは問題ではない。勝ちと共に負けも受け取ることができれば、それで良いのではないか。
(心のデボーション4522)
心のデボーション4523
『いと高き處には榮光、神にあれ。 地には平和、主の悦び給ふ人にあれ』 ルカ2:14 大正文語訳聖書
「いと高きところでは、神に栄光があるように、地の上では、み心にかなう人々に平和があるように」 口語訳聖書
「地雷を踏んだ象」
「1999年8月15日、タイとミャンマーの国境付近、ミャンマー領のジャングルで木材を運搬する仕事に従事していた象のモタラが地雷を踏んだ。だれもがモタラの死を覚悟した。タイのNGO,FAEは左前足を膝下から切断する手術をした。全身麻酔に麻酔薬がとれくらい必要なのか、一切が初めての大手術だった。人間でいえば70人分の麻酔が使われた。」(江樹一朗『モタラ』広済堂出版2001.9より)
人類はいまだに「地雷」を地に埋めることを止めない。
(心のデボーション4523)
心のデボーション4524
「なんぢわが心をこころみ また夜われにのぞみたまへり 斯てわれを糺したまへど我になにの惡念あるをも見出たまはざりき わが口はつみを犯すことなからん」 詩篇17:3 明治元訳聖書
「あなたがわたしの心をためし、夜、わたしに臨み、わたしを試みられても、わたしのうちになんの悪い思いをも見いだされないでしょう。わたしの口も罪を犯しません。」 口語訳聖書
「扇動者」
「扇動」とは、江戸時代、劇場の木戸の前で扇を開いて客を招き寄せたことからきた言葉だそうである。風をおくってあおる。感情があおられると、つい、激しい言葉を重ねてしまう。あおり言葉を使うのは「口のあやまち」の中でも最悪のものだ。扇動者はいつも人をあおっておきながら、自分は涼しい顔をしている。昼間、口のあやまちがなかったか、自らを調べ、問いただすために夜νύξがある。
(心のデボーション4524)
心のデボーション4525
「この故に我も汝らが主イエスに對する信仰と凡ての聖徒に對する愛とを聞きて、」 エペソ1:15 大正文語訳聖書
「こういうわけで、わたしも、主イエスに対するあなたがたの信仰と、すべての聖徒に対する愛とを耳にし、」 口語訳聖書
「信仰と愛」
パウロは常に教会に耳を傾け、「主イエスに対する信仰と、すべての聖徒に対する愛」を聞くことを好んだ。聖徒は聖徒を知る。
(心のデボーション4525)
心のデボーション4526
「これは福音を辯明するために我が立てられたることを知り、愛によりてキリストを宣べ、」 ピリピ1:16 大正文語訳聖書
「後者は、わたしが福音を弁明するために立てられていることを知り、愛の心でキリストを伝え、」 口語訳聖書
「福音を伝える者」
ピリピの教会には異なる動機から福音を宣べ伝え、そこに対立が生じていた。パウロの目はまず、愛をもって福音を伝える者のあることを認める。だが、それがすべてではない。次節には党派心から福音を伝える者のあることにも目を留める。どこまで、両者を等しく見ることができるかにパウロの信仰がかかっている。
(心のデボーション4526)
心のデボーション4527
「汝等は集會の幕屋の門口に七日の間日夜居てヱホバの命令を守れ然せば汝等死る事なからん我かく命ぜられたるなり」 レビ8:35 明治元訳聖書
「あなたがたは会見の幕屋の入口に七日の間、日夜とどまり、主の仰せを守って、死ぬことのないようにしなければならない。わたしはそのように命じられたからである」 口語訳聖書
「戒め」
戒めは破られるためにあるのだろうか。「見るな」と言われれば見たくなり、「行くな」と言われれば行きたくなる。戒めは破られるときに、危機が訪れる。しかし、その危機と向き合うことができれば変化が生まれる。戒めのないところで、自分と向き合うことはできない。そして、その意味を考えないで戒めを守っても、やはり自分を見失うばかりである。主の戒めの目的は、いのちと愛に至ることである。
(心のデボーション4527)
心のデボーション4528
「彼は見得べからざる神の像にして、萬の造られし物の先に生れ給へる者なり。」 コロサイ1:15 大正文語訳聖書
「御子は、見えない神のかたちであって、すべての造られたものに先だって生れたかたである。」 口語訳聖書
「見えない神のかたち」
「御子は、見えない神のかたち」。(コロサイ1:15)永井直治訳聖書は「彼は覩えざる神の形」と訳す。「覩(ト)」は「見る、見てとる、はっきりとわかる」の意。神は神の内に隠され、人は見ることができない。しかし、御子は「見えない神のかたちεἰκών」であり、神は御自分のかたち(εἰκών)に人を創造された。(創世記1:27)
(心のデボーション4528)
心のデボーション4529
「されど我は汝らに告ぐ、惡しき者に抵抗ふな。人もし汝の右の頬をうたば、左をも向けよ」 マタイ5:39 大正文語訳聖書
「しかし、わたしはあなたがたに言う。悪人に手向かうな。もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい。」 口語訳聖書
「左の頬」
これは誤解されやすい行為である。痛がるどころか、左もどうぞとやったら、次は何をされるか分からない。一種の挑発行為になる危険すらある。殴られたら、殴り返すか、それができないなら、さっさと逃げるべきである。間違っても左を向けるべきではない。そこを間違えると大変なことになる。いじめにあった子どもが、教えられたように左を向けたら、いじめは終わるだろうか。逆にエスカレートするのではないか。
相手に不快感を与えずに左を向けるのは非常にむずかしい。打たれるのをそそのかす行為は「左」ではない。打つのを止めさせるのが「左」である。
(心のデボーション4529)
心のデボーション4530
「前に我らは汝らの知るごとく、ピリピにて苦難と侮辱とを受けたれど、我らの神に頼りて大なる紛爭のうちに、憚らず神の福音を汝らに語れり。」 Ⅰテサロニケ2:2 大正文語訳聖書
「それどころか、あなたがたが知っているように、わたしたちは、先にピリピで苦しめられ、はずかしめられたにもかかわらず、わたしたちの神に勇気を与えられて、激しい苦闘のうちに神の福音をあなたがたに語ったのである。」 口語訳聖書
「宣教の力」
「先にピリピで苦しめられ、はずかしめられたにもかかわらず、わたしたちの神に勇気を与えられて、激しい苦闘のうちに神の福音をあなたがたに語った」。(Ⅰテサロニケ2:2) 「ピリピ」で起こったことは、パウロの第二回伝道旅行でピリピに滞在したとき、占いの霊につかれた若い女奴隷から悪霊を追い出したことから女奴隷が金もうけの望みがなくなったことから、パウロ達を訴えて投獄したことを指す。パウロは捕らえられ何度も鞭打たれた。(使徒17:11-40) しかし、「激しい苦闘」は、むしろ宣教の力となった。
(心のデボーション4530)
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