心のデボーション4501
「彼は我らの罪のために宥の供物たり、啻に我らの爲のみならず、また全世界の爲なり。」 Ⅰヨハネ2:2 大正文語訳聖書
「彼は、わたしたちの罪のための、あがないの供え物である。ただ、わたしたちの罪のためばかりではなく、全世界の罪のためである。」 口語訳聖書
「あがないの供え物」
「あがないの供え物ἱλασμός」は「罪のなだめ、贖いの供え物、和解の供え物」の意。明治元訳聖書は「我儕の罪の挽回の祭物」と訳し、「挽回」を「なだめ」と読ませる。「挽回」は「失ったものを取り戻し、元に戻す」の意である。罪によって失われたいのちを取り戻すためにイエスは十字架に死なれ3日後に復活された。
(心のデボーション4501)
心のデボーション4502
「人もし己が家を理むることを知らずば、爭でが神の教會を扱ふことを得ん」 Ⅰテモテ3:5 大正文語訳聖書
「自分の家を治めることも心得ていない人が、どうして神の教会を預かることができようか。」 口語訳聖書
「生活無能者」
男がほぼ「生活無能者」だというのは当たっているかもしれない。掃除好きな男性がいないわけではない。彼は休日ともなれば爪楊枝で冷蔵庫のゴミを丹念にほじっているが、自分の靴下のありかは知らないのである。身の回りのことを自分でする能力と家庭を治める能力は、必ずしも一致するとは限りらない。しかし、絶対に無関係とも言い切れない。とは言え、私も、このことは余り話題にしたくないのである。
(心のデボーション4502)
心のデボーション4503
「彼は我らの罪のために宥の供物たり、啻に我らの爲のみならず、また全世界の爲なり。」 Ⅰヨハネ2:2 大正文語訳聖書
「彼は、わたしたちの罪のための、あがないの供え物である。ただ、わたしたちの罪のためばかりではなく、全世界の罪のためである。」 口語訳聖書
「全世界の罪」
主イエスの十字架の贖いは、個人の罪のためばかりでなく、「全世界κόσμοςの罪」を贖う。神は「全世界の罪」の審判者であり、救済者である。「全世界の罪」といえども、それは個人からはじまり、世界に拡大した罪であり、贖いは個人から始まる。
(心のデボーション4503)
心のデボーション4504
「これ私に入りたる僞兄弟あるに因りてなり。彼らの忍び入りたるは、我らがキリスト・イエスに在りて有てる自由を窺ひ、且われらを奴隷とせん爲なり」 ガラテヤ2:4 大正文語訳聖書
「それは、忍び込んできたにせ兄弟らがいたので――彼らが忍び込んできたのは、キリスト・イエスにあって持っているわたしたちの自由をねらって、わたしたちを奴隷にするためであった。」 口語訳聖書
「あらさがし」
魚をさばいたあとに残った頭、骨、えらなどを「あら」と言う。そこから、とるに足りない欠点を探して、いろいろけちをつけるが「あらさがし」である。パウロはそういう人々を「にせ兄弟ψευδάδελφος(兄弟と自称するが兄弟としての行動のない者)」と呼ぶ。彼らは人の生き方をスパイのように「うかがう」。要するに「あらさがし」するのである。あらさがしする人は魚の身は捨ててしまうようだ。
(心のデボーション4504)
心のデボーション4505
「彼らは汝らと共に宴席に與り、その愛餐の暗礁たり、憚らずして自己をやしなふ牧者、風に逐はるる水なき雲、枯れて又かれ、根より拔かれたる果なき秋の木、」 ユダ1:12 大正文語訳聖書
「彼らは、あなたがたの愛餐に加わるが、それを汚し、無遠慮に宴会に同席して、自分の腹を肥やしている。彼らは、いわば、風に吹きまわされる水なき雲、実らない枯れ果てて、抜き捨てられた秋の木、」 口語訳聖書
「抜き捨てられた秋の木」
教会に「秘かに忍び込み、イエス・キリストを否定する者達」は「あなたがたの愛餐に加わるが、それを汚し、無遠慮に宴会に同席して、自分の腹を肥やしている。彼らは、いわば、風に吹きまわされる水なき雲、実らない枯れ果てて、抜き捨てられた秋の木δένδρα φθινοπωρινὰ ἄκαρπα δὶς ἀποθανόντα ἐκριζωθέντα、自分の恥をあわにして出す海の荒波、さまよう星である」。「彼らには、まっくらなやみが永久に用意されている」。(ユダ1:12-13)
(心のデボーション4505)
心のデボーション4506
「われ主日に御靈に感じゐたるに、我が後にラッパのごとき大なる聲を聞けり。」 黙示1:10 大正文語訳聖書
「ところが、わたしは、主の日に御霊に感じた。そして、わたしのうしろの方で、ラッパのような大きな声がするのを聞いた。」 口語訳聖書
「御霊の中に」
ヨハネは「主の日に御霊に感じ」、「うしろの方で、ラッパのような大きな声がするのを聞いた」。(黙示1:10) 「御霊に感じἐγενόμην ἐν πνεύματι」は「私は聖霊の中にいた」で、永井直治訳聖書は「主の日に我は靈のうちにありき」と訳す。御霊に満たされてあり、神の声は「戦争のラッパの鳴るような大きな声」(祥訳聖書)であった。
(心のデボーション4506)
心のデボーション4507
「なんぢの荷をヱホバにゆだねよさらば汝をささへたまはん ただしき人のうごかさるることを常にゆるしたまふまじ」 詩篇55:22 明治元訳聖書
「あなたの荷を主にゆだねよ。主はあなたをささえられる。主は正しい人の動かされるのを決してゆるされない。」 口語訳聖書
「ゆだねる」
考えられる限りの手を打った後で、なお残されているのは主にゆだねる行為である。責任感の強さが不安や焦燥感に結びつき、絶えずイライラさせられるのは、神にゆだねることに欠けているからではないか。「重荷を主にゆだねる」は、責任を放棄することではなく、すべての業を神に置くことである。神にゆだねる人は「自分たちの労苦が、主にあって無駄でない」(Ⅰコリント15:57)と知っているのである。
(心のデボーション4507)
心のデボーション4508
「聖書にいふ『すべて彼を信ずる者は辱しめられじ』と。」 ロマ10:11 大正文語訳聖書
「聖書は、「すべて彼を信じる者は、失望に終ることがない」と言っている。」 口語訳聖書
「信ずる者は辱しめられじ」
「すべて彼を信ずる者は辱しめられじ」。(ロマ10:11大正文語訳聖書) 「辱められずοὐ καταισχυνθήσεται」は「失望することがない」の意。神に寄り頼む者は、いかなることにも失望することがない。
(心のデボーション4508)
心のデボーション4509
「なんぢに請ふ者にあたへ、借らんとする者を拒むな」 マタイ5:42 大正文語訳聖書
「求める者には与え、借りようとする者を断るな」 口語訳聖書
「乞われるままに与える」
「乞われたら断るべきではない」というのは一種の強迫観念である。「断れない」のは精神の未熟であり、その人は「与える」こともできない。何が求められているかを吟味しないで「乞われるままに与える」のは軽卒である。「与えない」という与え方もある。「求める者の求め」は、何が求められているか知らずに与えることによって応えられていることも多い。
(心のデボーション4509)
心のデボーション4510
「もし子たらば世嗣たらん、神の嗣子にしてキリストと共に世嗣たるなり。これはキリストとともに榮光を受けん爲に、その苦難をも共に受くるに因る。」 ロマ8:17 大正文語訳聖書
「もし子であれば、相続人でもある。神の相続人であって、キリストと栄光を共にするために苦難をも共にしている以上、キリストと共同の相続人なのである。」 口語訳聖書
「相続人」
「自分の家の権利証書を見つけた相続人がここにいる。彼は、「もしかすると、にせものかもしれない」と言いながら、それを調べないで放っておくだろうか。」(パスカル「パンセ」217 前田陽一・由木康訳 中央公論社1973)
神の国の権利証書を見つけた相続人が、それを調べもしないで放っておくのは、「もしかすると、にせものかもしれない」と思ったからか。
(心のデボーション4510)
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