心のデボーション4491
「なんぢの途をヱホバにゆだねよ 彼によりたのまば之をなしとげ」 詩篇37:5 明治元訳聖書
「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ、主はそれをなしとげ、」 口語訳聖書
「神にゆだねる」
「あなたの道を主にゆだねよ」。(詩篇37:5) 「道דֶּרֶך」は「道、旅、旅路、習わし、方法、行い」、「ゆだねるגָּלַל」は「ころがす、うつす、ゆだねる」の意。あなたの「旅路、習わし、方法、行い」を神に「ころがし、うつせ」、神がそれを成し遂げられる。
(心のデボーション4491)
心のデボーション4492
「希望は恥を來らせず、我らに賜ひたる聖靈によりて神の愛われらの心に注げばなり。」 ロマ5:5 大正文語訳聖書
「そして、希望は失望に終ることはない。なぜなら、わたしたちに賜わっている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからである。」 口語訳聖書
「わかんない」
今の女の子の「わかんない」は、昔の「かまとと」と同じか。「かまとと」は、「かまぼこ」を「魚(とと)か?」と、知っているのに知らないふりをするところからきている。「わかんない」は、嫌なことに目を閉じたり、これ以上かかわりたくないときにも使われる。つまり、それだけ「わかっている」わけで、その点、「かまとと」とは違う。愛が注がれなければ、見ることが出来ないと言っているのかもしれない。
(心のデボーション4492)
心のデボーション4493
「さらに、「主よ、あなたは初めに、地の基をおすえになった。もろもろの天も、み手のわざである。」 へブル1:10 大正文語訳聖書
「またこう言われます。「主よ。あなたは、初めに地の基を据えられました。天も、あなたの御手のわざです。」 口語訳聖書
「地の基」
神は「初めに地の基を据えられました」。(へブル1:10) 「基を据えるθεμελιόω」は「確立する~の基礎を置く、安定する」の意。明治元訳聖書は「地の基を奠く」と訳し、「奠(てん)」を「おく」と読ませる。「奠」は「まつる、そなえる、定める、位置を決める」の意である。神は天と地を創造し、その位置を定め、それをよしとみられた。
(心のデボーション4493)
心のデボーション4494
「なんぢの神ヱホバなんぢの中にいます 彼は拯救を施す勇士なり 彼なんぢのために喜び樂み愛の餘りに默し汝のために喜びて呼はりたまふ」 ゼパニヤ3:17 明治元訳聖書
「あなたの神、主はあなたのうちにいまし、勇士であって、勝利を与えられる。彼はあなたのために喜び楽しみ、その愛によってあなたを新にし、祭の日のようにあなたのために喜び呼ばわられる」。」 口語訳聖書
「いやしの力」
神は人間に、自らをいやす力を与えられる。いやす力が働くかどうかは、人生の意味をどう捉えるかにかかっている。自分にあるものの全体を認め、そのものであろうとする。それが愛であり、安らぎをもたらす。愛こそがいやしの力である。この愛がおびやかされると、人は安らぎを失い、心は病む。心が病むことよりも、病んだ心を自らいやせないことの方がはるかにつらい。愛を見失ってしまったのだ。
(心のデボーション4494)
心のデボーション4495
「富める者は、おのが卑くせられたるを喜べ。そは草の花のごとく過ぎゆくべければなり。」 ヤコブ1:10 大正文語訳聖書
「また、富んでいる者は、自分が低くされたことを喜ぶがよい。富んでいる者は、草花のように過ぎ去るからである。」 口語訳聖書
「心低き者」
「富める人」は福音によって「富の与える地位」が「低い」と知ることを喜びとすべきである。神の豊かさは心低き者(ταπείνωσις)に流れるからである。
(心のデボーション4495)
心のデボーション4496
「神を愛する者、すなはち御旨によりて召されたる者の爲には、凡てのこと相働きて益となるを我らは知る」 ロマ8:28 大正文語訳聖書
「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。」 口語訳聖書
「漁夫と小カマス」
イソップの漁夫が小カマスを捕った。するとカマスは「自分はまだ小さいので今は捕らえないで放してほしい、やがて成長して大きくなればあなたにとって良いというと、漁夫は「いやはや、わしは頓馬というものだろう、たとい小さかろうと手の中の利益を投げ捨てて、たとい大きくともまだ来ぬ利益を当てにするならな」と答える。(「イソップ寓話集」 26漁夫と小カマス 山本光雄訳 岩波書店1942/2) このお話は漁師や漁夫には有効でも農夫には通じない。農夫はまだ小さいカブを見たからといって引きはしない。まだ来ぬ利益を小さいカブと引き換えはしないからだ。だが、獲物が、一旦放てば二度と現れない海や山では話は別だ。
(心のデボーション4496)
心のデボーション4497
「終に言ふ、汝らみな心を同じうし、互に思ひ遣り、兄弟を愛し、憐み、へりくだり」 Ⅰペテロ3:8 大正文語訳聖書
「最後に言う。あなたがたは皆、心をひとつにし、同情し合い、兄弟愛をもち、あわれみ深くあり、謙虚でありなさい。」 口語訳聖書
「力に余ること」
「お前にとって難しすぎることを求めるな。力に余ることを詮索するな。」(旧約聖書外典ベン=シラの知恵3:21 フランシスコ会訳聖書) 新共同訳聖書「お前の力に余ることを理解しようとするな。また、手に負えないことを探究しようとするな」。少し難しいからといって、「力に余る」とすべきではない。くるもののほとんどは力にかなうからである。知恵は、自分に「力に余る」ことがあり、それが何かを知る。詮索せずに認識せよ。「謙虚ταπεινόφρων」は「卑しいまでの心の低さ(謙虚さ)」である。
(心のデボーション4497)
心のデボーション4498
「これ信仰の極、すなはち靈魂の救を受くるに因る。」 Ⅰペテロ1:9 大正文語訳聖書
「それは、信仰の結果なるたましいの救を得ているからである。」 口語訳聖書
「信仰の極」
「それは、信仰の結果なるたましいの救」。(Ⅰペテロ1:9) 「信仰の結果τέλος」は「終り、極限、終結、結末、目標、達成」の意。大正文語訳聖書は「信仰の極(はて)」と訳す。信仰が達成する極は「たましいの救い」である。
(心のデボーション4498)
心のデボーション4499
「なんぢに請ふ者にあたへ、借らんとする者を拒むな」 マタイ5:42 大正文語訳聖書
「求める者には与え、借りようとする者を断るな。」 口語訳聖書
「背を向ける」
「背を向けるἀποστρέφω」は「ἀπό+στρέφω顔をそむける」の意味で「繰り返し顔を背ける、立ち返す、拒絶する」こと。借りようとする者から顔を繰り返しそむけてはいけない。顔をそむけて貸すくらいなら、きっぱりと断るべきである。
(心のデボーション4499)
心のデボーション4500
「此等のものの無きは盲人にして遠く見ること能はず、己が舊き罪を潔められしことを忘れたるなり。」 Ⅱペテロ1:9 大正文語訳聖書
「これらのものを備えていない者は、盲人であり、近視の者であり、自分の以前の罪がきよめられたことを忘れている者である。」 口語訳聖書
「霊的近視眼」
神は「いのちと信心とにかかわるすべてのこと」を与え、「これらのものがあなたがたに備わって、いよいよ豊かに」された、(Ⅱペテロ3-8)「これらのものを備えていない者」は、「盲人であり、近視の者」であり、「自分の以前の罪がきよめられたことを忘れている」。(Ⅱペテロ:10) 「霊的近視眼μυωπάζω」は霊的祝福がぼんやりとしか見えない。
(心のデボーション4500)
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