心のデボーション447

デボーション1
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心のデボーション4461

「懶惰ところよりして屋背は落ち 手を垂をるところよりして家屋は漏る」 伝道10:18  明治元訳聖書

「怠惰によって屋根は落ち、無精によって家は漏る。」 口語訳聖書

 「魂の眠気を誘う愛」

「愛は能く警戒する、そして寝ても眠らない」。(アケンピス「基督のまねび」内村達三郎訳 春秋社昭和21年2月) 「魂の眠気を誘う愛」を警戒せよ。それは愛ではない。

(心のデボーション4461)

心のデボーション4462

「兄弟ヨナタンよ我汝のために悲慟む汝は大に我に樂き者なりき汝の我をいつくしめる愛は尋常ならず婦の愛にも勝りたり」 Ⅱサムエル1:26  明治元訳聖書

「わが兄弟ヨナタンよ、あなたのためわたしは悲しむ。あなたはわたしにとって、いとも楽しい者であった。あなたがわたしを愛するのは世の常のようでなく、女の愛にもまさっていた。」 口語訳聖書

 「すすり泣くゾウ」

ある日、公園監督官が、一頭のゾウが、死んで数日たつ子ゾウを抱えているのに出会った。彼女は水場につくと、そっと、子ゾウを地面に下ろし、水を飲み、草を食べ、また、抱えて歩くのである。その間、仲間はじっと彼女を待ってやり、ゆっくりと移動していったという。(『ゾウがすすり泣くとき』S・マッカーシー, ジェフリー・M・マッソン他 河出文庫 2010/4より)

彼女は葬りの場まで行けば、子ゾウを地面に横たえ、別れを告げることができるでしょう。

(心のデボーション4462)

心のデボーション4463

「また、富んでいる者は、自分が低くされたことを喜ぶがよい。富んでいる者は、草花のように過ぎ去るからである。」 ヤコブ1:10  大正文語訳聖書

「富んでいる人は、自分が低くされることに誇りを持ちなさい。なぜなら、富んでいる人は、草の花のように過ぎ去って行くからです。」 口語訳聖書

 「卑しい者」

「主の力は大きいが、主は卑しい者たちに崇められる。」(旧約聖書外典ベン=シラの知恵3:20  フランシスコ会訳聖書) 神の偉大さを真に知って崇めるのは、高き者ではなく、「卑しさ、低き」を知る者である。「卑しき者」とは「偉くなればなるほど身を低くする謙虚な者」のことである。

(心のデボーション4463)

心のデボーション4464

「なんぢ明日のことを誇るなかれ そは一日の生ずるところの如何なるを知ざればなり」 箴言27:1  明治元訳聖書

「あすのことを誇ってはならない、一日のうちに何がおこるかを/知ることができないからだ。」 口語訳聖書

 「来るものを拒まず」

人はいつも成長するとは限らない。明日は今日より、必ず良いともいえない。毎日が充実していなければならないだろうか。ぼんやり無為に過ごす一日があってもよい。自分を追い立てるようにしていないと、生き甲斐が感じられないというのは、心の空虚さを忙しさで埋めようとしているのかもしれない。明日のことは神にゆだね、来るものを拒まないこと。明日が今日より必ず悪いとも言えないことがわかる。

(心のデボーション4464)

心のデボーション4465

「ヱホバは我儕のつくられし状をしり われらの塵なることを念ひ給へばなり」 詩篇103:14  明治元訳聖書

「主はわれらの造られたさまを知り、われらのちりであることを覚えていられるからである。」 口語訳聖書

 「私とは何か」

信仰は「私とは何か」を知るにあり、その問の中で人は神を知る。神の中に「私」を知るのである。神を知ることは即、私を知ることである。

(心のデボーション4465)

心のデボーション4466

「耳は説話を辨へざらんや その状あたかも口の食物を味ふがごとし」 ヨブ12:11  明治元訳聖書

「口が食物を味わうように、耳は言葉をわきまえないであろうか。」 口語訳聖書

 「口が食物を味わうように」

「神のことば」は「舌が食物を味わい知る」ように、「聞き分ける」べきである。御言葉は魂を力づける「霊の糧」であるとともに、その「微妙な味わい」が魂を楽しませる。「主の恵みふかきことを味わい知れ、主に寄り頼む人はさいわいである」。(詩篇34:8) 「あなたがたは、主が恵み深いかたであることを、すでに味わい知ったはずである」。(Ⅰペテロ2:3)

(心のデボーション4466)

心のデボーション4467

「活動は殊なれども、凡ての人のうちに凡ての活動を爲したまふ神は同じ。」 Ⅰコリント12:6  大正文語訳聖書

「働きは種々あるが、すべてのものの中に働いてすべてのことをなさる神は、同じである。」 口語訳聖書

 「本当の交わり」

人は交わりの中に生きている。その交わりが本物かどうかは、相手の心の痛みが自分自身の痛みとして感じられるかどうかでわかる。痛みは交わりの中で癒される。交わりを喪失すれば、痛みは増幅されるばかりである。多くの人との交わりを求める必要はない。一人の人とでも「本当の交わり」を持つことができれば、それで人は生きていける。どこかにそういう「本当の交わり」があるのではなく、今の関係を「本物」にしていけばよい。

(心のデボーション4467)

心のデボーション4468

「而して我は汝等のうち或者の既に知れる如く、我らの主イエスの日に我らが汝らの誇、なんぢらが我らの誇たるを終まで知らんことを望む。」 Ⅱコリント1:14  大正文語訳聖書

「すでにある程度わたしたちを理解してくれているとおり、わたしたちの主イエスの日には、あなたがたがわたしたちの誇であるように、わたしたちもあなたがたの誇なのである。」 口語訳聖書

 「誇り」

互いの存在を「誇り」に思えるなら、その交わりは本物である。「誇りκαύχημα」は、「自慢する」の意。キリストの日に、互いに相手の内に働かれる主を自慢する。

(心のデボーション4468)

心のデボーション4469

「人もし汝に一里ゆくことを強ひなば、共に二里ゆけ」 マタイ5:41 大正文語訳聖書

「もし、だれかが、あなたをしいて一マイル行かせようとするなら、その人と共に二マイル行きなさい。」 口語訳聖書

 「強いられた一ミリオン」

イエスが十字架を負われてゴルゴタの丘に向かわれた時、兵士はキレネ人シモン(キレネは北アフリカ、現在のリビアにあるギリシャの植民都市)という男に、イエスの十字架を「強いてἀγγαρεύω」担がせる。(マルコ15:21)。シモンの「強いられた一ミリオン」はイエスと二人の「二ミリオン」だっただろうか。

(心のデボーション4469)

心のデボーション4470

「又わが國人のうち、我と同じ年輩なる多くの者にも勝りてユダヤ教に進み、わが先祖たちの言傳に對して甚だ熱心なりき。」 ガラテヤ1:14  大正文語訳聖書

「そして、同国人の中でわたしと同年輩の多くの者にまさってユダヤ教に精進し、先祖たちの言伝えに対して、だれよりもはるかに熱心であった。」 口語訳聖書

 「精進と熱意」

パウロは「同国人の中でわたしと同年輩の多くの者にまさってユダヤ教に精進し」ていた。(ガラテヤ1:14)

精進するπροκόπτω」は「前進する」で「道なきところを切り開いて進む」の意であり、「先祖たちの言伝えに対して」は、だれよりもはるかに熱心ζηλωτής(熱狂的)であった。パウロの「精進と熱意」はイエスの福音を受け入れてからも、いささかも変わらず、むしろ真理に向けての「精進と熱意」にかわっていった。

(心のデボーション4470)

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