心のデボーション4451
「キリストは分たるる者ならんや、パウロは汝らの爲に十字架につけられしや、汝らパウロの名に頼りてバプテスマを受けしや」 Ⅰコリント1:13 大正文語訳聖書
「キリストは、いくつにも分けられたのか。パウロは、あなたがたのために十字架につけられたことがあるのか。それとも、あなたがたは、パウロの名によってバプテスマを受けたのか。」 口語訳聖書
「内輪もめ」
コリントの教会にはめいめいが「我はパウロに」「我はアポロに」「我はペテロに」と主張し、中には「我はキリストに」という者も現れた。そこでパウロは「キリストは、いくつにも分けられたのか」と問う。「分けられるμερίζω」は「分割する、内輪もめして争う」の意。内輪もめの争いを生む信仰は神からのものではない。
(心のデボーション4451)
心のデボーション4452
「斯てエピクロス派ならびにストア派の哲學者數人これと論じあひ、或者らは言ふ『この囀る者なにを言はんとするか』或者らは言ふ『かれは異なる神々を傳ふる者の如し』是はパウロがイエスと復活とを宣べたる故なり。」 使徒17:18 大正文語訳聖書
「また、エピクロス派やストア派の哲学者数人も、パウロと議論を戦わせていたが、その中のある者たちが言った、「このおしゃべりは、いったい、何を言おうとしているのか」。また、ほかの者たちは、「あれは、異国の神々を伝えようとしているらしい」と言った。パウロが、イエスと復活とを、宣べ伝えていたからであった。」 口語訳聖書
「スペルモロゴス」
パウロはエピクロス派とストア派の哲学者たちから「おしゃべり屋」と呼ばれた。「おしゃべり屋」は「スペルモロゴスσπερμολόγος」で「種をついばむ者」の意。スズメがやかましくさえずりながらエサをついばむことから、「知識の切れ端をあちこちから拾い集めてつぎはぎする者、怠惰なおしゃべり屋」を指すようになった。イエスや復活について語る時、人はスペルモロゴスである。ここにエサがあるぞとさえずらずにいられないのである。
(心のデボーション4452)
心のデボーション4453
「我らの書き贈ることは、汝らの讀むところ知る所の他ならず。」 Ⅱコリント1:13 大正文語訳聖書
「わたしたちが書いていることは、あなたがたが読んで理解できないことではない。それを完全に理解してくれるように、わたしは希望する。」 口語訳聖書
「希望」
パウロは「あなたがたが読んで理解できること以外は何も書いていません」(新改訳聖書)と言い、「私は、あなたがたが〔神に関する事柄について〕最後の時に至るまで、十分に熟知する<正確に、よく知る≪理解する≫という望みを持っているのです。」(祥訳聖書)と伝える。(Ⅱコリント1:13) 聖書の「神」に関する事柄を終りまで正確に理解することはすべてのキリスト者の願いである。
(心のデボーション4453)
心のデボーション4454
「また吝むことなく互に懇ろに待せ。」 Ⅰペテロ4:9 大正文語訳聖書
「不平を言わずに、互にもてなし合いなさい。」 口語訳聖書
「もてなし」
どんな時にも最善のもてなしをしたいと思う。しかし、何もしないというもてなし方もある。目をつぶって、流れに任せる。人との付き合いは、いじると、かえってこじれることがある。流れに任せて、お互いを理解すればよい。それで「つぶやかないで」すむなら、それもまた、相手への「親切なもてなし」といえるのではないか。
(心のデボーション4454)
心のデボーション4455
「我がユダヤ教に於ける曩の日の擧動は、なんぢら既に聞けり、即ち烈しく神の教會を責め、かつ暴したり。」 ガラテヤ1:13 大正文語訳聖書
「ユダヤ教を信じていたころのわたしの行動については、あなたがたはすでによく聞いている。すなわち、わたしは激しく神の教会を迫害し、また荒しまわっていた。」 口語訳聖書
「荒し回る」
「荒し回るπορθέω」は「破壊する、荒廃させる」の意。パウロは教会を完全に破壊させようとした。反対側のものを完全に破壊つくす信仰は真のものではない。「憎しみは、争いを起し、愛はすべてのとがをおおう」。(箴言10:12)
(心のデボーション4455)
心のデボーション4456
「これ夙くよりキリストに希望を置きし我らが、神の榮光の譽とならん爲なり。」 エペソ1:12 大正文語訳聖書
「それは、早くからキリストに望みをおいているわたしたちが、神の栄光をほめたたえる者となるためである。」 口語訳聖書
「希望の成熟」
「以前からキリストに望みをおいていた人」は、「後からキリストを信じた人」に「神の栄光」を伝える責任がある。「以前から望みをおいていたπροελπίζω」は「先に希望を置く」の意。希望の成熟を伝えねばならぬ。
(心のデボーション4456)
心のデボーション4457
「これに因てわれ答をなすの思念を起し心しきりに之がために急る」 ヨブ20:2 明治元訳聖書
「これによって、わたしは答えようとの思いを起し、これがために心中しきりに騒ぎ立つ。」 口語訳聖書
「いら立つ思い」
子どもが親の最も嫌うことをするのは、親に振り向いてもらいたいからである。そんな時に、親が子の要求を受け入れて、じっと耐えることをしないと、子どもは思いが届かないために、要求をエスカレートするしかなくなる。子どもは何か「最も嫌なこと」をされてきて、それで今度は親の「最も嫌うこと」をして、親と対決しようとしているのかもしれない。子どもは一個の人間として生きたいと訴えているのである。
(心のデボーション4457)
心のデボーション4458
「かつ兄弟のうちの多くの者は、わが縲絏によりて主を信ずる心を厚くし、懼るる事なく、ますます勇みて神の言を語るに至れり。」 ピリピ1:14 大正文語訳聖書
「そして兄弟たちのうち多くの者は、わたしの入獄によって主にある確信を得、恐れることなく、ますます勇敢に、神の言を語るようになった。」 口語訳聖書
「入獄の危機」
パウロの「入獄」はむしろ、「主にある確信」をもたらした。「入獄」を文語訳聖書は「わが縲絏(るいせつ)」と訳す。「縲」は罪人を縛る黒縄、「絏」は縄の意。「入獄δεσμός」は「囚人を縛る縄、鎖」の意である。危機は「ますます勇敢に、神の言を語る信仰を強める。平時に「ますます勇敢に、神の言を語るためには、危機のそれにまさる信仰を要す。
(心のデボーション4458)
心のデボーション4459
「なんぢを訟へて下衣を取らんとする者には、上衣をも取らせよ」 マタイ5:40 大正文語訳聖書
「あなたを訴えて、下着を取ろうとする者には、上着をも与えなさい。」 口語訳聖書
「たった一枚の上衣」
タンスを開ければいくらでも「上衣」がでてくる日本人には、この喩えはわかりにくい。「上衣」の一枚くらい取らせても、代わりはいくらでも持っている。しかし、イエスの時代に人は「上衣」を一枚しか持っていなかった。昼は外套に、夜には寝具になった。人は、他に代わりのない「たった一枚の上衣」というものを持っている。べつに乞われているのではないが、「それを手放せ」という声を聞くことがある。
(心のデボーション4459)
心のデボーション4460
「禍害なるかな、彼らはカインの道にゆき、利のためにバラムの迷に走り、またコラの如き謀反によりて亡びたり。」 ユダ1:11 大正文語訳聖書
「彼らはわざわいである。彼らはカインの道を行き、利のためにバラムの惑わしに迷い入り、コラのような反逆をして滅んでしまうのである。」 口語訳聖書
「コラの反逆」
「コラの反逆」は民数記16章の、「レビの子コハテの子なるイヅハルの子コラと、ルベンの子なるエリアブの子ダタンおよびアビラムと、ルベンの子なるペレテの子オンとが相結び、 イスラエルの人々のうち、会衆のうちから選ばれて、つかさとなった名のある人々二百五十人と共に立って、モーセに逆らった」事件で、彼らはモーセとアロンに「あなたがたは、分を越えています。全会衆は、ことごとく聖なるものであって、主がそのうちにおられるのに、どうしてあなたがたは、主の会衆の上に立つのですか」と抗議した。(民数記16:1-2) 神は「分を超えた」コラの子たち」を厳しく裁かれた。(民数記16:1-35)
(心のデボーション4460)
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