心のデボーション4431
「兄弟よ、もし人の罪を認むることあらば、御靈に感じたる者、柔和なる心をもて之を正すべし、且おのおの自ら省みよ、恐らくは己も誘はるる事あらん」 ガラテヤ6:1 大正文語訳聖書
「兄弟たちよ。もしもある人が罪過に陥っていることがわかったなら、霊の人であるあなたがたは、柔和な心をもって、その人を正しなさい。それと同時に、もしか自分自身も誘惑に陥ることがありはしないかと、反省しなさい。」 口語訳聖書
「柔和な心をもって」
「〔高慢と栄誉に満ちた者は多いが、主はその奥義を柔和な者たちに現わされる。〕」(旧約聖書外典ベン=シラの知恵3:19 フランシスコ会訳聖書) 神の奥義は「柔和πραΰτης」に現わされ、「愛ἀγάπη」と共にあり、「高慢と栄誉に満ちた者」を正す。(Ⅰコリント4:21)
(心のデボーション4431)
心のデボーション4432
「然れば兄弟よ、汝らの中より御靈と智慧とにて滿ちたる令聞ある者七人を見出せ、それに此の事を掌どらせん。」 使徒6:3 大正文語訳聖書
「そこで、兄弟たちよ、あなたがたの中から、御霊と知恵とに満ちた、評判のよい人たち七人を捜し出してほしい。その人たちにこの仕事をまかせ、」 口語訳聖書
「苦情処理」
初代教会には、御霊と知恵に満ちた評判の良い人たち七人が選ばれ、もっぱら苦情処理にあたった。 彼らの務めは、たとえその苦情(γογγυσμός「つぶやき、不平」)に間違いや勘違いがあっても、最後まで聞き取ることであったろう。 現代の教会にも、苦情処理というポストがあってもいい。最もむずかしい奉仕の一つに違いないが、最も祝福を受ける奉仕になるはずである。御霊と知恵に導かれる奉仕である。
(心のデボーション4432)
心のデボーション4433
「われ曩には涜す者、迫害する者、暴行の者なりしに、我を忠實なる者として、この職に任じ給ひたればなり。われ信ぜぬ時に知らずして行ひし故に憐憫を蒙れり。」 Ⅰテモテ1:13 大正文語訳聖書
「わたしは以前には、神をそしる者、迫害する者、不遜な者であった。しかしわたしは、これらの事を、信仰がなかったとき、無知なためにしたのだから、あわれみをこうむったのである。」 口語訳聖書
「迫害者」
「迫害する者διώκτης」は「追跡する者、迫害者」の意。人は迫害されて、はじめて、自らの内にある「迫害」に気づき、自分も又「迫害者」であったことを認める。神は無知からの迫害に憐れみを寄せ給う。
(心のデボーション4433)
心のデボーション4434
「愚かなるものは心のうちに神なしといへり かれらは腐れたりかれらは憎むべき不義をおこなへり善をおこなふ者なし」 詩篇53:1 明治元訳聖書
「愚かな者は心のうちに「神はない」と言う。彼らは腐れはて、憎むべき不義をおこなった。善を行う者はない。」 口語訳聖書
「恥を知る」
恥を知る人間でありたい。しかし、恥の意識で問題なのは、人の前で恥をかかされたことからくる心の痛みである。人は忘れても心はいつまでも覚えているも。恥は人に対してではなく神に対してもつべき感情ではないか。本当に恥ずべきは、立派な紳士が人の視線のないところでは恥を知らない者になることである。人の視線はなくても神の視線にさらされている。恥を知る人とは、神を知り、人の前で恥を告白することにためらいのない人のことである。
(心のデボーション4434)
心のデボーション4435
「拙者は愚なる事を得て所有となし 賢者は知識をもて冠弁となす」 箴言14:18 明治元訳聖書
「思慮のない者は愚かなことを自分のものとする、さとき者は知識をもって冠とする。」 口語訳聖書
「婆娑羅」
「バサラ婆娑羅」は、元来サンスクリットのvajraの音訳で「金剛」の意であったが、南北朝動乱期に権威が乱れ、価値観の多様化により生じた権力を意に介さず自由に振舞う風潮さすことばとなった。(佐々木道誉バサラ大名) 人がときどき日常を超えて奇抜な行為をしたがるのはバサラの血が騒ぐからだろうか。婆娑羅は創造のエネルギーの元であるが、愚かさも生み出す。
(心のデボーション4435)
心のデボーション4436
「なんぢは義を愛し、不法をにくむ。 この故に神なんぢの神は歡喜の油を、 汝の友に勝りて汝にそそぎ給へり』 と。」 へブル1:9 大正文語訳聖書
「あなたは義を愛し、不法を憎まれた。それゆえに、神、あなたの神は、喜びのあぶらを、あなたの友に注ぐよりも多く、あなたに注がれた」と言い、」 口語訳聖書
「神の義」
「義を愛される神」は、「喜びのあぶら」を神と共にある者に優って「イエスに注がれた」。(へブル1:9) 神の義はイエスを通してわれらに注がれ、われらは「義を愛する者(義をなす者)」となる。
(心のデボーション4436)
心のデボーション4437
「アバ父よ、父には能はぬ事なし、此の酒杯を我より取り去り給へ。されど我が意のままを成さんとにあらず、御意のままを成し給へ」 マルコ14:36
「アバ、父よ、あなたには、できないことはありません。どうか、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころのままになさってください」 口語訳聖書
「微笑み」
寝ている赤ちゃんが楽しい夢でも見ているように微笑むことがある。生後二ヶ月くらいになると、人の顔に向かって、しきりに微笑むのです。赤ん坊はただ微笑むだけです。それが周囲の人に思わず抱きしめたくなるような気持ちを起こさせます。愛を獲得するのです。イエスが神に「アバ、父よ」と赤ん坊の微笑みに似た語りかけをしたのは、ゲッセマネの園で、血のしずくのような汗を地に落とす苦しみの中でした。この微笑みが消えることが、本当の苦しみなのかもしれません。
(心のデボーション4437)
心のデボーション4438
「低い身分の兄弟は、自分が高くされたことを喜びなさい。」 ヤコブ1:9 大正文語訳聖書
「貧しい境遇にある兄弟は、自分の高い身分を誇りとしなさい。」 口語訳聖書
「高い身分を誇れ」
「低い身分ταπεινός」という地位や立場があるのではない。「真の富を与えられ、また神の相続人となるように召されたキリスト者とされた者」(ヤコブ1:9 祥訳聖書)が「低い身分(ταπεινός身を低くへりくだった者)」である。
(心のデボーション4438)
心のデボーション4439
「されど我は汝らに告ぐ、惡しき者に抵抗ふな。人もし汝の右の頬をうたば、左をも向けよ」 マタイ5:39 大正文語訳聖書
「しかし、わたしはあなたがたに言う。悪人に手向かうな。もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい。」 口語訳聖書
「悪に逆らう」
「悪に逆らうἀνθίστημι」は 「ἀντί 反対+ἵστημι立たせる」で、「逆らう、手向かう」の意味である。イエスは「悪への無抵抗」を言われるのではない。「惡に敵すること勿れ」(明治元訳聖書)。「惡をもて惡に報いず、凡ての人のまへに善からんことを圖り、 汝らの爲し得るかぎり力めて凡ての人と相和げ」ロマ12:17-18 大正文語訳聖書
(心のデボーション4439)
心のデボーション4440
「汝らイエスを見しことなけれど之を愛し、今見ざれども之を信じて、言ひがたく、かつ光榮ある喜悦をもて喜ぶ。」 Ⅰペテロ1:8 大正文語訳聖書
「あなたがたは、イエス・キリストを見たことはないが、彼を愛している。現在、見てはいないけれども、信じて、言葉につくせない、輝きにみちた喜びにあふれている。」 口語訳聖書
「言葉につくせない喜び」
人はイエスを見ることはできない。しかし、イエスについて「言葉につくせない喜び」があるなら、その人は親しくイエスを見ているのである。「言葉につくせないἀνεκλάλητος」は「ἀ否定+ἐκλαλέω口に出す」で、御霊による「言いあらわすことのできない深い喜び」である。
(心のデボーション4440)
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