心のデボーション4421
「神の死人の中より甦へらせ給ひし御子、すなはち我らを來らんとする怒より救ひ出すイエスの、天より降りたまふを待ち望むことを告ぐればなり。」 Ⅰテサロニケ1:10 大正文語訳聖書
「そして、死人の中からよみがえった神の御子、すなわち、わたしたちをきたるべき怒りから救い出して下さるイエスが、天から下ってこられるのを待つようになったかを、彼ら自身が言いひろめているのである。」 口語訳聖書
「死人の中から」
イエスは「死人の中からよみがえった神の御子」である。(Ⅰテサロニケ1:10) それゆえに、罪に死んでいたわたしを罪の束縛から救い出される。救い出され、新しいいのちを生きてはじめて、人は「罪に死んだいのち」を生きていたと知る。
(心のデボーション4421)
心のデボーション4422
「僕、命ぜられし事を爲したればとて、主人これに謝すべきか。」 ルカ17:9 大正文語訳聖書
「僕が命じられたことをしたからといって、主人は彼に感謝するだろうか。」 口語訳聖書
「役に立たないしもべ」
シカゴにある近代的な工場で、生産性が急に低下した。数千人の労働者が仕事に「やる気」を失ったのである。専門家が調査したところ、この工場の労働者は誰一人として自分のしている仕事の目的と意味を教えられていないことがわかった。人は自分がどれほど役に立ったかが見えないとやる気を失う。仕事の目的と意味を知る人が「わたしたちはふつつかな僕(ἀχρεῖος)です。すべき事をしたに過ぎません」(ルカ17:10)と言えるのかもしれない。
(心のデボーション4422)
心のデボーション4423
「神を知らぬ者と我らの主イエスの福音に服はぬ者とに報いをなし給ふとき、」 Ⅱテサロニケ1:8 大正文語訳聖書
「その時、主は神を認めない者たちや、わたしたちの主イエスの福音に聞き従わない者たちに報復し、」 口語訳聖書
「報復」
神は、「神を認めない者たちや、主イエスの福音に聞き従わない者たち」に「報復」される。(Ⅱテサロニケ1:8) 「報復ἐκδίκησις」は「立場を明らかにする」の意。神に従わない者の立場を明らかにし、そのような者への神の立場が明らかにされる。
(心のデボーション4423)
心のデボーション4424
「かれは叫ぶことなく聲をあぐることなくその聲を街頭にきこえしめず」 イザヤ42:2 明治元訳聖書
「彼は叫ぶことなく、声をあげることなく、その声をちまたに聞えさせず、」 口語訳聖書
「いたんだ葦」
主の手にあるのは「くすぶる燈心」と「いたんだ葦の棒」である。くすぶる燈心は小さな光しか出せない。いたんだ葦は文字を書くこともできない。しかし、主はそれを捨てようとなさらない。役に立たないから不要だろうか。無造作に捨てられたものが主の手の中にある。何が価値あるものかを、人は本当には知らない。
(心のデボーション4424)
心のデボーション4425
「われ曩には涜す者、迫害する者、暴行の者なりしに、我を忠實なる者として、この職に任じ給ひたればなり。われ信ぜぬ時に知らずして行ひし故に憐憫を蒙れり。」 Ⅰテモテ1:13 大正文語訳聖書
「わたしは以前には、神をそしる者、迫害する者、不遜な者であった。しかしわたしは、これらの事を、信仰がなかったとき、無知なためにしたのだから、あわれみをこうむったのである。」 口語訳聖書
「神をそしる者」
パウロは「わたしは以前には、神をそしる者であった」と告白する。(Ⅰテモテ1:13) 大正文語訳聖書「われ曩には涜す者」、「曩(のう)」は「さき、さきに、久しく」の意。明治元訳聖書「われ昔は謗讟たるもの」、「謗讟(ぼうとく)」と訳して「けがしたる者」と読ませる。「讟」は「人にあらゆる汚し言葉を浴びせる」の意で「誹謗中傷」である。ギリシャ語βλασφημόςは「神を冒涜し、口汚く罵る」の意である。人はみな無自覚に「神をそしる者」である。
(心のデボーション4425)
心のデボーション4426
「之がために我これらの苦難に遭ふ。されど之を恥とせず、我わが依頼む者を知り、且わが委ねたる者を、かの日に至るまで守り得給ふことを確信すればなり。」 Ⅱテモテ1:12 大正文語訳聖書
「そのためにまた、わたしはこのような苦しみを受けているが、それを恥としない。なぜなら、わたしは自分の信じてきたかたを知っており、またそのかたは、わたしにゆだねられているものを、かの日に至るまで守って下さることができると、確信しているからである。」 口語訳聖書
「わたしにゆだねられたもの」
神は「わたしにゆだねられているものを、かの日に至るまで守って下さる」。(Ⅱテモテ1:12) 神から来るものはすべて、神御自身がその日にいたるまで守り給う。ことを成し遂げられるのは神である。「ゆだねられたものπαραθήκη」は「委託物、預かりもの」の意。人は「私」という「神からの預かりもの」をもっている。
(心のデボーション4426)
心のデボーション4427
「然どその食物膓の中にて變り 腹の内にて蝮の毒とならん」 ヨブ20:14 明治元訳聖書
「その食物は彼の腹の中で変り、 彼の内で毒蛇の毒となる。」 口語訳聖書
「コブラの毒」
「人の不幸は蜜の味」とは誰のことばだろうか。「人をそしるは鴨の味」というのもある。不幸を願っていないまでも、悪い気はしないものであることは否めない。蜜ほどでなくても、ほんのりした甘さを感じてしまう。悪は蜜のように甘くても、それを舌の裏に隠していると、やがて「コブラの毒」に変わるとヨブ記は警告する。箴言9:17には「盗んだ水は甘く、こっそり食べる食べ物はうまい」とある。この種の味のとりこにだけはなりたくないものである。
(心のデボーション4427)
心のデボーション4428
「クレテ人の中なる或る預言者いふ 『クレテ人は常に虚僞をいふ者、 あしき獸、また懶惰の腹なり』」 テトス1:12 大正文語訳聖書
「クレテ人のうちのある預言者が「クレテ人は、いつもうそつき、/たちの悪いけもの、なまけ者の食いしんぼう」と言っているが、」 口語訳聖書
「クレテ人は、いつもうそつき」
「ある預言者」はクレテ人の詩人エピメニデス Ἐπιμενίδηςである。「クレテ人は、いつもうそつきψεύστης」と言ったのがクレテ人エピメニデスであることから、エピメテスは嘘つきとなるので、「クレテ人は、いつもうそつき」は嘘にならざるを得ず、この言葉は「クレテ人は、いつも正直」というパラドックスが成立する。しかし、このパラドックスが成立するには、言うことがすべて嘘という人と、言うことがすべて正直な人が前提にあり、その前提の人間は存在しないことから、パラドックスは成立しない。
パウロはエピメニデスの「クレテ人は、いつもうそつき、/たちの悪いけもの、なまけ者の食いしんぼう」をパラドックスとして引用したわけではなく、テトスを遣わしたクレテ島の教会には「法に服さない者、空論に走る者、人の心を惑わす者が多くおり、とくに、割礼のある者の中に多い」(テトス1:10)事実からである。
(心のデボーション4428)
心のデボーション4429
「汝らの爲し得るかぎり力めて凡ての人と相和(あひやはら)げ。愛する者よ、自ら復讐すな、ただ神の怒に任せまつれ。録して『主いひ給ふ、復讐するは我にあり、我これに報いん』とあり」 ロマ12:18-19 大正文語訳聖書
「あなたがたは、できる限りすべての人と平和に過ごしなさい。 愛する者たちよ。自分で復讐をしないで、むしろ、神の怒りに任せなさい。なぜなら、「主が言われる。復讐はわたしのすることである。わたし自身が報復する」と書いてあるからである。」 口語訳聖書
「目には目、歯には歯」
聖書の「目には目、歯には歯」は、ハンムラビ法典の定めと同じではない。聖書の原則はロマ12:18-20にある。「爲し得るかぎり力めて凡ての人と相和(あひやはら)ぐεἰρηνεύω」ことであり、「神の怒に任せ」て「自ら復讐しない」ことである。ただ、アブラハムのように「なんぢ斯の如く爲て義者と惡者と倶(とも)に殺すが如きは是あるまじき事なり又義者と惡者を均等するが如きもあるまじき事なり天下を鞫(さば)く者は公儀(ただしき)を行ふ可(べき)にあらずや」(創世記18:25 明治元訳聖書)と神に祈るのである。
(心のデボーション4429)
心のデボーション4430
「我かれを汝に歸す、かれは我が心なり」 ピレモン1:12 大正文語訳聖書
「彼をあなたのもとに送りかえす。彼はわたしの心である。」 口語訳聖書
「私の心そのもの」
パウロはオネシモをピレモンの元に送り返すにあたり、「彼はわたしの心である」。(ピレモン1:12)と言い送る。
オネシモはピレモンの奴隷であったが、主人から逃亡し、パウロによってキリストに導かれ、「今はパウロにとってもピレモンにとっても「役に立つ者εὐχρηστος」になった。(ピレモン1:11)
本節を祥訳聖書は「私は彼の身柄をあなたのもとに送り返しますが、<それは>私の心そのもの<を送るよう>です」と訳す。「彼はわたしの心である」は「私の心そのものを送ります」の意である。
(心のデボーション4430)
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