心のデボーション4401
「われ詔命をのべんヱホバわれに宣まへり なんぢはわが子なり今日われなんぢを生り」 詩篇2:7 明治元訳聖書
「わたしは主の詔をのべよう。主はわたしに言われた、「おまえはわたしの子だ。きょう、わたしはおまえを生んだ。」 口語訳聖書
「きょう、わたしはおまえを生んだ」
「きょう、わたしはおまえを生んだ。LXX ἐγὼ σήμερον γεγέννηκά σε」。(詩篇2:7) 「今日σήμερον」は「今日、今、現在」の意。M・A・バーネットは「同格なる御子は永遠の『今』に於いて汝より出づ」と注解する。(M・A・バーネット「ロマ書注解」福音伝道教団昭和21年1月) 主イエスは今日という「今、現在」に神より出でる、信じる者の内にキリストと共なる今日という「今、現在」を常に新たに出でしめる。
(心のデボーション4401)
心のデボーション4402
「撃こと愈すことは凡て我是を爲す」 申命記32:39 明治元訳聖書
「わたしは殺し、また生かし、傷つけ、またいやす」 口語訳聖書
「間合い」
自分と相手が別々の欲求を持っていて、うまくかみ合わないことはしばしばある。自分を立てれば相手がつぶれ、相手を立てれば自分が死んでしまう。こんな時には、二人の「間合い」について考えてみる。心は相手にではなく、「相手に対している自分」に向ける。もし、相手に打たれたら、打たれたことを否定したり、抵抗しないことだ。そこに、自分ではわからない自分があるかもしれない。相手との正しい「間合い」が生まれれば、めったに打たれたりしなくなる。
(心のデボーション4402)
心のデボーション4403
「もし罪を犯したる事なしといはば、これ神を僞者とするなり、神の言われらの中になし。」 Ⅰヨハネ1:10 大正文語訳聖書
「もし、罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とするのであって、神の言はわたしたちのうちにない。」 口語訳聖書
「神のたわごと」
「罪を犯したことがない」と言う者は神を「偽り者ψεύστηςとする」。(Ⅰヨハネ1:10) 明治元訳聖書は「謊人」と訳し「いつわりびと」と読ませる。「謊」音読コウは「うそ、でたらめ、うわごと、ばかげた言葉」の意。「罪」は「神のばかげた言葉」と「自分は罪を犯したことがない」と言うのである。そのうちに神の言葉はない。
(心のデボーション4403)
心のデボーション4404
「汝等しづまりて我の神たるをしれ われはもろもろの國のうちに崇められ全地にあがめらるべし」 詩篇46:10 明治元訳聖書
「静まって、わたしこそ神であることを知れ。わたしはもろもろの国民のうちにあがめられ、全地にあがめられる」。 口語訳聖書
「知る」
主は「わたしこそ神であることを知れ」と語られる。ヘブル語で「知る」は「ヤダー」で、「手」を意味する「ヤード」からきている。ユダヤ人にとって、「知る」は「手で触れ」、「直接つかむ」ことに他ならない。「手で触れ、直接つかむ」のでなければ、人は神を知ったことにならず、「手で触れ、直接つかむ」のでなければ、人は自身を、人をも知ったとは言えない。
(心のデボーション4404)
心のデボーション4405
「されど此の人々は知らぬことを罵り、無知の獸のごとく、自然に知る所によりて亡ぶるなり。」 ユダ1:10 大正文語訳聖書
「しかし、この人々は自分が知りもしないことをそしり、また、分別のない動物のように、ただ本能的な知識にあやまられて、自らの滅亡を招いている。」 口語訳聖書
「自滅」
「自分が知りもしないことをそしる者」は「分別のない動物のよう」である。彼は「本能的に知っている事柄によって自滅」(ユダ1:10新共同訳聖書)する。人間の本能は壊れ、その心は病み、そのいのちを自ら壊す(φθείρω
腐らせる)。ただ、「神の愛の中に自らを保ち、永遠のいのちを目あてとして、わたしたちの主イエス・キリストのあわれみを待ち望む」のである。(ユダ1:21)
(心のデボーション4405)
心のデボーション4406
「今いまし、昔いまし、後きたり給ふ主なる全能の神いひ給ふ『我はアルパなり、オメガなり』」 黙示1:8 大正文語訳聖書
「今いまし、昔いまし、やがてきたるべき者、全能者にして主なる神が仰せになる、「わたしはアルパであり、オメガである」。 口語訳聖書
「全能の神」
神は「今いまし、昔いまし、後きたり給ふ主なる全能の神」である。この神が「我はアルパ也オメガなり始めなり終なり」といわれるとき、事のはじめに「今いまし、昔いまし、後きたり給ふ主なる全能の神」がおられ、事の終わりに「「今いまし、昔いまし、後きたり給ふ主なる全能の神παντοκράτωρ」がおられる。
(心のデボーション4406)
心のデボーション4407
「若き者よ、なんぢら長老たちに服へ、かつ皆たがひに謙遜をまとへ『神は高ぶる者を拒ぎ、へりくだる者に恩惠を與へ給ふ』」 Ⅰペテロ5:5 大正文語訳聖書
「同じように、若い人たちよ。長老たちに従いなさい。また、みな互に謙遜を身につけなさい。神は高ぶる者をしりぞけ、へりくだる者に恵みを賜うからである。」 口語訳聖書
「認められない不満」
もっと自分は認められてもよいと考えたことはないだろうか。確かに能力も才能もあるかもしれない。しかし、その自分を表現する努力をしないで他人の低い評価につぶやいてはいないだろうか。自己主張をしないのが謙遜ταπεινόςではない。謙遜な人とは現実の中で自分にできることをきちんとしていく人である。自分から動こうとしないのは、人が認めてくれないからというよりも、本当の自信がないからではないだろうか。
(心のデボーション4407)
心のデボーション4408
「この人々はみな女たち及びイエスの母マリヤ、イエスの兄弟たちと共に、心を一つにして只管いのりを務めゐたり。」 使徒1:14 大正文語訳聖書
「彼らはみな、婦人たち、特にイエスの母マリヤ、およびイエスの兄弟たちと共に、心を合わせて、ひたすら祈をしていた。」 口語訳聖書
「もっぱらに祈りする」
イエスの復活後、弟子たちはエルサレムの家の屋上の間に集まり、「心を合わせて、ひたすら祈をしていた。」(使徒1:13) 「ひたすらπροσκαρτερέω」は「もっぱらに祈りする」の意。事が始まる前に、もっぱらな祈りをもって備えよ。
(心のデボーション4408)
心のデボーション4409
「ただ然り然り、否否といへ、之に過ぐるは惡より出づるなり」 マタイ5:37 大正文語訳聖書
「あなたがたの言葉は、ただ、しかり、しかり、否、否、であるべきだ。それ以上に出ることは、悪から来るのである。」 口語訳聖書
「二枚舌」
イソップ物語には「二枚舌」にまつわる二つの話がある。「卑怯なコウモリ」の話では、森で動物と鳥の戦争があったとき、コウモリは、鳥が有利になると「私は鳥の仲間です。あなたたちと同じように翼を持っています」と言い、獣が有利になると、「私は獣の仲間です。ネズミのような灰色の毛皮と牙があります」と言った。その後、動物と鳥の戦争が終わり、鳥も獣も和解した。しかし、コウモリはどちらの種族からも嫌われ、仲間はずれにされ、やがて暗い洞窟の中へ身を隠すようになる。
もう一つは「コウモリとイタチ」の話で、コウモリが地上に落ちてイタチに捕まる。鳥と戦争をしているイタチがコウモリを殺そうとすると「自分は鳥ではなくネズミだ」といって助かる。コウモリは再び地上に落ちネズミを憎むイタチに捕まり殺されそうになると「自分はネズミではなくコウモリです」といって放免される。コウモリは「二枚舌」を使って危機を切り抜ける。
いのちを救う「二枚舌」と、いのちを損なう「二枚舌」がある。
(心のデボーション4409)
心のデボーション4410
「神の義は此に顯れて信仰より信仰に至れり録して義人は信仰に由て生べしと有が如し」 ロマ1:17 大正文語訳聖書
「神の義はその福音のうちに顯れ、信仰より出でて信仰に進ましむ。録して『義人は信仰によりて生くべし』とある如し。」 口語訳聖書
「神の義」
「神の義はその福音のうちに顯れ」。(ロマ1:17) モーセは神の山ホレブで燃える柴の中から彼を呼ぶ神の声を聴き、神を仰ぎ見ることを恐れて顔を隠した。(出エジプト記3:1-6) 人は神を直接見ることはできない。「福音のうちにあらわされて(ἀποκαλύπτω覆いを取り除かれて)、神と神の義を知る」のである。
(心のデボーション4410)
コメント