心のデボーション438

デボーション1
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心のデボーション4371

「我は福音を恥とせず、この福音はユダヤ人を始めギリシヤ人にも、凡て信ずる者に救を得さする神の力たればなり。」 ロマ1:16  大正文語訳聖書

「わたしは福音を恥としない。それは、ユダヤ人をはじめ、ギリシヤ人にも、すべて信じる者に、救を得させる神の力である。」 口語訳聖書

 「わたしは福音を恥としない」

「わたしは福音を恥ἐπαισχύνομαιとしない」(ロマ1:16)、「神は、彼らの神と呼ばれても、それを恥ἐπαισχύνομαιとはされなかった」(へブル11:16) からである。

(心のデボーション4371)

心のデボーション4372

「我は我が蒙りたる默示の鴻大なるによりて高ぶることのなからん爲に、肉體に一つの刺を與へらる、即ち高ぶることなからん爲に我を撃つサタンの使なり。」 Ⅱコリント12:7  大正文語訳聖書

「そこで、高慢にならないように、わたしの肉体に一つのとげが与えられた。それは、高慢にならないように、わたしを打つサタンの使なのである。」 口語訳聖書

 「とげ」

人前に出ると緊張して、自由に自分を表現できない人もいる。緊張感を隠すとかえってこだわりが強くなり、顔が赤くなったりする。そういうときには、「私は今緊張しています。緊張すると血のめぐりが活発になり、顔が赤くなります」と告げてしまうのも一つの方法である。パウロも何か身体的な悩みがあって、それを「取ってくれ」と三度も祈ったが、むしろこの「とげ」には自分を高慢から護り、成長させる役割があると考え直す。あなたは今のままでよい。Ⅱコリント12:7の「刺σκόλοψ」は元来「先の尖った棒、杭」の意味であったが、「突き刺さって痛みを与える」から「刺、(比喩として)苦痛を与える肉体的欠陥、病」の意に用いられるようになった。「刺」は本人にとっては杭を打ち込まれる程の痛みをもたらす。

(心のデボーション4372)

心のデボーション4373

「わが兄弟よ、クロエの家の者、なんぢらの中に紛爭あることを我に知らせたり。」 Ⅰコリント1:11  大正文語訳聖書

「わたしの兄弟たちよ。実は、クロエの家の者たちから、あなたがたの間に争いがあると聞かされている。」 口語訳聖書

 「信仰の不和」

パウロは「クロエの家の者たち」から、コリントの教会に「争いἔρις」があることを聞いた。(Ⅰコリント1:11)  「争いἔρις」には「不和、争い、口論、争論、闘争、けんか、軋轢、競争」等の意味がある。それは小さな不和、口論にはじまり、争論となり、やがて深刻な対立をもたらし、闘争に発展する。信仰の小さな不和を見逃してはならない。

(心のデボーション4373)

心のデボーション4374

「嘲笑者は誡めらるることを好まず また智慧ある者に近づかず」 箴言15:12  明治元訳聖書

「あざける者は戒められることを好まない、また知恵ある者に近づかない。」 口語訳聖書

 「神への愛」

ある年齢になると、しかってくれる人もいなくなる。もう、「しかってくれる人を愛する」こともできない。そうなってはじめて、神がしかってくれるのを「愛する」ことができるのかもしれない。「あざける者」とは知恵をバカにして笑う人のことである。バカになれる人ほど神に近づき、どんどん愚かな自分が愛せるようになるようだ。

(心のデボーション4374)

心のデボーション4375

「神は斯かる死より我らを救ひ給へり、また救ひ給はん。我らは後もなほ救ひ給はんことを望みて神を頼み、」 Ⅱコリント1:10  大正文語訳聖書

「神はこのような死の危険から、わたしたちを救い出して下さった、また救い出して下さるであろう。わたしたちは、神が今後も救い出して下さることを望んでいる。」 口語訳聖書

 「これほど大きな死の危険」

パウロは幾度も死を覚悟するような危険にあった。しかし、「神はこのような死の危険から、わたしたちを救い出して下さった」し、「また救い出して下さるであろう」と信じ、「神が今後も救い出して下さることを」望む。(Ⅱコリント1:10) 「死の危険ἐκ τηλικούτου θανάτου」は「これほどおおきな死の危険」の意。死がどれほど大きく、どれほど恐ろしくとも、主はそこから救い出してくださる。

(心のデボーション4375)

心のデボーション4376

「われら世に在りて殊に汝らに對し、神の清淨と眞實とをもて、また肉の智慧によらず、神の恩惠によりて行ひし事は、我らの良心の證する所にして、我らの誇なり。」 Ⅱコリント1:12  大正文語訳聖書

「さて、わたしたちがこの世で、ことにあなたがたに対し、人間の知恵によってではなく神の恵みによって、神の神聖と真実とによって行動してきたことは、実にわたしたちの誇であって、良心のあかしするところである。」 口語訳聖書

 「人間の知恵によらず」

「人間の知恵σοφια σαρκικη」。「人間のσαρκικός」は「肉的な」からきて、「物質的な」の意である。物質的価値観による知恵は、人から人間存在の意味と尊厳を奪う。人間は肉と霊によって生きる存在である。(創世記1:27; 2:7)

(心のデボーション4376)

心のデボーション4377

「我彼らに我のヱホバなるを識るの心をあたへん彼等我民となり我彼らの神とならん彼等は一心をもて我に歸るべし」 エレミヤ24:7  明治元訳聖書

「わたしは彼らにわたしが主であることを知る心を与えよう。彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。彼らは一心にわたしのもとに帰ってくる。」 口語訳聖書

 「求める心」

「主を知る心」は、内から生じるよりも、上から与えられるものである。イエス・キリストは「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます」と約束された。(マタイ7:7) 与えられるには、「求め」「捜し」「たたく」ことが不可欠である。しかし、「求める心」「捜す心」「たたく心」もまた、上からくる。求める心のあるところに、主はすでに働いておられる。

(心のデボーション4377)

心のデボーション4378

「即ち時滿ちて經綸にしたがひ、天に在るもの地にあるものを、悉とくキリストに在りて一つに歸せしめ給ふ。これ自ら定め給ひし所なり。」 エペソ1:10  大正文語訳聖書

「それは、時の満ちるに及んで実現されるご計画にほかならない。それによって、神は天にあるもの地にあるものを、ことごとく、キリストにあって一つに帰せしめようとされたのである。」 口語訳聖書

 「時の成熟」

「時の満ちるτοῦ πληρώματος τῶν καιρῶν」。(エペソ1:10) 「時καιρός(主の働き決定的な時)」が「満ちるπλήρωμα(充満する、完成する)」。それは必ず、「時χρόνος(時間)」の中に、見えるかたちで成就する。祥訳聖書は「満ちるπλήρωμα」を「成熟する」と訳出する。「καιρός 主の決定的な、特定の時」の成熟は、「χρόνος 時間」の成熟πλήρωμαである。

(心のデボーション4378)

心のデボーション4379

「ただ然り然り、否否といへ、之に過ぐるは惡より出づるなり」 マタイ5:37 大正文語訳聖書

「あなたがたの言葉は、ただ、しかり、しかり、否、否、であるべきだ。それ以上に出ることは、悪から来るのである。」 口語訳聖書

 「神の然りと否」

「然りは然り、否は否」は「ναὶ ναί, οὒ οὔ」で、「然り然り、否否」である。「<はい>なら<はい>、<いいえ>なら、<いいえ>とだけ言え」。(バルバロ訳聖書) 勿論、それは神の「然り」に「然り」と言い、神の「否」に「否」ということである。不信仰は「神の然り」に否といい、「神の否」に然りという。

(心のデボーション4379)

心のデボーション4380

「イエス・キリストによる義の果を充して、神の榮光と譽とを顯さん事を。」 ピリピ1:11  大正文語訳聖書

「イエス・キリストによる義の実に満たされて、神の栄光とほまれとをあらわすに至るように。」 口語訳聖書

 「義の実」

「イエス・キリストによる義の実に満たされてπεπληρωμένοι καρπὸν δικαιοσύνης τὸν διὰ ἰησοῦ χριστοῦ」。(ピリピ1:11) 「義の実」は「δικαιοσύνη(神の目から見た義)の実」である。それは「イエス・キリストに満たされておりδικαιόω」、「イエス・キリストにおいて満たされるδικαιόω」神の義である。

(心のデボーション4380)

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