心のデボーション437

デボーション1
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心のデボーション4361

「されど群衆これを知りて從ひ來りたれば、彼らを接けて、神の國の事を語り、かつ治療を要する人々を醫したまふ。」 ルカ9:11  大正文語訳聖書

「ところが群衆がそれと知って、ついてきたので、これを迎えて神の国のことを語り聞かせ、また治療を要する人たちをいやされた。」 口語訳聖書

 「また治療を要する人たち」

「また治療を要する人たちをいやされたκαὶ τοὺς χρείαν ἔχοντας θεραπείας ἰᾶτο」。(ルカ9:11) 「治療(をひつようとする)θεραπεία」の元意は「奉仕、仕える、神への奉仕」で「看病、治療」の意。医療は神に仕えるように患者に仕える行為をあらわす。「精神療法θεραπεία ψυχή」は「ψυχή(心、魂、いのち)」への「θεραπεία(仕える、治療)」である。「病める人」は「痛みに仕える者を必要とする人」である。

(心のデボーション4361)

心のデボーション4362

「われ速かにのがれて暴風と狂風とをはなれん」 詩篇55:8  明治元訳聖書

「わたしは急ぎ避難して、はやてとあらしをのがれよう」と。」 口語訳聖書

 「のがれの場」

あらしが近づいています。自分に「鳩の翼」があったら、一刻も早く飛び去って、「のがれの場」に急ぎたいと詩人はいう。傷つきやすい人は危険が近づいても逃げない。足がすくんでしまって逃げるタイミングを失うか、逃げても間違った「のがれの場」に行ってしまう。神の在ますところ、そこが「のがれの場」である。それは遠くにではなく、身近なところ、日常のささやかな経験の中にある。

(心のデボーション4362)

心のデボーション4363

「神の人よ、なんぢは此等のことを避けて、義と敬虔と信仰と愛と忍耐と柔和とを追ひ求め、」 Ⅰテモテ6:11  大正文語訳聖書

「しかし、神の人よ。あなたはこれらの事を避けなさい。そして、義と信心と信仰と愛と忍耐と柔和とを追い求めなさい。」 口語訳聖書

 「温和な心」

「子よ、柔和な心で、お前の仕事を果せ。そうすれば、お前は神に喜ばれる人に愛される。」(旧約聖書外典ベン=シラの知恵3:17  フランシスコ会訳聖書) 「柔和πραΰτης」は「柔和、温和、温順、穏和、親切、やさしさ」の意。聖書協会共同は「施しをする人にも増して愛される」。穏和な心で仕事を果す人は、神に喜ばれる施しをなす人にまして喜ばれる。「知恵にかなう柔和な行いをしていることを、よい生活によって示すがよい」。(ヤコブ3:13)

(心のデボーション4363)

心のデボーション4364

「願はくは主イエス・キリストの恩惠・神の愛・聖靈の交感、なんぢら凡ての者と偕にあらんことを」 Ⅱコリント13:13  大正文語訳聖書

「主イエス・キリストの恵みと、神の愛と、聖霊の交わりとが、あなたがた一同と共にあるように。」 口語訳聖書

 「老囚人の願い」

長い間、地下牢に閉じ込められ、そこで年老いた囚人が釈放された。それから幾日かして、老人は陰気な地下牢に戻りたいと願い出たそうである。老人が自由な世界に生きるには自分を変えなければならず、それが彼には苦痛に思えたのである。この人の願いは正当なものだろうか。幸せは人に押し付けることができない。ただ、そこに立って「主イエス・キリストの恵みと、神の愛と、聖霊の交わりとが、あなたにあるように」と祈る。

(心のデボーション4364)

心のデボーション4365

「御使の長ミカエル惡魔と論じてモーセの屍體を爭ひし時に、敢へて罵りて審かず、唯『ねがはくは主なんぢを戒め給はんことを』と云へり。」 ユダ1:9  大正文語訳聖書

「御使のかしらミカエルは、モーセの死体について悪魔と論じ争った時、相手をののしりさばくことはあえてせず、ただ、「主がおまえを戒めて下さるように」と言っただけであった。」 口語訳聖書

 「ののしりさばかず」

相手がだれであっても、「ののしりさばいて」はならない。大天使ミカエルですらサタンと論争があった時にもサタンを罵らず、ただ、「主がおまえを戒めて下さるように」と言った。(ユダ1:9) 「ののしるβλασφημία」は「誹謗中傷する」の意。人は相手を冒涜する自分の声の強さに励まされて心を荒げ、大胆に相手をさばく。この「大胆なふるまいτολμάω」は身を滅ぼす。

(心のデボーション4365)

心のデボーション4366

「視よ、彼は雲の中にありて來りたまふ、諸衆の目、殊に彼を刺したる者これを見ん、かつ地上の諸族みな彼の故に歎かん、然り、アァメン。」 黙示1:7  大正文語訳聖書

「見よ、彼は、雲に乗ってこられる。すべての人の目、ことに、彼を刺しとおした者たちは、彼を仰ぎ見るであろう。また地上の諸族はみな、彼のゆえに胸を打って嘆くであろう。しかり、アァメン。」 口語訳聖書

 「彼を刺しとおした者」

主の日には復活のキリストが雲に乗ってこられるのを、「すべての人の目、ことに、彼を刺しとおした()者たちは、彼を仰ぎ見るであろう」。(黙示1:7) 十字架の主を「刺しとおしたἐκκεντέω(深く刺し通しす、突きおす)者」のは「祭司、律法学者、パリサイ」であったが、すべてのキリスト者は、すぐに、それは「自分」であると気づき、イエスが死から甦られたのを目撃して、「しかり、アァメン」と唱えるだろう。

(心のデボーション4366)

心のデボーション4367

「それ罪の拂ふ價は死なり、然れど神の賜物は我らの主キリスト・イエスにありて受くる永遠の生命なり。」 ロマ6:23  大正文語訳聖書

「罪の支払う報酬は死である。しかし神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスにおける永遠のいのちである。」 口語訳聖書

 「永遠のいのち」

ギリシャ神話のティートーノスは永遠に生きることを望み、願いはかなえられ、死ぬことはなかったが、不幸にも、永遠に老いる身となった。では、ティートーノスが若いままで永遠に生きることが許されたら幸せだろうか。聖書で神が私たちに約束されたのは、永遠に老いていくのでもなく、一点にとどまって動かない永遠でもなく、死から復活されたキリストのいのちであった。

(心のデボーション4367)

心のデボーション4368

「然れど聖靈なんぢらの上に臨むとき、汝ら能力をうけん、而してエルサレム、ユダヤ全國、サマリヤ、及び地の極にまで我が證人とならん』」 使徒1:8  大正文語訳聖書

「ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう」。」 口語訳聖書

 「地のはてまで」

「地のはてまで、わたしの証人となる」。(使徒1:8) 「はてまでἔσχατος」は「空間的なはて」とともに「時間的はて」をも意味する。あなたがたは「最果ての地まで」、「時代のはて」までイエスの証人になる。

(心のデボーション4368)

心のデボーション4369

「ただ然り然り、否否といへ、之に過ぐるは惡より出づるなり」 マタイ5:37 大正文語訳聖書

「あなたがたの言葉は、ただ、しかり、しかり、否、否、であるべきだ。それ以上に出ることは、悪から来るのである。」 口語訳聖書

 「然り、然り」

「然りναί」を即「然りοὐ」、「否」を即「否」というべきではない。「然り」を「然り」、「否」を「否」と言うにも踏むべき手順はある。「然り」は「否」、「否」は「然り」に見出される。その文脈の中で「然り」は「然り」、「否」は「否」である。 

(心のデボーション4369)

心のデボーション4370

「我はギリシヤ人にも夷人にも、智き者にも愚なる者にも負債あり。」 ロマ1:14  大正文語訳聖書

「わたしには、ギリシヤ人にも未開の人にも、賢い者にも無知な者にも、果すべき責任がある。」 口語訳聖書

 「賢い者にも無知な者のみ」

「賢い者にも無知な者にも」。(ロマ1:14) 賢者という人間、愚者という人間がいるのではない。「わたしのこれらの言葉を聞いて行うものを、岩の上に自分の家を建てた賢い人」と「わたしのこれらの言葉を聞いても行わない者を、砂の上に自分の家を建てた愚かな人」(マタイ7:24,26)がいるのである。

(心のデボーション4370)

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