心のデボーション4341
「人々親しく我らが汝らの中に入りし状を告げ、また汝らが偶像を棄てて神に歸し、活ける眞の神に事へ、」 Ⅰテサロニケ1:9 大正文語訳聖書
「わたしたちが、どんなにしてあなたがたの所にはいって行ったか、また、あなたがたが、どんなにして偶像を捨てて神に立ち帰り、生けるまことの神に仕えるようになり、」 口語訳聖書
「偶像をすて」
「偶像を捨てて神に立ち帰り、生けるまことの神に仕えるようになり」。(Ⅰテサロニケ1:9) 偶像は「目があっても見ることができず、鼻があっても息ができず、耳があっても聞くことができず、手の指があっても触れることができず、足がっても歩くことができない」。(旧約聖書外典知恵の書15:15 フランシスコ会訳聖書) それと知った上で人はあえて偶像を神としようとする。何もできない神であれば安心して神と崇めることができる。「生けるまことの神」に立ち返る者は、まず、「何もできない無害な神」と決別せねばならぬ。
(心のデボーション4341)
心のデボーション4342
「祈りて言ふ『凡ての人の心を知りたまふ主よ、ユダ己が所に往かんとて此の務と使徒の職とより墮ちたれば、その後を繼がするに、此の二人のうち孰を選び給ふか示したまへ』」 使徒1:24 大正文語訳聖書
「祈って言った、「すべての人の心をご存じである主よ。このふたりのうちのどちらを選んで、」 口語訳聖書
「心を知るもの」
「凡ての人の心を知りたまふ主よσὺ κύριε, καρδιογνῶστα πάντων」。(使徒1:24) 心は、他人の心ばかりでなく、自分の心すらわからない。主は「καρδιογνώστης(心を知る者)」である。「知るγινώσκω」は「理解する、知り合う」という意味に加えて「見分ける」を含む。主は私を「理解し」、私と「知り合い」、そして私を「見分けて」くださる。
(心のデボーション4342)
心のデボーション4343
「汝らに患難を加ふる者に患難をもて報い、患難を受くる汝らに、我らと共に安息をもて報い給ふは、神の正しき事なり。」 Ⅱテサロニケ1:6 大正文語訳聖書
「すなわち、あなたがたを悩ます者には患難をもって報い、悩まされているあなたがたには、わたしたちと共に、休息をもって報いて下さるのが、神にとって正しいことだからである。」 口語訳聖書
「返礼」
苦しめる者は苦しめられる。「報いるἀνταποδίδωμι」は「返礼する」の意。「あなたがたを悩ます者」には神が「患難をもって報いられる(返礼される)」ので、あなたが返礼する必要はない。
(心のデボーション4343)
心のデボーション4344
「萬軍のヱホバ曰たまはくシヤルテルの子わが僕ゼルバベルよヱホバいふその日に我なんぢを取りなんぢを印の如くにせん そはわれ汝をえらびたればなり 萬軍のヱホバこれを言ふ」 ハガイ2:23 明治元訳聖書
「万軍の主は言われる、シャルテルの子、わがしもべゼルバベルよ、主は言われる、その日、わたしはあなたを立て、あなたを印章のようにする。わたしはあなたを選んだからであると、万軍の主は言われる」。」 口語訳聖書
「人生の評価」
仕事以外のことなら少々の困難をものともせず頑張れるのに、本業になるとまったく情熱を失ってしまう人がいる。本業にはそれによってその人の人生が評価される面があり、そういうかたちで自分を評価されたくないのかもしれない。人生の評価は他人ではなく、神に問う。そうすれば勝つか負けるかはそれほど問題にならない。自分が人生を選んだのではなく、神によって人生に選ばれていることもわかる。仕事への情熱はそこから生まれてくる。
(心のデボーション4344)
心のデボーション4345
「これは我に委ね給ひし幸福なる神の榮光の福音に循へるなり。」 Ⅰテモテ1:11 大正文語訳聖書
「これは、祝福に満ちた神の栄光の福音が示すところであって、わたしはこの福音をゆだねられているのである。」 口語訳聖書
「福音をゆだねる」
「わたしはこの福音をゆだねられているのである」。(Ⅰテモテ1:11) 「ゆだねるπιστεύω」は「信じる」の意であり、「委ねる」の意を含む。「委ねる」は「信じる」から生じる。神は信じる者を信じ、福音を委ねられた。
(心のデボーション4345)
心のデボーション4346
「この恩惠は今われらの救主キリスト・イエスの現れ給ふに因りて顯れたり。彼は死をほろぼし、福音をもて生命と朽ちざる事とを明かにし給へり。」 Ⅱテモテ1:10 大正文語訳聖書
「そして今や、わたしたちの救主キリスト・イエスの出現によって明らかにされた恵みによるのである。キリストは死を滅ぼし、福音によっていのちと不死とを明らかに示されたのである。」 口語訳聖書
「明らかにされた恵み」
「明らかにされた恵み」。(Ⅱテモテ1:10) 明治元訳聖書は「この恩惠は今われらの救主イエス・キリストの顯れ給ひしに由て顯れたり」と訳す。漢字「顯れ」は「顔をあらわしてはっきりと見せる」の意。神の恵みはイエス・キリストの「顯れ」によりて、我らの前に「顯れ(その顔をあらわして、はっきりと見せた)」。「明らかにされたφωτίζω」は「光り輝く」の意。キリストの福音のあらわれによって「いのちと不死」が、その顔をあらわじ、はっきりと見えた。
(心のデボーション4346)
心のデボーション4347
「萬軍のヱホバ默示をわが耳にきかしめたまはく まことにこの邪曲はなんぢらが死にいたるまで除き清めらるるを得ずと これ主萬軍のヱホバのみことばなり」 イザヤ22:14 明治元訳聖書
「万軍の主はみずからわたしの耳に示された、「まことに、この不義はあなたがたが死ぬまで、ゆるされることはない」と万軍の神、主は言われる。」 口語訳聖書
「欲耳」
自分の都合のよい見方を「欲目」というが、落語の世界では「欲耳」という言葉がある。他の落語家の芸を聞いて、自分よりへただと聞こえたら自分と同じ位、自分と同じと聞こえたら自分より上手、自分より上手と聞こえたら、これはもうかなわないほどの上手の芸だというのである。しかし、自分を支えるには欲目も欲耳も大切である。目にしろ、耳にしろ、少しだけ自分にひいき目だと知っていればよい。
(心のデボーション4347)
心のデボーション4348
「服從せず、虚しき事をかたり、人の心を惑す者おほし、殊に割禮ある者のうちに多し」 テトス1:10 大正文語訳聖書
「実は、法に服さない者、空論に走る者、人の心を惑わす者が多くおり、とくに、割礼のある者の中に多い。」 口語訳聖書
「割礼のある者の中に」
「割礼のある者」の中に「法に服さない者、空論に走る者、人の心を惑わす者」が多いという。(テトス1:10)「割礼のある者」はモーセの律法を守る信仰深いユダヤ人の意である。「割礼のない者」は異教徒とされる。信仰深い者は法に、その信仰において、服さなず、空論に走り、人の心を惑わしていないか自省しなければならない。
「しかし、たといわたしたちであろうと、天からの御使であろうと、わたしたちが宣べ伝えた福音に反することをあなたがたに宣べ伝えるなら、その人はのろわるべきである」 ガラテヤ1:8
(心のデボーション4348)
心のデボーション4349
「己が頭を指して誓ふな、なんぢ頭髮一筋だに白くし、また黒くし能はねばなり」 マタイ5:36 大正文語訳聖書
「また、自分の頭をさして誓うな。あなたは髪の毛一すじさえ、白くも黒くもすることができない。」 口語訳聖書
「神の不在の場所」
パリサイ人は何とかして神のご支配の及ばないところを探す。それを指して誓えば、神とは関わりのないこととして自由に、どうにでもできると考えるのだ。イエスはその道をことごとく塞がれる。神の不在の場所はどこにもない。それは、恵みの及ばぬ所はどこにもないという意味である。
(心のデボーション4349)
心のデボーション4350
「むしろ愛の故によりて汝にねがふ。既に年老いて今はキリスト・イエスの囚人となれる我パウロ、」 ピレモン1:9-10
「むしろ、愛のゆえにお願いする。すでに老年になり、今またキリスト・イエスの囚人となっているこのパウロが、」 口語訳聖書
「老聖徒の願い」
老聖徒パウロが人々に「願い」を告げる。(ピレモン1:9-11) 「年寄りπρεσβύτης」には「愛からでた願い」がある。「年寄りπρεσβύτης」には「年長の」の意味に加えて「より重要な」の意味がある。重要な人である。
(心のデボーション4350)
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