心のデボーション434

デボーション1
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心のデボーション4331

「録して、始の人アダムは、活ける者となれるとあるが如し。而して終のアダムは、生命を與ふる靈となれり。」 Ⅰコリント15:45 大正文語訳聖書

「聖書に「最初の人アダムは生きたものとなった」と書いてあるとおりである。しかし最後のアダムは命を与える霊となった。」 口語訳聖書

 「命を与える霊」

「最初の人アダムは生きたもの(ψυχή)となった」と書いてあるとおりである。しかし最後のアダムは命を与える霊(πνεῦμα)となった」。(Ⅰコリント15:45) 「霊(πνεῦμα)」は「生命力としての、生のエネルギーの根源としての)息」であり、「生きたもの(ψυχή)」は「生命、生命力、魂、霊魂」である。人は神の霊(πνεῦμα)により、神を知り、神の創造されたいのちを生きる力を得て、「生きたもの(ψυχή)」となる。「霊(πνεῦμαすなわちキリスト)」は人をして人間たらしめる力である。

(心のデボーション4331)

心のデボーション4332

「ねがはくは朝にわれらを汝のあはれみにてあきたらしめ 世をはるまで喜びたのしませたまへ」 詩篇90:14  明治元訳聖書

「あしたに、あなたのいつくしみをもってわれらを飽き足らせ、世を終るまで喜び楽しませてください。」 口語訳聖書

 「好きの流れ」

好きなことをしている時、ほとんど疲れも時間も忘れている。どんなに忙しくても、好きの中に身を置くことを止めてはいけない。好きの流れから物事を眺めると、いやなことにも耐えられる。自分は何が好きかで悩む必要はない。楽しく、歌いたくなることをひとつ見つけて、それを広げていけば良い。それから好きのいのちが目覚める。

(心のデボーション4332)

心のデボーション4333

「銀の如くこれを探り 秘れたる寳の如くこれを尋ねば」 箴言2:4  明治元訳聖書

「銀を求めるように、これを求め、かくれた宝を尋ねるように、これを尋ねるならば、」 口語訳聖書

 「かくれた宝」

何もかも満たされた環境よりも、常に何かが足りない環境の方が生きやすい。何をやらさせても間違いなくこなせる才能よりも、何をするにも努力しなければならない平凡な才能の方が良い仕事をする。いのちは「求める力」

に宿るのかもしれない。

(心のデボーション4333)

心のデボーション4334

「また一同の者に言ひたまふ『人もし我に從ひ來らんと思はば、己をすて、日々おのが十字架を負ひて我に從へ。』」 ルカ9:23  大正文語訳聖書

「それから、みんなの者に言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。」 口語訳聖書

 「自分を捨て」

困っている人を訪ねるとき注意したいのは、無意識のうちにその人から自分への依存を引き出そうとすることである。自分が困っている人にとっての「かけがえのない存在」になる、その喜びを味わいたいという誘惑がある。この場合、困っている人は、その人なしにはとてもやっていけないとすがりつくかもしれないが、「困ったこと」はそのまま残されて解決されないことが多い。キリストと共に困っている人を訪ねるには、まず、そうした自分を捨てることである。「自分を捨てἀρνέομαι」は「自分を知らないという」の意で、「自分を打ち消す」ことである。

(心のデボーション4334)

心のデボーション4335

「兄弟よ、われ汝らに示す、わが傳へたる福音は、人に由れるものにあらず」 ガラテヤ1:11  大正文語訳聖書

「兄弟たちよ。あなたがたに、はっきり言っておく。わたしが宣べ伝えた福音は人間によるものではない。」 口語訳聖書

 「福音」

伝えられるべき「福音」は、「人間によるもの」であってはならない。「人間によるものκατὰ ἄνθρωπον」、祥訳聖書は「人間の創案」と訳す。「福音」はキリストの啓示によるものであり、人間から出た、人間の爲のものではない。もし、その「福音」が耳に心地よく心によく叶うものであったら、疑うがよい。

「今わたしは、人に喜ばれようとしているのか、それとも、神に喜ばれようとしているのか。あるいは、人の歓心を買おうと努めているのか。もし、今もなお人の歓心を買おうとしているとすれば、わたしはキリストの僕ではあるまい。」(ガラテヤ1:10) 

(心のデボーション4335)

心のデボーション4336

「之に目をそそぎ怖れて言ふ『主よ、何事ぞ』御使いふ『なんぢの祈と施濟とは、神の前に上りて記念とせらる。』」 使徒10:4  大正文語訳聖書

「彼は御使を見つめていたが、恐ろしくなって、「主よ、なんでございますか」と言った。すると御使が言った、「あなたの祈や施しは神のみ前にとどいて、おぼえられている。」 口語訳聖書

 「10パイサのコイン」

マザーテレサのところに物乞いをしている男がやってきて、「自分も何かを差し上げたい」と言って、10パイサのコインを差し出した。テレサはもし受け取れば彼は餓えることになる、しかし、受け取らなければ彼は悲しむと悩みつつ、受け取った。(マザーテレサ「日々のことば」女子パウロ会2000/6 より) イエスは貧しいやもめのレプタ一つを喜ばれた。(マルコ12:41-44)

(心のデボーション4336)

心のデボーション4337

「汝等おのおの己のごとく其の妻を愛せよ、妻も亦その夫を敬ふべし。」 エペソ5:33  大正文語訳聖書

「いずれにしても、あなたがたは、それぞれ、自分の妻を自分自身のように愛しなさい。妻もまた夫を敬いなさい。」 口語訳聖書

 「夫婦のミイラ」

イタリアのパレルモにあるカプチン会修道院の地下納骨堂にはおびただしい数のミイラが安置されている。その中に夫婦と思われるミイラがあり、まるで妻が夫に語りかけるように顔を向けている。彼らは何を語っているのだろうか。喧嘩すると部屋に閉じこもって「こんりんざい口をきくものか」と思うが「ごめん」の一言でいそいそと寄り添ってしまう。夫婦のミイラもそんな人生の末にお互いの顔を向け合ったのかもしれない。

(心のデボーション4337)

心のデボーション4338

「御意の奧義を御意のままに示し給へり。」 エペソ1:9  大正文語訳聖書

「御旨の奥義を、自らあらかじめ定められた計画に従って、わたしたちに示して下さったのである。」 口語訳聖書

 「奥義」

神の「奥義μυστήριον」はわたしたちに示された。(エペソ1:9) 「奥義」とは「御子にあって、神の豊かな恵みのゆえに、その血によるあがない、すなわち、罪過のゆるしを受けた」(エペソ1:7)ことである。「奥義」は明らかにされた。しかし、それを個々に知る(自身の身において知る)ことが起こるのは「御意の奧義を御意のままに示し給う」「奥義」による。英語mysteryはギリシャ語μυστήριονを語源とし「神の隠された奥義、人智で計り知れない事柄」の意である。

(心のデボーション4338)

心のデボーション4339

「己が頭を指して誓ふな、なんぢ頭髮一筋だに白くし、また黒くし能はねばなり」 マタイ5:36 大正文語訳聖書

「また地をさして誓うな。そこは神の足台であるから。またエルサレムをさして誓うな。それは『大王の都』であるから。」 口語訳聖書

 「いのちにかけて誓う」

「頭にかけて誓う」は「いのちにかけて誓う」と同じ意味。「いのち」は神の創造であり、人間が介入することの許されない領域である。「すべては神のものです。何を指しても神を指すのです。おのれの不真実の埋め合わせに然うして御名を濫用してたまりますか」 (藤井武 『信仰生活』 春光社昭和23年より)

(心のデボーション4339)

心のデボーション4340

「善惡を辨へ知り、キリストの日に至るまで潔よくして躓くことなく、」 ピリピ1:10  大正文語訳聖書

「それによって、あなたがたが、何が重要であるかを判別することができ、キリストの日に備えて、純真で責められるところのないものとなり、」 口語訳聖書

 「キリストの日」

「キリストの日に備えて、純真で責められるところのないものとなり」、(ピリピ1:10) 「キリストの日に備えてεἰς ἡμέραν χριστοῦ」は「キリストの日に向けて、キリストの日のために」。すべてのことにおいて「純真で責められるところのないもの」となしつ向かてゆく「その日(キリストの日)」があり、その日はすでに今ここにある。

(心のデボーション4340)

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