心のデボーション4321
「兄弟よ、我らの主イエス・キリストの名に頼りて汝らに勸む、おのおの語るところを同じうし、分爭する事なく、同じ心おなじ念にて全く一つになるべし」 Ⅰコリント1:10 大正文語訳聖書
「さて兄弟たちよ。わたしたちの主イエス・キリストの名によって、あなたがたに勧める。みな語ることを一つにして、お互の間に分争がないようにし、同じ心、同じ思いになって、堅く結び合っていてほしい。」 口語訳聖書
「分争」
「お互の間に分争がないように」。(Ⅰコリント1:10) 「分争σχίσμα」は「裂け目、割れ目」で「破れ、分争」の意。教会に裂け目が入り、互いに分かれて相争うことがあってはならない。それは「破れ」である。漢字「破」は表面を引き裂き、中に踏み込んで徹底して壊すこと。小さな破れのうちに修復しなければ分裂に至る。
(心のデボーション4321)
心のデボーション4322
「ヱホバの樹とその植たまへるレバノンの香柏とは飽足ぬべし」 詩篇104:16 明治元訳聖書
「主の木と、主がお植えになったレバノンの香柏とは豊かに潤され、」 口語訳聖書
「タコ穴」
山形県の飛鳥では海の中の岩穴によくタコが入る。タコの入る岩穴にはそれぞれ決まった所有者がいて、その穴に入ったタコはそのタコのものなのだそうである。人はみな自分の入るべき「タコ穴」をもって生まれてくる。他人の「タコ穴」に間違って入ると痛い目にあう。自分の「タコ穴」が見つからないなら、岩穴の前で、じっと待つがよい。自分の身体にみあった穴がかならず見つかる。
(心のデボーション4322)
心のデボーション4323
「心のうちに死を期するに至れり。これ己を頼まずして、死人を甦へらせ給ふ神を頼まん爲なり。」 Ⅱコリント1:9 大正文語訳聖書
「心のうちで死を覚悟し、自分自身を頼みとしないで、死人をよみがえらせて下さる神を頼みとするに至った。」 口語訳聖書
「死を覚悟し」
「われら心中に必死を定む」。(Ⅱコリント1:9 明治元訳聖書)漢字「必」は棒切れを延ばすために両側から当て木をして締め付ける様をあらわし、そうならざるを得なくすること。「必死」は「死を覚悟して力を尽くす」の意。
「覚悟」と訳されたἀπόκριμαは「(神からの)決定、回答、宣告」の意。パウロは迫害に幾度も「神からの死の宣告」を受けたが、それは「自分自身を頼みとしないで、死人をよみがえらせて下さる神を頼みとする」信仰に生きるためであった。
(心のデボーション4323)
心のデボーション4324
「汝ら善を求めよ 惡を求めざれ 然らば汝ら生べし また汝らが言ごとく萬軍の神ヱホバ汝らと偕に在さん」 アモス5:14 明治元訳聖書
「善を求めよ、悪を求めるな。そうすればあなたがたは生きることができる。またあなたがたが言うように、万軍の神、主はあなたがたと共におられる。」 口語訳聖書
「善良な種族」
スポック博士がある人類学者の記録を紹介している。(「スポック博士の育児書」1946) それによると、大平洋のある島にAという善良な種族が住んでいた。彼らは数マイル離れた島のBという種族を非常にやばんだと思いこんでいた。そこで人類学者がB種族を調べてみると、彼らは善良な人々で、しかも、彼らも少し離れたA種族を血にうえた残忍な人種と思い込んでいたということである。人は相手をやばんと思いこむことで、自分を善良と思い込むことがある。
(心のデボーション4324)
心のデボーション4325
「我いま人に喜ばれんとするか、或は神に喜ばれんとするか、抑もまた人を喜ばせんことを求むるか。もし我なほ人を喜ばせをらば、キリストの僕にあらじ」 ガラテヤ1:10 大正文語訳聖書
「今わたしは、人に喜ばれようとしているのか、それとも、神に喜ばれようとしているのか。あるいは、人の歓心を買おうと努めているのか。もし、今もなお人の歓心を買おうとしているとすれば、わたしはキリストの僕ではあるまい。」 口語訳聖書
「親しみ」
「人に喜ばれようとしているのか」、ならば「わたしはキリストの僕ではあるまい」。(ガラテヤ1:10) 「人によろこばれようとする」、明治元訳聖書は「今われ人の親(したしみ)を得んことを要るや」。「親」は「鋭い刃物で身を切るような身近さに接して見る」の意から、じかに刺激をうける近しさの関係をあらわす。求めるならば神にこそ「親(したしみ、身を切るほどの近しさ)」しむことである。その人は人との真の「親(したしみ、身を切るほどの近しさ)」を得る。「喜ばれるπείθω」は「強い信頼」の意である。
(心のデボーション4325)
心のデボーション4326
「神は我らに諸般の知慧と聰明とを與へてその恩惠を充しめ、」 エペソ1:8 大正文語訳聖書
「神はその恵みをさらに増し加えて、あらゆる知恵と悟りとをわたしたちに賜わり、」 口語訳聖書
「あらゆる知恵と悟り」
「あらゆる知恵と悟りとをわたしたちに賜わり」。(エペソ1:8) 「知識と悟りσοφίᾳ καὶ φρονήσει」、「悟りφρόνησις」は「思考、思慮、思惟、知恵、知覚」の意。「あらゆる知恵」は「あらゆる思考、思惟」と共にある。「あらゆる知恵」と「あらゆる思考、思惟」は「惜しみなく与えられる神の恵み」にいや増す。
(心のデボーション4326)
心のデボーション4327
「風を伺ふ者は種播ことを得ず 雲を望む者は刈ことを得ず」 伝道11:4 明治元訳聖書
「風を警戒する者は種をまかない、雲を観測する者は刈ることをしない。」 口語訳聖書
「風を警戒する人」
パレスチナでは種をまくのに二つの方法がある。一つは種をまき散らす方法で、種は風にのって四方に運ばれる。もう一つは種の入った袋をロバにくくりつけて畑の中を歩かせるもので、袋に穴が開いていて種がこぼれるしかけである。種が無駄になるのを嫌って、「ちょうど良い風」を待つ人は、ついに種をまく機会を失うかもしれない。たとえそれが不首尾に終わるかもしれなくても種をまくことである。芽が出ないとわかったらもう一度まくがよい。
(心のデボーション4327)
心のデボーション4328
「善惡を辨へ知り、キリストの日に至るまで潔よくして躓くことなく、」 ピリピ1:10 大正文語訳聖書
「それによって、あなたがたが、何が重要であるかを判別することができ、キリストの日に備えて、純真で責められるところのないものとなり、」 口語訳聖書
「何が重要であるか」
「何が重要であるか」は愛が教えてくれる。(ピリビ1:9) 愛は「何が重要であるかを判別することができる」からである。「判別するδοκιμάζω」は「検査する、本物であることを証明する」の意。愛は何が重要なことかを検査して本物であることを証明する。
(心のデボーション4328)
心のデボーション4329
「地を指して誓ふな、神の足臺なればなり。エルサレムを指して誓ふな、大君の都なればなり」 マタイ5:35 大正文語訳聖書
「また地をさして誓うな。そこは神の足台であるから。またエルサレムをさして誓うな。それは『大王の都』であるから。」 口語訳聖書
「神の御座」
「ヱホバ如此いひたまふ 天はわが位地はわが足臺なり なんぢら我がために如何なる家をたてんとするか 又いかなる處かわが休憩の場とならん」 イザヤ66:1 明治元訳聖書
神は天の御座に座られ、その足は「地」に下ろされている。神の言葉は天で語られ、地をくまなく行き巡る。
「天と地」は人間の存在の根源である。
(心のデボーション4329)
心のデボーション4330
「ヱホバよなんぢの道をわれに敎へたまへ我なんぢの眞理をあゆまん ねがはくは我をして心ひとつに聖名をおそれしめたまへ」 詩篇86:1 明治元訳聖書
「主よ、あなたの道をわたしに教えてください。わたしはあなたの真理に歩みます。心をひとつにしてみ名を恐れさせてください。」 口語訳聖書
「人はひとりで死ぬ」
「人はひとりで死ぬのである。したがって、人はひとりであるかのようにしてやっていかなければならないのである。それだったら、りっぱな家を建てたりするだろうか。ためらわずに真理を求めることだろう」(パスカル「パンセ」211 前田陽一・由木康訳 中央公論社1973) 人が最初に知る「真理ἀλήθεια」は「人はひとりで死ぬ」という事実であろう。
(心のデボーション4330)
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