心のデボーション432

デボーション1
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心のデボーション4311

「われらを其の父なる神のために國民となし祭司となし給へる者に、世々限りなく榮光と權力とあらんことを、アァメン。」 黙示1:6

「わたしたちを、その父なる神のために、御国の民とし、祭司として下さったかたに、世々限りなく栄光と権力とがあるように、アァメン。」 口語訳聖書

 「祭司の務め」

終末の日に、神はわたしたちを「御国の民とし、祭司として下さった」。(黙示1:6) 御国の民は終末の審判に対して、神に犠牲をささげ、罪の赦しを祈る祭司の務めを担う。

(心のデボーション4311)

心のデボーション4312

「もし右の目なんぢを躓かせば、抉り出して棄てよ、五體の一つ亡びて、全身ゲヘナに投げ入れられぬは益なり。」 マタイ5:29  大正文語訳聖書

「もしあなたの右の目が罪を犯させるなら、それを抜き出して捨てなさい。五体の一部を失っても、全身が地獄に投げ入れられない方が、あなたにとって益である。」 口語訳聖書

 「報復」

暴力をふるっていた父親を息子が殴り殺すということがおこる。いじめられていた子が反撃に出ると、仕返しを恐れて、いじめよりはるかに過激で徹底したものになる傾向がある。弱者は暴君に対する攻撃によって、より強い暴君と化す。暴力は「目には目を」という掟を簡単に踏み越える。暴君とは怯える弱者なのかもしれない。打たれたら打ち返すような報復ほど人の心を哀しくするものはない。

(心のデボーション4312)

心のデボーション4313

「荒野にて四十日の間サタンに試みられ、獸とともに居給ふ、御使たち之に事へぬ。」 マルコ1:13  大正文語訳聖書

「イエスは四十日のあいだ荒野にいて、サタンの試みにあわれた。そして獣もそこにいたが、御使たちはイエスに仕えていた。」 口語訳聖書

 「追いやる」

マタイは、イエスは御霊によってサタンの試みを受けるため荒野に「導かれたἀνάγω」(マタイ4:1)としたが、マルコは、御霊がイエスを「イエスを荒野に追いやったἐκβάλλω(放り出す、見捨てる)」と、より強い表現で記している。御霊が強いてイエスを追いやった荒野には獣(θηρίον野獣)もいたが御使いたちがイエスに仕えていた。

(心のデボーション4313)

心のデボーション4314

「兄弟の愛をもて互に愛しみ、禮儀をもて相讓り、」 ロマ12:10  大正文語訳聖書

「兄弟の愛をもって互にいつくしみ、進んで互に尊敬し合いなさい。」 口語訳聖書

 「友情」

友情とは相手に自分よりまさっているところを見つけることである。尊敬をともなわない友情は、どこかムリが感じられる。聖書の「尊敬προηγέομαι(自分より優れる者とする)」は、相手を「額面通り」に受け取ることを意味する。ありのままに評価することが、相手を尊ぶ(自分より優れる者とする)ことである。友情が生まれないのは、相手をそれ以上に見ているか、それ以下に見ているからではないか。友情ほどうれしいものはありません。

(心のデボーション4314)

心のデボーション4315

「ザカリヤ之を見て、心さわぎ懼を生ず。」 ルカ1:12  大正文語訳聖書

「ザカリヤはこれを見て、おじ惑い、恐怖の念に襲われた。」 口語訳聖書

 「恐怖の念」

ザカリヤは神殿の中で主の使いが現れ、香壇の右に立つのを見て、「おじ惑い、恐怖の念に襲われた」。(ルカ1:12)聖なるものの現れに恐れを感じることは、不信仰ではなく、むしろ信仰の正常な反応である。恐れを知る者が「おそれることはないμὴ φοβοῦ」という声を聴くのである。

(心のデボーション4315)

心のデボーション4316

「イエス言ひたまふ『時また期は父おのれの權威のうちに置き給へば、汝らの知るべきにあらず。』」 使徒1:7  大正文語訳聖書

「彼らに言われた、「時期や場合は、父がご自分の権威によって定めておられるのであって、あなたがたの知る限りではない。」 口語訳聖書

 「何時とどんな時」

「時期や場合χρόνους ἢ καιροὺς」は「χρόνος(時間)やκαιρός(決定的な時)」で、「何時とかどんな時」の意。「χρόνος(時間)」と「καιρός(決定的な時)」は共に神が定められる。

(心のデボーション4316)

心のデボーション4317

「なんぢら何を食ひ何を飮まんと求むな、また心を動かすな。」 ルカ12:29  大正文語訳聖書

「あなたがたも、何を食べ、何を飲もうかと、あくせくするな、また気を使うな。」 口語訳聖書

 「気をもむ」

自分が気にすることは、だいたいにおいて人は気にしていないものだ。しかし、そうとわかっていても、気になるのは仕方がない。その時は、「悪いけど、ちょっと様子を見て来てくれる?」ともう一人の自分に声をかけてみる。戻ってきたもう一人の自分が「他人って、大したことを考えていないみたい」と言うなら、とりあえず気にするのをやめる。気になるのは、一人で考えていて心が定まらないからである。

(心のデボーション4317)

心のデボーション4318

「兄弟よ我しばしば志を立なんぢらに到り他の邦人の中に在ごとく爾曹の中よりも果を得んとせしかども今に至りて尚困げらる此を爾曹が知ざるを欲まず」 ロマ1:13  大正文語訳聖書

「兄弟たちよ。このことを知らずにいてもらいたくない。わたしはほかの異邦人の間で得たように、あなたがたの間でも幾分かの実を得るために、あなたがたの所に行こうとしばしば企てたが、今まで妨げられてきた。」 口語訳聖書

 「御霊の導き」

パウロはローマに福音を宣べ伝えたいと強く願い、「しばしば企てた」が妨げられて果たせなかった。(ロマ1:13)

そこで、パウロはケンクレヤにある教会の執事フィベが商用でローマに行くと知り、手紙(ローマ人への手紙)を送ることにした。パウロがローマに行くのはエルサレム神殿でのユダヤ人が引き起こした偽りの騒動に対してローマの市民権を持つパウロが皇帝カイザルに上訴し囚人として護送されたことによる。「多くの妨げκωλύω」の背後には御霊の導きがある。

(心のデボーション4318)

心のデボーション4319

「これ人をして神を尋ねしめ、或は探りて見出す事あらしめん爲なり。されど神は我等おのおのを離れ給ふこと遠からず、我らは神の中に生き、動きまた在るなり」 使徒17:27-28 大正文語訳聖書

「地にかけて誓ってもいけない。地は神の足台だからである。エルサレムにかけて誓ってもいけない。エルサレムは大王の都だからである」 フランシスコ会訳聖書

 「神の中に生き」

神は「天」にいますように、「地」にもいまし給う。人は地の何処にても天の神を見出すだろう。私は「神の中に生き、動きまた在る」のである。

「わたしが喜びを全く失って、寄るべなく、わびしく、疲れ果ててさまよっていた中、実は、わたしは神の聖地であるこの地上を歩いていたのだ」。(ファーバー 「ヘンリー・シーセン『組織神学』聖書図書刊行会1961/4」より」

(心のデボーション4319)

心のデボーション4320

「わが誡命は是なり、わが汝らを愛せしごとく互に相愛せよ」 ヨハネ15:12  大正文語訳聖書

「わたしのいましめは、これである。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。」 口語訳聖書

 「互いに愛し合いなさい」

「父を見捨てる者は、神を汚す者に等しく、母を怒らせる者は、主に呪われる、」旧約聖書外典ベン=シラの知恵3:16  フランシスコ会訳聖書) 子は父を汚すな。父はその子を支配してはならない。子は母を怒らせるな。母はその子を不満のはけ口にしてはならない。「互いに愛し合いなさい」(ヨハネ15:12)

(心のデボーション4320)

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