心のデボーション430

デボーション1
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心のデボーション4291

「律法は道理に循ひて之を用ひば善き者なるを我らは知る。」 Ⅰテモテ1:8  大正文語訳聖書

「わたしたちが知っているとおり、律法なるものは、法に従って用いるなら、良いものである。」 口語訳聖書

 「律法」

律法は「法に従って用いるなら、良いものである」。(Ⅰテモテ1:8) 「法に従って用いるならἐάν τις αὐτῶ νομίμως χρῆται」は「νομίμως正しく、目的にかなって、χράομαι取り扱う、行動するな」の意。律法は聖なるもの(ロマ17:12,16)であり、罪の自覚(ロマ3:20)を与え、キリストに(ガラテヤ3:24)導く。

(心のデボーション4291)

心のデボーション4292

「その時童女は舞てたのしみ壯者と老者もろともに樂しまん我かれらの悲をかへて喜となしかれらの愁をさりてこれを慰さめん」 エレミヤ31:13  明治元訳聖書

「その時おとめたちは舞って楽しみ、若い者も老いた者も共に楽しむ。わたしは彼らの悲しみを喜びにかえ、彼らを慰め、憂いの代りに喜びを与える。」 口語訳聖書

 「けなげな子」

母親が哀しそうな顔をしていると、近寄って、小さな手で涙を拭いてあげようとするような子どもがいる。母親を支えるけなげな子である。しかし、そういう子どもが成長して、つらい思いをするようになることも少なくない。母親に頼られることで生きてきたために、成長してからも自分を頼ってくる人の保護者になろうとして、人の不幸まで引き受けてしまう。子どもに必要なのは哀しみではなく喜びである。

(心のデボーション4292)

心のデボーション4293

「神は我らを救ひ聖なる召をもて召し給へり。是われらの行爲に由るにあらず、神の御旨にて創世の前にキリスト・イエスをもて我らに賜ひし恩惠に由るなり」 Ⅱテモテ1:9  大正文語訳聖書

「神はわたしたちを救い、聖なる招きをもって召して下さったのであるが、それは、わたしたちのわざによるのではなく、神ご自身の計画に基き、また、永遠の昔にキリスト・イエスにあってわたしたちに賜わっていた恵み、」 口語訳聖書

 「神ご自身の計画」

「神の召し」は人の業によらず、「神ご自身の計画(πρόθεσις)に基き、また、永遠の昔にキリスト・イエスにあってわたしたちに賜わっていた恵み」による。(Ⅱテモテ1:9) 「恵み」は種として人に蒔かれ、「救主キリスト・イエスの出現によって明らかにされ」、芽生えて実を結ぶ。

(心のデボーション4293)

心のデボーション4294

「惰者は途に獅あり 衢に獅ありといふ」 箴言26:13  明治元訳聖書

「なまけ者は、「道にししがいる、ちまたにししがいる」という。」 口語訳聖書

 「なまけ者」

なまけ者は「道に獅子がいる、広場には雄獅子がいる」と言って外に出ようとしない。実際に獅子が道にいるかどうかは問題ではない。「だから、ベットで寝返りを打つしかない」と自分を正当化できればいい。気がつくと、怠け者の言い訳を探していることがある。たいてい締切が近づいているのに原稿が書けない時である。なまけにつける薬はないものか。

(心のデボーション4294)

心のデボーション4295

「反つて旅人を懇ろに待ひ、善を愛し、謹愼あり、正しく潔く節制にして、」 テトス1:8  大正文語訳聖書

「かえって、旅人をもてなし、善を愛し、慎み深く、正しく、信仰深く、自制する者であり、」 口語訳聖書

 「旅人をもてなす」

教会の監督は「旅人をよくもてなす人」でなければならない。「旅人をもてなしφιλόξενος」は「外国からきた見知らぬ人への愛」の意。「道に不案内で戸惑う人を親切に受け入れ、正しく教え導く」の意であろう。

(心のデボーション4295)

心のデボーション4296

「兄弟よ、我なんぢの愛によりて大なる勸喜と慰安とを得たり。聖徒の心は汝によりて安んぜられたればなり。」 ピリピ1:7  大正文語訳聖書

「兄弟よ。わたしは、あなたの愛によって多くの喜びと慰めとを与えられた。聖徒たちの心が、あなたによって力づけられたからである。」 口語訳聖書

 「あなたの愛によって」

愛は聖徒の心を激しく喜ばせ、力を与える。(ピリピ1:7) 人を聖徒たらしめるのは拒絶を厭わない深い愛である。

(心のデボーション4296)

心のデボーション4297

「かくて幼兒を抱き、手をその上におきて祝し給へり。」 マルコ10:16  大正文語訳聖書

「そして彼らを抱き、手をその上において祝福された。」 口語訳聖書

 「子どもを抱く」

二歳くらいの女の子が母親の手を振りほどくようにして「抱っこいや」と叫ぶ。抱っこを嫌がる子どもが増えているのだろうか。子どもが「抱っこ」を嫌がるのは、抱っこのし過ぎではなく、抱っこをしないで育てたからかもしれない。イエスは左腕に子どもを抱きとり(ἐναγκαλίζομαι)、右手を頭において祝福をしている。抱くことは祝福のかたちである。母親の祈りのかたちなのである。

(心のデボーション4297)

心のデボーション4298

「あたらしき歌をヱホバにむかひてうたひ歓喜の聲をあげてたくみに琴をかきならせ」 詩篇33:3  明治元訳聖書

「新しい歌を主にむかって歌い、喜びの声をあげて巧みに琴をかきならせ。」 口語訳聖書

 「新しい歌」

「新しい歌LXX ἆσμα καινόν」は「新しいκαινός(質的に今までになかった、新しく創られた、前代未聞の)、歌ἆσμα」である。神は常に新しいことばをもって語られる。聖書は「今まで聞いたことのない、新しく創られた、前代未聞の神の言葉」である。聞く者を「今まで聞いたことのない、新しく創られた、前代未聞の者」とせずにはおかない。

(心のデボーション4298)

心のデボーション4299

「されど我は汝らに告ぐ、一切ちかふな、天を指して誓ふな、神の御座なればなり」 マタイ5:34 大正文語訳聖書

「しかし、わたしはあなたがたに言う。けっして誓ってはいけない。天にかけて誓ってはいけない。天は神の玉座だからである」 フランシスコ会訳聖書

 「宗教の欺瞞」

イエスの時代には「天、地、エルサレム、頭」を指して誓うことが行われた。「天、地、エルサレム、頭」を指せば、「神の名」にかけて誓うのではないから誓いを破っても問題はないと考えられたのである。人間は常にこの種の巧妙な逃げ道を考える。「然り」は「然り」、「否」は「否」と言うべきである。 宗教の欺瞞は、それに従う者を愚かにする。

(心のデボーション4299)

心のデボーション4300

「我は祈る、汝らの愛、知識ともろもろの悟とによりて彌が上にも増し加はり、」 ピリピ1:9  大正文語訳聖書

「わたしはこう祈る。あなたがたの愛が、深い知識において、するどい感覚において、いよいよ増し加わり、」 口語訳聖書

 「愛が増し加えられるように」

「愛が、深い知識において、するどい感覚において、いよいよ増し加わり」。(ピリピ1:9) 「するどい感覚αἴσθησις」は「道徳的敏感さ」の意。パスカルは「大事なことを軽んずるまでに無感覚であり、しかも、われわれにとっていちばん大事な点で無感覚になる」と言う。(パスカル「パンセ」197 前田陽一・由木康訳 中央公論社1973)

「深い知識において、するどい感覚において」愛が増し加えられることを祈れ。愛の反対は無感覚である。

(心のデボーション4300)

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