心のデボーション429

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心のデボーション4281

「互に仁慈と憐憫とあれ、キリストに在りて神の汝らを赦し給ひしごとく、汝らも互に赦せ。」 エペソ4:32  大正文語訳聖書

「互に情深く、あわれみ深い者となり、神がキリストにあってあなたがたをゆるして下さったように、あなたがたも互にゆるし合いなさい。」 口語訳聖書

 「無償の愛」

「もし、ほんとうに愛したいなら、ゆるすことを学ばなければなりません」(マザーテレサ「日々のことば」女子パウロ会2000/6 より) マザーテレサの「ゆるし」は、神がキリストにあって与えられる「ゆるしχαρίζομαι」である。Χαρίζομαιは「受ける資格のない者に惜しげなく与えられる無償の恵み(愛)」の意。

(心のデボーション4281)

心のデボーション4282

「田畑とその中のすべての物とはよろこぶべし かくて林のもろもろの樹もまたヱホバの前によろこびうたはん」 詩篇96:12  明治元訳聖書

「田畑とその中のすべての物は大いに喜べ。そのとき、林のもろもろの木も主のみ前に喜び歌うであろう。」 口語訳聖書

 「森の木々」

森の木々が主の御前で「喜び歌う」というのは比喩だけではなく本当かもしれない。植物に音楽を聴かせる実験では、ロックやヘビメタには音のする方向から逃げるように顔を背け、バッハにはスピーカーの周りに寄り添うように成長したということである。森の木々は、どのような「喜びの歌」を歌うのだろうか。森で体を地に伏せて、耳を地につけてみると、その歌が聞こえてくるという。しばらくそうしていると、心はとても暖まるそうである。

(心のデボーション4282)

心のデボーション4283

「律法の教師たらんと欲して、反つて其の言ふ所その確證する所を自ら悟らず。」 Ⅰテモテ1:7  大正文語訳聖書

「律法の教師たることを志していながら、自分の言っていることも主張していることも、わからないでいる。」 口語訳聖書

 「偽教師」

ある律法の教師は「神の救いの御計画」を見失い、「わき道にそれて無益な議論に走り」(Ⅰテモテ1:6新改訳聖書訳)、「自分の言っていることも主張していることも、わからないでいる」(Ⅰテモテ1:7) 神から離れた魂は、「自分の言っていることも主張していることも、わからない」教師の「無益な議論」にも魅かれる

(心のデボーション4283)

心のデボーション4284

「それ人の子の來れるは、失せたる者を尋ねて救はん爲なり」 ルカ19:10  大正文語訳聖書

「人の子がきたのは、失われたものを尋ね出して救うためである」 口語訳聖書

 「失われた人」

「ほっといて!」というのは、無視してほしいのではなく、「私と少し距離をおいてつき合ってほしい」という意味である。「さわらないで!」というのは、からだにふれてほしくないのではなく、「離れたところから私を見ていて」という意味である。突き放すようなことばは、「もっと上手に私とつきあって」というメッセージなのである。ザアカイのように「失われた人ἀπόλλυμι」であることへのさみしさに耐えかねて叫ぶ。本当の自分を見てと叫んでいるのである。

(心のデボーション4284)

心のデボーション4285

「されば汝われらの主の證をなす事と、主の囚人たる我とを恥とすな、ただ神の能力に隨ひて福音のために我とともに苦難を忍べ」 Ⅱテモテ1:8  大正文語訳聖書

「だから、あなたは、わたしたちの主のあかしをすることや、わたしが主の囚人であることを、決して恥ずかしく思ってはならない。むしろ、神の力にささえられて、福音のために、わたしと苦しみを共にしてほしい。」 口語訳聖書

 「主の囚人」

誇るなら「主の囚人」であることを誇れ。「囚人δέσμιος」は「縛られる、繋がれる、捕らわれる」の意。主と切ることのできない鎖で繋がれたのである。その者は「神の力」と繋がれている。

(心のデボーション4285)

心のデボーション4286

「これ木匠の子にあらずや、其の母はマリヤ、其の兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダにあらずや。」 マタイ13:55  大正文語訳聖書

「この人は大工の子ではないか。母はマリヤといい、兄弟たちは、ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。」 口語訳聖書

 「大工の子ではないか」

イエスがナザレの会堂で教えられると、人々はその教えに驚き、「この人は、この知恵とこれらの力あるわざとを、どこで習ってきたのか。この人は大工(τέκτων)の子ではないか。母はマリヤといい、兄弟たちは、ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか」(マタイ13:54-55)と言った。ナザレの人々は大工の子イエスは知っていたが、神の子イエスを知らなかった。彼らは即座にイエスの家業から、家族の名前をすら、ことごとく言い得た。イエスなら子どものころから知っていると主張する。しかし、あまりにイエスと親しすぎるために、かえってイエスを見失う。主イエスは礼拝の親しさの中でこそ知られるのである。

(心のデボーション4286)

心のデボーション4287

「これ『誇る者は主に頼りて誇るべし』と録されたる如くならん爲なり」 Ⅰコリント1:31  大正文語訳聖書

「それは、「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりである。」 口語訳聖書

 「誇り」

「自分を誇るな」、「誇るなら、ただ主を誇れ」とある。しかし「主にあって誇る自分」を、人に向けるならば、それはやはり「自分を誇る」ことになる。誇りは不用であるが、それは誇りを失うこととは違う。自分への誇りを砕いて行くと、失ってはならない誇りがあらわれてくる。それは、決して勝ち誇ることをしない誇りである。「主にある誇り(καυχάομαι)」とはそういうものではないか。

(心のデボーション4287)

心のデボーション4288

「反つて旅人を懇ろに待ひ、善を愛し、謹愼あり、正しく潔く節制にして、」 テトス1:8  大正文語訳聖書

「かえって、旅人をもてなし、善を愛し、慎み深く、正しく、信仰深く、自制する者であり、」 口語訳聖書

 「教会の監督」

教会の監督は「自制する」ことを学ばねばならない。「自制する者ἐγκρατής」は「自分をコントロールできる者」の意。この語は「主人公であること」をあらわし、他人に対して確立した自己を保つことのできる者を指す。

(心のデボーション4288)

心のデボーション4289

「また古への人に『いつはり誓ふなかれ、なんぢの誓は主に果すべし』と云へる事あるを汝ら聞けり」 マタイ5:33 大正文語訳聖書

「また昔の人々に『いつわり誓うな、誓ったことは、すべて主に対して果せ』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。」 口語訳聖書

 「主が果たされる」

「果たすことのできなかったことば」を覚えているだろうか? その多くは、今となっては、果たすことのできないものである。それらは、人に果たせなくても、「主が果たされる(ἀποδίδωμ )」ために残されているのかもしれない。

(心のデボーション4289)

心のデボーション4290

「願ふところは、汝の信仰の交際の活動により、人々われらの中なる凡ての善き業を知りて、榮光をキリストに歸するに至らんことなり。」 ピレモン1:6  大正文語訳聖書

「どうか、あなたの信仰の交わりが強められて、わたしたちの間でキリストのためになされているすべての良いことが、知られて来るようになってほしい。」 口語訳聖書

 「信仰の交わり」

「信仰の交わりἡ κοινωνία τῆς πίστεώς」とは、互いの間になされている「キリストのすべての良きこと」を知ることである。神への賛美なしに「信仰の交わり」はない。

(心のデボーション4290)

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