心のデボーション4271
「柔和・節制なり。斯かるものを禁ずる律法はあらず。」 ガラテヤ5:23 大正文語訳聖書
「柔和、自制であって、これらを否定する律法はない。」 口語訳聖書
「自制」
「自制ἐγκράτεια」は、「κράτος力」を自身の内に保つことで、「自分の主人である」、「物事を正しく処理する力を保つ」の意。転落は小さな物事を正しく処理することへの失敗からはじまる。「自制」は「御霊の実」である。(ガラテヤ5:22-23)
(心のデボーション4271)
心のデボーション4272
「兄弟よ、汝らに勸む、妄なる者を訓戒し、落膽せし者を勵まし、弱き者を扶け、凡ての人に對して寛容なれ。」 Ⅰテサロニケ5:14 大正文語訳聖書
「兄弟たちよ。あなたがたにお勧めする。怠惰な者を戒め、小心な者を励まし、弱い者を助け、すべての人に対して寛容でありなさい。」 口語訳聖書
「律儀な人」
何ごとにも几帳面で、律儀にしなければ気のすまない性格の人もいる。自分の世界でなら、それも悪いことではない。しかし、いつの間にか他人にもそれを要求しているときがある。そして、自分の思い通りにいかないと、すべてを投げ出してしまいたくなる。ときにはルーズに生きてもよい。いいかげんな生き方のすべてが悪いのではない。そうすることで、すべてを投げ出さないで済むのなら、あいまいな生き方にも意味がある。Ⅰテサロニケ5:14の「怠惰な者ἄτακτος」は「τάξις秩序に欠ける」からきて、「無秩序な、反抗的な混乱」の意で、上記の「いいかげん」とは別の乱れである。
(心のデボーション4272)
心のデボーション4273
「人その友のために己の生命を棄つる、之より大なる愛はなし。」 ヨハネ15:13 大正文語訳聖書
「人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない。」 口語訳聖書
「自己犠牲の愛」
「愛は犠牲によって知られる」という。しかし、何が愛かを見失った、誤った自己犠牲はしばしば、本人にも愛の対象者にも不幸をもたらす。そのような愛を控えることが真の愛かもしれない。
(心のデボーション4273)
心のデボーション4274
「而して我らを光にある聖徒の嗣業に與るに足る者とし給ひし父に感謝せん事なり。」 コロサイ1:12 大正文語訳聖書
「光のうちにある聖徒たちの特権にあずかるに足る者とならせて下さった父なる神に、感謝することである。」
「資格なき者に」
父なる神は信じる者を「光のうちにある聖徒たちの特権にあずかるに足る者とならせて下さる」。(コロサイ1:12)
[足る者とするἱκανόω]は「ἱκανός十分な、~に足りる」からきて、「適任者にする 資格ある者にする、力を与えるにふさわしい者にする」の意。聖徒に程遠い者を「その資格ある者にする、力を与えるにふさわしい者」とされたことに感謝せよ。
(心のデボーション4274)
心のデボーション4275
「而してマケドニヤ及びアカヤに在る凡ての信者の模範となれり。」 Ⅰテサロニケ1:7 大正文語訳聖書
「こうして、マケドニヤとアカヤとにいる信者全体の模範になった。」 口語訳聖書
「模範」
テサロニケ教会は迫害と患難によく耐え、「マケドニヤとアカヤとにいる信者全体の模範になった」。(Ⅰテサロニケ1:7) 「模範τύπος」は「τύπτω打ちたたく」からきた言葉である。金属や石でうちつけてできる「痕」を意味し「形、原型、見本、模範」の意をもつ。迫害と患難に打ち付けられた「痕」は、「従順と信仰」の証しとして地域全体の模範とされたのである。(Ⅱテサロニケ1:4)
(心のデボーション4275)
心のデボーション4276
「兄弟よ、われら汝等につきて常に神に感謝せざるを得ず、これ當然の事なり。そは汝らの信仰おほいに加はり、各自みな互の愛を厚くしたればなり。」 Ⅱテサロニケ1:3 大正文語訳聖書
「兄弟たちよ。わたしたちは、いつもあなたがたのことを神に感謝せずにはおられない。またそうするのが当然である。それは、あなたがたの信仰が大いに成長し、あなたがたひとりひとりの愛が、お互の間に増し加わっているからである。」 口語訳聖書
「愛の豊かさ」
パウロはテサロニケの教会が「信仰が大いに成長し(度をこえて成長し)」、「びとりの愛が、お互の間に増し加わっている」ことを喜ぶ。(Ⅱテサロニケ1:3) 「増し加わるπλεονάζω」は「富む、豊富である、増し加える、ありあまらせる、過剰である」の意。信仰の成長は「びとりの愛が、お互の間に増し加わっている(πλεονάζω)ことのなかに知られる。
(心のデボーション4276)
心のデボーション4277
「我キリストと偕に十字架につけられたり。最早われ生くるにあらず、キリスト我が内に在りて生くるなり。今われ肉體に在りて生くるは、我を愛して我がために己が身を捨て給ひし神の子を信ずるに由りて生くるなり。」 ガラテヤ2:20 大正文語訳聖書
「生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。しかし、わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰によって、生きているのである。」 口語訳聖書
「内なるキリスト」
妊婦は本当の祈りを知っているのではないか。体の奥深くにあって、耳をすませている他者に、絶えまなく語りかけ、耳を傾ける。一つのいのちの中で、互いに呼び掛け、応答し、深い充足に導かれる。人は生まれながらにこの充足を知っている。だから、人は誰もが祈りを知っていて、内にいます方に語りかけ、その気配に耳をすませるのではないか。
(心のデボーション4277)
心のデボーション4278
「義く行む者は救をえ 曲れる路に行む者は直に跌れん」 箴言28:18 明治元訳聖書
「正しく歩む者は救を得、曲った道に歩む者は穴に陥る。」 口語訳聖書
「麻の中の蓬」
諺に「麻の中の蓬」という。荀子の「蓬麻中に生ずれば扶 けざるも直し」から来たものである。蓬は柔らかい草で曲がりやすいが、麻の中の蓬は麻にそって曲がらずに育つと、人は「よき人と付き合えば素直に育つ」の意。曲がらずに伸びる蓬は蓬ではあるまい。蓬をも曲がらせない麻も、それが麻の性であれば責むべきでもない。「曲がり」はそれぞれの性の中で見極める必要がある。
(心のデボーション4278)
心のデボーション4279
「また古への人に『いつはり誓ふなかれ、なんぢの誓は主に果すべし』と云へる事あるを汝ら聞けり」 マタイ5:33 大正文語訳聖書
「また昔の人々に『いつわり誓うな、誓ったことは、すべて主に対して果せ』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。」 口語訳聖書
「偽りの誓い」
言葉を確実にするために人は誓う。それにもかかわらず、人は「偽りの誓い」をたてる。現代、私たちは「偽りの誓い」を見抜かなければならない時代に入った。
「汝等すべて人の災害(わざはひ)を心に圖(はか)る勿れ僞の誓を好む勿れ是等はみな我が惡(にく)む者なりとヱホバ言たまふ」 ゼカリヤ8:17 明治元訳聖書
(心のデボーション4279)
心のデボーション4280
「ヱホバいひたまひけるは視よわがダビデに一の義き枝を起す日來らん彼王となりて世を治め榮え公道と公義を世に行ふべし」 エレミヤ23:5 明治元訳聖書
「主は仰せられる、見よ、わたしがダビデのために一つの正しい枝を起す日がくる。彼は王となって世を治め、栄えて、公平と正義を世に行う。」 口語訳聖書
「ダビデのために一つの正しい枝を」
エッサイの子ダビデはイスラエル王国の二代目の王である。(初代王はサウル) その働きは旧約聖書に多く残されている(サムエル上下、Ⅰ列王、Ⅰ歴代11-29章)。ダビデはイスラエルの真の英雄であった。
預言者エレミヤは、「ダビデの末裔」からメシアが現れると預言した。(エレミヤ23:5-6)しかし、マタイの「イエスの系図」は、ダビデは「ウリヤの妻によってソロモン」が誕生したと伝えるのみである。メシアは英雄ダビデからではなく、人間の罪の中に約束されたのである。
(心のデボーション4280)
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