心のデボーション420

デボーション1
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心のデボーション4191

「わが斯くも汝ら衆を思ふは當然の事なり、我が縲絏にある時にも、福音を辯明して之を堅うする時にも、汝らは皆われと共に恩惠に與るによりて、我が心にあればなり。」 ピリピ1:7  大正文語訳聖書

「わたしが、あなたがた一同のために、そう考えるのは当然である。それは、わたしが獄に捕われている時にも、福音を弁明し立証する時にも、あなたがたをみな、共に恵みにあずかる者として、わたしの心に深く留めているからである。」 口語訳聖書

 「恵み」

パウロは離れているところにいるピリピの人々に「あなたがたをみな、共に恵みにあずかる者」と書き送る、(ピリピ1:7) 「恵みχάρις」は「資格のない者に〔与えられる〕神の愛顧と霊的祝福」(祥訳聖書)である。パウロはこの恵みが自分に与えられていると共に、他の人々に等しく与えられていることを「心に深く留め」る。

(心のデボーション4191)

心のデボーション4192

「飽るものは蜂の蜜をも踐つく されど饑たる者には苦き物さへもすべて甘し」 箴言17:7  明治元訳聖書

「飽いている者は蜂蜜をも踏みつける、しかし飢えた者には苦い物でさえ、みな甘い。」 口語訳聖書

 「友を得る」

人を傷つけないために、多少のごまかしはあっても上手につき合う方がいいと考える人もいる。しかし、その人が恐れているのは人を傷つけることではなく、自分が人に嫌われ、それで傷つくことではないか。友を得たいなら、本当の自分を表現することである。それで相手を傷つけたり、自分が傷つけられても身を引かないことである。苦しみを分け合ってはじめて、人はその人を理解し、友を得ることができる。

(心のデボーション4192)

心のデボーション4193

「この故に我らこの事を聞きし日より、汝等のために絶えず祈りかつ求むるは、汝ら靈のもろもろの知慧と穎悟とをもて神の御意を具に知り、」 コロサイ1:9  大正文語訳聖書

「そういうわけで、これらの事を耳にして以来、わたしたちも絶えずあなたがたのために祈り求めているのは、あなたがたがあらゆる霊的な知恵と理解力とをもって、神の御旨を深く知り、」 口語訳聖書

 「霊的な知恵と理解力」

「あらゆる霊的な知恵と理解力とをもって、神の御旨を深く知り」。(コロサイ1:9) 人は、「あらゆる霊的な知恵(σοφία「知恵、分別、理性」)と理解力(σύνεσις「洞察力」)をもって、神のみ旨を深く知る。霊的なことがらは霊的な知恵と理解力が求められる。霊的知恵と理解力は、神のかたちに創造されたすべての人に、はじめから与えられている。そのゆえに人は神を求めるのである。

(心のデボーション4193)

心のデボーション4194

「復なんぢらに告ぐ、富める者の神の國に入るよりは、駱駝の針の孔を通るかた反つて易し』」 マタイ19:24  大正文語訳聖書

「また、あなたがたに言うが、富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」 口語訳聖書

 「針の穴」

エルサレムの城壁には「針の穴」と呼ばれる門があったといわれる。それは人が一人、やっと通れるほどの小さな門で、この門にらくだを通すのはおおごとだった。しかし、イエスは金持ちが神の国に入るのはもっと難しいと語られる。持てる人は「捨てる」ことができない。「捨てる」とは「与える」ことだ。与えるために、人は身を低くしなければならない。

(心のデボーション4194)

心のデボーション4195

「ある人々これらの事より外れて虚しき物語にうつり、」 Ⅰテモテ1:6  大正文語訳聖書

「ある人々はこれらのものからそれて空論に走り、」 口語訳聖書

 「脱臼」

あるべき自分を見失ったのは、「脇道にそれたἐκτρέπω」からである。ἐκτρέπωには「脇にそらす、わき道にそれる」の意味と医術用語として「脱臼する」の意にも使われる。腕があるべきところから外れて脇にそれたのである。脇道にそれると本来の力が失われる。

(心のデボーション4195)

心のデボーション4196

「この故に、わが按手に因りて汝の内に得たる神の賜物をますます熾にせんことを勸む。」 Ⅱテモテ1:6  大正文語訳聖書

「こういうわけで、あなたに注意したい。わたしの按手によって内にいただいた神の賜物を、再び燃えたたせなさい。」 口語訳聖書

 「再び燃えたたせなさい」

「神からの賜物」は、蔵に置くべきものではなく、活発に用いる必要がある。賜物が熱を失わないために、「再び燃え立たせるἀναζωπυρέω」必要がある。ἀναζωπυρέωは「(火吹きだけで)息を吹き扇ぐ」の意である。それによって再び燃え立つのは、主が「煙っている燈心を消すこともない」(マタイ12:20)からである。

(心のデボーション4196)

心のデボーション4197

「こうして、人々が熱心に追い求めて捜しさえすれば、神を見いだせるようにして下さった。事実、神はわれわれひとりびとりから遠く離れておいでになるのではない。」 使徒17:27  大正文語訳聖書

「これは、神を求めさせるためであって、もし探り求めることでもあるなら、神を見いだすこともあるのです。確かに、神は、私たちひとりひとりから遠く離れてはおられません。」 口語訳聖書

 「触れてみよ」

もし、探り求めるなら、神を見いだすこともできると聖書は約束する。「見いだすεὑρίσκω」は「触れる」と同じ意味である。「触れてみよ」と神は言われる。手を伸ばせば触れるほどのところにいるのだと。神を見いだせないのは、遠くを探しているからかもしれない。それとも、手と足ですべきところを、頭を使っているからだろうか。その手触りは身体がおぼえていて、すぐにわかる。

(心のデボーション4197)

心のデボーション4198

「それ監督は神の家司なれば、責むべき所なく、放縱ならず、輕々しく怒らず、酒を嗜まず、人を打たず、恥づべき利を取らず、」 テトス1:7

「監督たる者は、神に仕える者として、責められる点がなく、わがままでなく、軽々しく怒らず、酒を好まず、乱暴でなく、利をむさぼらず、」 口語訳聖書

 「軽々しく怒るな」

「監督たる者」は軽々しく怒ってはならない。「軽々しく怒るὀργίλος」は「短気な、すぐに怒る」の意。イエスの弟子ヤコブとヨハネはβοανηργές(ボアネルゲ「雷の子」)と呼ばれたが、後に「愛の使徒」と呼ばれるようになった。(マルコ3:17)

(心のデボーション4198)

心のデボーション4199

「もし右の目なんぢを躓かせば、抉り出して棄てよ、五體の一つ亡びて、全身ゲヘナに投げ入れられぬは益なり」 マタイ5:29 大正文語訳聖書

「もしあなたの右の目が罪を犯させるなら、それを抜き出して捨てなさい。五体の一部を失っても、全身が地獄に投げ入れられない方が、あなたにとって益である。」 口語訳聖書

 「春琴抄」

谷崎潤一郎の小説「春琴抄」には、目の見えない春琴が暴漢に襲われ顔に熱湯を浴びせかけられてしまう。丁稚のころから春琴の世話をする佐助が、熱湯で焼かれた顔を「見る」ことを頑なに拒む。そんな春琴に佐助は針で自分の目を突き、失明する。佐助は自らの目を針で突くことで大やけどを負った春琴の顔を「見る」ことを拒む。しかし、それは佐助に対して次第に心を和らげ人間らしい気持ちを取り戻しつつあった春琴を、佐助が自らの目を潰すことによって「我侭な美しい春琴」を永遠に固定する行為となり、それによって春琴は「五體の一つ亡びて、全身ゲヘナに投げ入れられる

(心のデボーション4199)

心のデボーション4200

「人を如何なる者として汝これを大にし 之を心に留」 ヨブ7:17  明治元訳聖書

「人は何者なので、あなたはこれを大きなものとし、/これにみ心をとめ、」 口語訳聖書

 「試練」

ヨブは度重なる試練の中で「人とは何者なのでしょう」と問う。神は「朝ごとに」ヨブを訪れ、その都度ヨブを試みられる。ヨブは試練を、人ならばこそ受ける経験と見ているのではないか。試練に耐えてこそ輝きはじめるいのちがあり、神はそれを尊ばれると信じている。試練の中で人は惨めさに動揺し、混乱する。しかし、苦しみなくして人は人間ではあり得ないし、神は耐えられない試練を人に与えることをなさらない。

(心のデボーション4200)

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