心のデボーション4171
「我ら或は患難を受くるも汝らの慰安と救とのため、或は慰安を受くるも汝らの慰安の爲にして、その慰安は汝らの中に働きて、我らが受くる如き苦難を忍ぶことを得しむるなり。」 Ⅱコリン1:6 大正文語訳聖書
「わたしたちが患難に会うなら、それはあなたがたの慰めと救とのためであり、慰めを受けるなら、それはあなたがたの慰めのためであって、その慰めは、わたしたちが受けているのと同じ苦難に耐えさせる力となるのである。」 口語訳聖書
「患難と忍耐と慰め」
ひとりの人の患難と忍耐と慰めは、その人自身にとどまらず、教会全体の患難と忍耐と慰めとなる。そして、教会の患難と忍耐と慰めがひとりの人にとっての慰め(παράκλησις)を支える。
(心のデボーション4171)
心のデボーション4172
「我らの日用の糧を今日もあたへ給へ」 マタイ6:11 大正文語訳聖書
「わたしたちの日ごとの食物を、きょうもお与えください。」 口語訳聖書主
「最後のジャガイモ」
「貧」という字は貝を分けると書く。マーニャ・ハレーヴィの「一夜の宿」は、第二次大戦中、両親のいなくなったユダヤ人兄弟三人が最後の六個のジャガイモを煮るところからはじまる。そこに隣家のやはりユダヤ人孤児の兄妹が戸をノックする。三人は迷うが「おじゃがを欲しがってもあげない」と決めて戸を開ける。しかし、結局、三人は最後のジャガイモを「一人につき一個」分け、六つ目を厳正に五つに分けるのである。
(心のデボーション4172)
心のデボーション4173
「老たる者の中には智慧あり 壽長者の中には穎悟(さとり)あり」 ヨブ12:12 明治元訳聖書
「老いた者には知恵があり、/命の長い者には悟りがある。」 口語訳聖書主
「衰えた父」
「たとえ、父の知力が衰えても、これを大目に見よ。たとえ、お前が働き盛りだからといって父を軽んじるな。」(旧約聖書外典ベン=シラの知恵3:13 フランシスコ会訳聖書) 子の知力が父を超えるときが来たとしても、衰えた父への敬いを忘れるな。人はいずれ同じように老いていくからだ。彼は衰えたのではなく成熟したのである。
(心のデボーション4173)
心のデボーション4174
「凡活る者の中に列る者は望あり 其は生る犬は死る獅子に愈ればなり」 伝道9:4 明治元訳聖書
「すべて生ける者に連なる者には望みがある。生ける犬は、死せるししにまさるからである。」 口語訳聖書主
「老後の蓄え」
金さん銀さんはマスコミに出るようになって、けっこう収入が入るようになった。そこで「お金はどうするんですか」とマイクを向けると「老後に備えて貯金します」と返事をした。百歳を超えたおばあさんに収入があるのもすごいことだが、それを老後に備えて貯金するというのは、もっとすごい。百歳を超えても備えるべき明日のある老人がおり、二十歳にもならないのに、すでにあるべき明日を失った若者もいる。
(心のデボーション4174)
心のデボーション4175
「視よ、父の我らに賜ひし愛の如何に大なるかを。我ら神の子と稱へらる。既に神の子たり、世の我らを知らぬは、父を知らぬによりてなり。」 Ⅰヨハネ3:1 大正文語訳聖書
「わたしたちが神の子と呼ばれるためには、どんなに大きな愛を父から賜わったことか、よく考えてみなさい。わたしたちは、すでに神の子なのである。世がわたしたちを知らないのは、父を知らなかったからである。」 口語訳聖書主
「熱焼」
「愛は往々その限度を知らない。而もすべての限度を超えて熱焼する」(アケンピス「基督のまねび」内村達三郎訳 春秋社昭和21年2月)この愛に触れて熱焼しない魂はない。
(心のデボーション4175)
心のデボーション4176
「地に言へ然ばなんぢに敎へん 海の魚もまた汝に述べし」 ヨブ12:8 明治元訳聖書
「あるいは地の草や木に問うてみよ、/彼らはあなたに教える。海の魚もまたあなたに示す。」 口語訳聖書
「大地に問いかけてみよ」
「大地に問いかけてみよ、教えてくれるだろう」。(新共同訳聖書) 地が人間に教えるのは「すべての命あるものは、肉なる人の霊も御手の内にある」ことである。(ヨブ12:10 新共同訳聖書) 「主の御手がこれをなさった」。(ヨブ12:9 新改訳聖書)
(心のデボーション4176)
心のデボーション4177
「ユダの家の逃れて遺れる者は復根を下に張り實を上に結ばん」 Ⅱ列王記19:30 明治元訳聖書
「ユダの家ののがれて残る者は再び下に根を張り、上に実を結ぶであろう。」 口語訳聖書
「根を張る季節」
ものごとがうまくいかないとき、自分という一本の木のことを考える。木はまず「下に根を張り」そして「上に実を結ぶ」。冬の間、木は葉を落とす。根を張る季節である。大切なことは「その根を豊かな水に伸ばす」ことだ。(エゼキエル書31:7) レバノンの杉はどの木よりも高く、美しく、木々の王者と呼ばれる。その根が地中深く、地下水にまでとどいているからである。(エゼキエル書31:3)
(心のデボーション4177)
心のデボーション4178
「われなんぢに感謝す われは畏るべく奇しくつくられたり なんぢの事跡はことごとくくすし わが霊魂はいとつばらに之をしれり」 詩篇139:14 明治元訳聖書
「わたしはあなたをほめたたえます。あなたは恐るべく、くすしき方だからです。あなたのみわざはくすしく、あなたは最もよくわたしを知っておられます。
「神に知られる」
神は「最もよくわたしを知っておられる」。(詩篇139:14) 神はわたしを「畏るべく奇しくつくられた」。自分を「足りぬ、つまらぬ」と言ってはならない。
(心のデボーション4178)
心のデボーション4179
「もし右の目なんぢを躓かせば、抉り出して棄てよ、五體の一つ亡びて、全身ゲヘナに投げ入れられぬは益なり」 マタイ5:29 大正文語訳聖書
「もしあなたの右の目が罪を犯させるなら、それを抜き出して捨てなさい。五体の一部を失っても、全身が地獄に投げ入れられない方が、あなたにとって益である。」 口語訳聖書
「全身」
「全身」は「σῶμα体、身体」のすべて。恐るべきは、「からだ」を失うこと。すなわち、存在の感覚が全く失われることである。「目」は小さな器官であるが、そのつまずきが全体に及ぶ。「見る」ことの罪は「深みを見る」によって癒される。神は人間に「感覚」を創られ、与えられた。「感覚」も神の祝福の下にあり、それを通しても人は真実を見るのである。
(心のデボーション4179)
心のデボーション4180
「かれは侮られて人にすてられ 悲哀の人にして病患をしれり また面をおほひて避ることをせらるる者のごとく侮られたり われらも彼をたふとまざりき」 イザヤ53:3 明治元訳聖書
「彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。また顔をおおって忌みきらわれる者のように、彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。」 口語訳聖書
「タマル」
タマル Θαμάρ はユダの長男エルの嫁であったが、不幸な事件から子がなく、一計を案じて義父ユダによって子を得た。(創世記38章) ユダからペレツにいたる救い主の家系は痛ましい事件によって繋がっている。(マタイ1:3)イエスの身体にはタマルの涙が流れている。
(心のデボーション4180)
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