心のデボーション417

デボーション1
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心のデボーション4161

「かれ宣傳へて言ふ『我よりも力ある者、わが後に來る。我は屈みてその鞋の紐をとくにも足らず、』」 マルコ1:7 大正文語訳聖書

「彼は宣べ伝えて言った、「わたしよりも力のあるかたが、あとからおいでになる。わたしはかがんで、そのくつのひもを解く値うちもない。」」 口語訳聖書

 「くつのひもを解く」

バプテスマのヨハネはイエスを「わたしはかがんで、そのくつのひもを解く値うちもない」と言った。(マルコ1:7)しかし、イエスは「かがんで、そのくつのひもを解く値うちもない」弟子たちの「足を洗い、腰に巻いた手ぬぐいでふき始められる」(ヨハネ13:5)

(心のデボーション4161)

心のデボーション4162

「兄弟よ、我なんぢの愛によりて大なる勸喜と慰安とを得たり。聖徒の心は汝によりて安んぜられたればなり。」 ピレモン1:7 大正文語訳聖書

「兄弟よ。わたしは、あなたの愛によって多くの喜びと慰めとを与えられた。聖徒たちの心が、あなたによって力づけられたからである。」 口語訳聖書

 「お茶」

国際線のスチュワーデスならお茶のサービスは手慣れたもの。ところが、あるスチュワーデスに恋人ができると、彼女は彼にお茶を入れるのが恥ずかしくて、できなかったという。それも出会いのときだけでなく、ずいぶんおつき合いしても、やはり、お茶が恥ずかしいのだそうである。人を好きになると、何かが恥ずかしくなるものと見える。あなたがたの間では、今も、何かが恥ずかしいですか。

(心のデボーション4162)

心のデボーション4163

「さてザカリヤその組の順番に當りて、神の前に祭司の務を行ふとき、」 ルカ1:8 大正文語訳聖書

「さてザカリヤは、その組が当番になり神のみまえに祭司の務をしていたとき、」 口語訳聖書

 「祭司の務」

ザカリヤは定めに従い、「神のみまえに祭司の務をしていた」。(ルカ1:8)「務めἱερατεύω」は「祭司の務めをする」の意。日本語聖書の多くは「務め」の字をあてる。「務」は「矛」は「ほこ」に「力」を加えたもので、「困難を排して切りすすむ」の意である。人にはそれぞれに、困難を克服して取り組むべき「務」がある。

(心のデボーション4163)

心のデボーション4164

「噫なんぢら禍なるかな僞善なる學者とパリサイの人よ蓋なんぢら嫠婦の家を呑いつはりて長き祈をなす之に由て爾曹最も重き審判を受べければ也」 マタイ23:14 明治元訳聖書

「律法学者とファリサイ派の人々、あなたがた偽善者に災いあれ。あなたがたは、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。だから、人一倍厳しい裁きを受けることになる。」 聖書協会共同訳聖書 底本に節が欠けている箇所の異本による訳文

 「見栄」

聖書で「見栄πρόφασις」とは「前に、照らす」である。自分というものを何かの前に「展示」して見せることを指す。そういうことは一切いやだというのも潔い生き方である。しかし、最低限の「展示」はしないと、自分が正しく伝わらない。パリサイ人は「見栄」のために、人の前で長い祈りをした。「見栄」が服を着て歩くようになるとみっともないものである。

(心のデボーション4164)

心のデボーション4165

「ヨハネは水にてバプテスマを施ししが、汝らは日ならずして聖靈にてバプテスマを施されん』」 使徒1:5 大正文語訳聖書

「すなわち、ヨハネは水でバプテスマを授けたが、あなたがたは間もなく聖霊によって、バプテスマを授けられるであろう」。」 口語訳聖書

 「聖霊によるバプテスマ」

「聖霊によるバプテスマ」は、「イエスの十字架と復活の新しいいのちにあずかるバプテスマ」である。(ロマ6:3-11)

聖霊のバプテスマによって、凡ての人はキリストの一つのからだ(教会)となるのである。(Ⅰコリント12:13-27)

「わたしたちは皆、ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷も自由人も、一つの御霊によって、一つのからだとなるようにバプテスマを受け、そして皆一つの御霊を飲んだからである」Ⅰコリント12:13

(心のデボーション4165)

心のデボーション4166

「われ汝らを見んことを切に望むは、汝らの堅うせられん爲に靈の賜物を分け與へんとてなり。」 ロマ1:11 大正文語訳聖書

「わたしは、あなたがたに会うことを熱望している。あなたがたに霊の賜物を幾分でも分け与えて、力づけたいからである。」 口語訳聖書

 「愛慕」

パウロはローマの教会に「わたしは、あなたがたに会うことを熱望している」と書き送る。(ロマ1:11) 「熱望するἐπιποθέω」は「せつに望む、愛慕する」の意。永井直治訳聖書は「汝等を見んことを戀ひ慕へばなり」と訳す。

(心のデボーション4166)

心のデボーション4167

「そはなんぢおのが手の勤勞をくらふべければなり なんぢは福祉をえまた安處にをるべし」 詩篇128:2 明治元訳聖書

「あなたは自分の手の勤労の実を食べ、幸福で、かつ安らかであろう。」 口語訳聖書

 「夕食は何?」

「夕食は何?」と声をかけると、台所から妻の「ごはん」の一言。夕食を何にするかまだ考えていないのである。もっとも、たまに「スパゲッティ」と返ってきても、食卓に出るのはウドンだったりして、アテにはならない。メニューは冷蔵庫を開けてから考えるものだと妻は言うが、私には「冷蔵庫を一杯にしてくれたら、どんなご注文もOKよ」と聞こえる。「だべもの、きものも、くださる、かみさま」と歌っていただく。

(心のデボーション4167)

心のデボーション4168

「彼は汝らを終まで堅うして、我らの主イエス・キリストの日に責むべき所なからしめ給はん」 Ⅰコリント1:8

「主もまた、あなたがたを最後まで堅くささえて、わたしたちの主イエス・キリストの日に、責められるところのない者にして下さるであろう。」 口語訳聖書

 「最後まで堅くささえ」

主は「最後まで堅く支えられる」。(Ⅰコリント1:8)「堅く支えるβεβαίωσις」は「堅固にする、確証する、保証する、満たす」の意。主は始められたことを最後まで堅固に支え、すべての必要を満たされる。主の業は未完に終わるものは一つもない。

(心のデボーション4168)

心のデボーション4169

「もし右の目なんぢを躓かせば、抉り出して棄てよ、五體の一つ亡びて、全身ゲヘナに投げ入れられぬは益なり」 マタイ5:29 大正文語訳聖書

「もしあなたの右の目が罪を犯させるなら、それを抜き出して捨てなさい。五体の一部を失っても、全身が地獄に投げ入れられない方が、あなたにとって益である。」 口語訳聖書

 「えぐり出して」

「えぐり出して捨ててしまいなさいἔξελε αὐτὸν καὶ βάλε ἀπὸ σοῦ」という御言葉に従って、それを直ちに実行すべきではない。たとえ目を「えぐり出して捨てた」ところで、「みだらな思い」の問題は解決しないからである。「見ない」ことで、思いはさらに深まるのである。「えぐり出して捨てる」痛みに耐え、「見る」ことの成熟を果たすがよい。 

(心のデボーション4169)

心のデボーション4170

「アブラム乃(すなは)ちヱホバの自己(おのれ)に言たまひし言に從て出たり ロト彼と共に行りアブラムはハランを出たる時七十五歳なりき」 創世記12:4 明治元訳聖書

「アブラムは主が言われたようにいで立った。ロトも彼と共に行った。アブラムはハランを出たとき七十五歳であった。」 口語訳聖書

 「出発」

「アブラムは、主の言葉に従って旅立った」(創世記12:4) マタイはアブラハムからイエスの系図を始める。アブラハムは偉大な存在である。だが、すべては、アブラハムが神の言葉に従って「旅立つ」ことから始まった。一人の人間が神に従って「出発」したことから歴史がはじまる。アブラハムはその全体を知らないままに生きた。

「なんじの業をなしつつ老いゆくべし」 ベン=シラの知恵 11:20 日本聖公会訳

(心のデボーション4170)

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