心のデボーション416

デボーション1
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心のデボーション4151

「そは神の我らに賜ひたるは、臆する靈にあらず、能力と愛と謹愼との靈なればなり。」 Ⅱテモテ1:7  大正文語訳聖書

「というのは、神がわたしたちに下さったのは、臆する霊ではなく、力と愛と慎みとの霊なのである。」 口語訳聖書

 「力と愛と慎みの霊」

「神がわたしたちに下さったのは、臆する霊ではなく、力(δύναμις)と愛(ἀγάπη)と慎み(σωφρονισμός)との霊である。」(Ⅱテモテ1:7) 力に欠けた愛は哀しい。愛に欠けた慎みは高慢である。慎みに欠けた力は暴走する。力は愛を、愛は慎みを、慎みは力の欠けたところを補う。力と愛と慎んみの霊は神からくる。

(心のデボーション4151)

心のデボーション4152

「斯の如くヱホバの僕モーセはヱホバの言の如くモアブの地に死り」 申命記34:5  明治元訳聖書

「こうして主のしもべモーセは主の言葉のとおりにモアブの地で死んだ」 口語訳聖書

 「神の口ずけ」

モーセはピスガの頂に登り、そこで死んだ。「主の命令によって」ということばは、直訳では「主の口によって」である。ユダヤ教のラビ達は、それを「神の口ずけ」と呼ぶ。モーセは聖なる口づけによって、痛むことなく死んだと信じた。ピスガの頂きからモーセが見渡した約束の地こそが「神の口づけ」だったのかもしれない。それは人生で見る最も美しい光景である。

(心のデボーション4152)

心のデボーション4153

「キリストの神たる能力は、生命と敬虔とに係る凡てのものを我らに賜へり。是おのれの榮光と徳とをもて召し給へる者を我ら知るに因りてなり。」 Ⅱペテロ1:3  大正文語訳聖書

「いのちと信心とにかかわるすべてのことは、主イエスの神聖な力によって、わたしたちに与えられている。それは、ご自身の栄光と徳とによって、わたしたちを召されたかたを知る知識によるのである。」 口語訳聖書

 「いのちと敬けん」

神は「いのちと敬けん」にかかわるすべてのことを人に与えられる。それは「わたしたちを召されたかたを知る知識によるのである」(Ⅱペテロ1:3)「いのちζωή」は「生きて活気あるいのち」であり「神にある(神による、神からの)いのち」である。「敬けんεὐσέβεια」は「敬けん、信仰」の意である。いのちは敬けんに根差し、敬けんはいのちを生む。

(心のデボーション4153)

心のデボーション4154

「凡ての人、なんぢらを譽めなば、汝ら禍害なり。彼らの先祖が虚僞の預言者たちに爲ししも斯くありき。」 ルカ6:26  大正文語訳聖書

「人が皆あなたがたをほめるときは、あなたがたはわざわいだ。彼らの祖先も、にせ預言者たちに対して同じことをしたのである。」 口語訳聖書

 「賞賛」

人のほめ言葉だけに耳を傾けるのは、自信のない人かもしれない。自信がないので自分に都合の良い言葉を他人の言葉の中にさがす。自分の力を知っている人は、褒められても有頂天にならないばかりか、けなされてもつぶれることがない。人から褒められることが「哀れ」なのではなく、人に賞賛されなければ不安になる心の貧しさが哀れなのである。とはいえ、私の、おだてられれば言われなくても木に登ってしまうのは性格だろうか。人が皆、「ほめるκαλῶς(立派だ、見事だ、素晴らしい)」というときほど危ないことはない。

(心のデボーション4154)

心のデボーション4155

「此等のことを書き贈るは、我らの喜悦の滿ちん爲なり。」 Ⅰヨハネ1:4 大正文語訳聖書

「これを書きおくるのは、わたしたちの喜びが満ちあふれるためである。」 口語訳聖書

 「書き送る」

現代は「書き送る(γράφω)」ということが失われた時代かもしれない。筆で文を書くという習慣がすたれ、すべてが短い電子的打ち込み作業によってことが終わる。「書き送る」には相手の存在を目の前に置き、自分の言葉で思いを伝える必要がある。パウロは書き送るごとに、喜びが満ちてくる相手をもっていた。

(心のデボーション4155)

心のデボーション4156

「又おのが位を保たずして己が居所を離れたる御使を、大なる日の審判まで、闇黒のうちに長久の繩目をもて看守し給へり。又おのが位を保たずして己が居所を離れたる御使を、大なる日の審判まで、闇黒のうちに長久の繩目をもて看守し給へり。」 ユダ1:6 大正文語訳聖書

「主は、自分たちの地位を守ろうとはせず、そのおるべき所を捨て去った御使たちを、大いなる日のさばきのために、永久にしばりつけたまま、暗やみの中に閉じ込めておかれた。」 口語訳聖書

 「おるべき所」

堕天使は「自分たちの地位を守ろうとはせず、そのおるべき所を捨て去った」。(ユダ1:6)「おるべき所ἀρχή」は「初め、起源、源」の意。人はそれぞれに自分の「はじまり(ἀρχή」は「初め、起源、源)」があり、それを見失うところから自己喪失の混迷が始まる。

(心のデボーション4156)

心のデボーション4157

「なんぢら信仰の弱き者を容れよ、その思ふところを詰るな。」 ロマ14:1  大正文語訳聖書

「信仰の弱い者を受けいれなさい。ただ、意見を批評するためであってはならない。」 口語訳聖書

 「気のあう関係」

要するに、この人と自分はあわないのだと考えてしまうことがある。それには「あわない人」といわずに「別の考えをもつ人」と言い換えてみる。そして、次に「どうして、そう考えるのだろう」と考える。すると、あわないのではなく、別の見方のあることに気づかなかっただけとわかる。自分とは違う考え方を面白いと感じられるのが「気のあう関係」というのだろう。

(心のデボーション4157)

心のデボーション4158

「また忠實なる證人、死人の中より最先に生れ給ひしもの、地の諸王の君なるイエス・キリストより賜ふ恩惠と平安と汝らに在らんことを。願はくは我らを愛し、その血をもて我らを罪より解放ち、」 黙示1:5  大正文語訳聖書

「また、忠実な証人、死人の中から最初に生れた者、地上の諸王の支配者であるイエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。わたしたちを愛し、その血によってわたしたちを罪から解放し、」 口語訳聖書

 「忠実な証人」

イエス・キリストは「忠実な証人ὁ μάρτυς ὁ πιστός」と言われる。(黙示1:5) イエス・キリストは「たとい、わたしが自分のことをあかししても、わたしのあかしは真実である。それは、わたしがどこからきたのか、また、どこへ行くのかを知っているからである。」と言われた。(ヨハネ8:14)イエスはイエス・キリストについての忠実な証人であり、その証は真実である。イエス・キリスについて、イエスの証言以外の証言は必要でない。

(心のデボーション4158)

心のデボーション4159

「されど我は汝らに告ぐ、すべて色情を懷きて女を見るものは、既に心のうち姦淫したるなり」 マタイ5:28 大正文語訳聖書

「しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。」 口語訳聖書

 「七つさかりの雨」

「七つさかり(さるの刻)の雨」は、午後四時以後に降りはじめ、だらだらといつまでも続く雨である。それから「午後四時すぎ(中年過ぎ)」からの道楽はなかなかやめられない」のたとえになった。注意すべきは若い時の過ちだけではない。

(心のデボーション4159)

心のデボーション4160

「兄弟たちよ、先祖ダビデに就きて、われ憚らず汝らに言ふを得べし、彼は死にて葬られ、その墓は今日に至るまで我らの中にあり。」 使徒2:29  大正文語訳聖書

「兄弟たちよ、族長ダビデについては、わたしはあなたがたにむかって大胆に言うことができる。彼は死んで葬られ、現にその墓が今日に至るまで、わたしたちの間に残っている。」 口語訳聖書

 「族長」

ダビデは「族長πατριάρχης」と呼ばれる。(使徒2:29)「アブラハム、イサク、ヤコブ」も「族長」である。旧約聖書で「族長 אִלּוּף」と呼ばれ、「素直な、おとなしい、従順な、友、親密な」という意味をもっている。族長は柔和な人々であった。英語で「族長」は「patriach」で、これはギリシャ語πατριά「血統、家系、氏族、家族」とἀρχή「支配者」からなる言葉である。

(心のデボーション4160)

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