心のデボーション4131
「われは訓諭をさづけたまふヱホバをほめまつらん 夜はわが心われををしふ」 詩篇16:7 大正文語訳聖書
「わたしにさとしをさずけられる主をほめまつる。夜はまた、わたしの心がわたしを教える。」 口語訳聖書
「夜には」
西洋のことわざに「Advice with your pillow.」とある。「よき思索の後に語れ」ということか。一晩たてば、前日は言わなければと激したことが、嘘のように消えることも少なくない。常に主を思い浮かべ、主をほめたたえる者の、「夜はまた、わたしの心がわたしを教える。」(詩篇16:7)
(心のデボーション4131)
心のデボーション4132
「人その友のために己の生命を棄つる、之より大なる愛はなし。」 ヨハネ15:13 大正文語訳聖書
「人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない。」 口語訳聖書
「いのちを捨てる」
「いのちψυχή」とは「魂」のことである。「捨てるτιμή」は「ある目的のために別にしておく」の意。「友のためにいのちを捨てる」とは、ある目的のために自分の魂を貯えておき、ここぞというとき、それを差し出すことである。愛しているかどうかは、その人のためにどれくらい自分の心を別にできるか、その人のために自分の魂を使うことができるかどうかにかかっている。「愛」は貯えられたら差し出せるものではなく、差し出すから貯えられる。
(心のデボーション4132)
心のデボーション4133
「常に汝ら衆のために、願のつどつど喜びて願をなす。」 ピリピ1:4 大正文語訳聖書
「あなたがた一同のために祈るとき、いつも喜びをもって祈り、」 口語訳聖書
「喜びと共に」
パウロはピリピの人々のために祈るとき、常に「喜びをもってμετὰ χαρᾶς」祈った。μετὰ は「~と共に」の意。それには、まずパウロ自身がピリピの人々を思うごとに、喜びを見いだすことが出来なければならなかった。「喜びと共に祈る人」は、祈るごとに新たな喜びを常に見出すことのできる人である。
(心のデボーション4133)
心のデボーション4134
「ヱホバの言また我に臨みていふヱレミヤよ汝何をみるや我こたへけるは巴旦杏(はたんきやう)の枝をみる」エレミヤ1:11 明治元訳聖書
「主の言葉がまたわたしに臨んで言う、「エレミヤよ、あなたは何を見るか」。わたしは答えた、「あめんどうの枝を見ます」。」 口語訳聖書
「何を見ているのか」
都合のよいことも、悪いことも、同時に「見る」のが予言者エレミヤのつとめであった。時代に異変がおこる時、まず、「見る」ことが神に仕える人のつとめである。よいことも、悪いことも、同時に見るにはそれだけの心の力を必要とする。見ることは耐えること、そして耐えることは創ることでなければならない。見たのに何もはじまらないのは、まだ本当に見ていないのかも知れない。神が見せられること以外を見ようとするのは罪である。
(心のデボーション4134)
心のデボーション4135
「汝らが御靈によりて懷ける愛を我らに告げたり。」 コロサイ1:8 大正文語訳聖書
「あなたがたが御霊によっていだいている愛を、わたしたちに知らせてくれたのである。」 口語訳聖書
「霊による愛」
パウロはコロサイの教会に送ったエパフラスから、コロサイの人々の、「人間的な愛」ではなく、「(神の)霊による愛ἀγάπην ἐν πνεύματι」(塚本虎二訳聖書)の知らせを受けて喜ぶ。「霊による愛」は「聖霊の中にある愛」であり、聖霊の中に在る人に直接伝わる愛である。
(心のデボーション4135)
心のデボーション4136
「それは主のことば汝等より出でて、啻にマケドニヤ及びアカヤに響きしのみならず、神に對する汝らの信仰のことは諸方に弘りたるなり。されば之に就きては何をも語るに及ばず」 Ⅰテサロニケ1:8 大正文語訳聖書
「すなわち、主の言葉はあなたがたから出て、ただマケドニヤとアカヤとに響きわたっているばかりではなく、至るところで、神に対するあなたがたの信仰のことが言いひろめられたので、これについては何も述べる必要はないほどである。」 口語訳聖書
「主の言葉」
テサロニケ教会から語られた「主の言葉」はマケドニアとアカヤに響き渡った(ἐξηχέω)。(Ⅰテサロニケ1:8)「響き渡るἐξηχέω」は「鳴り轟く」の意。人から語られた「主の言葉」は、地に落ちることなく、地平のかなたまで響き渡る。
(心のデボーション4136)
心のデボーション4137
「民よいかなる時にも神によりたのめ その前になんぢらの心をそそぎいだせ 神はわれらの避所なり」セラ 詩篇62:8 明治元訳聖書
「民よ、いかなる時にも神に信頼せよ。そのみ前にあなたがたの心を注ぎ出せ。神はわれらの避け所である」〔セラ 口語訳聖書
「男時と女時と」
時にも男時と女時というものがある。運が向いて勝負に出るのが男時で、めぐり合わせが悪く不利に働くのが女時だそうである。女時には多くを期待できないというが、そうだろうか? 女時をいかに過ごすかで、男時の内容が決まる。どちらが長いかといえば、それは女時である。大切なことは、どちらであれ、神に信頼し、時への対応を誤らないことだ。「民よ、いかなる時にも神に信頼せよ。そのみ前にあなたがたの心を注ぎ出せ(ἐκχέω「注ぎだす、流しだす)。」(詩篇62:8)
(心のデボーション4137)
心のデボーション4138
「ある人々これらの事より外れて虚しき物語にうつり、」 Ⅰテモテ1:6 大正文語訳聖書
「ある人々はこれらのものからそれて空論に走り、」 口語訳聖書
「空論」
「清い心と正しい良心と偽りのない信仰とから出てくる愛」(Ⅰテモテ1:5)を失った者は脇道にそれ、「空論ματαιολογία」に走る。Ματαιολογίαはμάταιος「空しい、たわいない、無益な、無駄な、無意味な」からなり、「無意味な議論」である。信仰が空論に走るなら真理への愛はそこにない。
(心のデボーション4138)
心のデボーション4139
「されど我は汝らに告ぐ、すべて色情を懷きて女を見るものは、既に心のうち姦淫したるなり」 マタイ5:28 大正文語訳聖書
「しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。」 口語訳聖書
「うるわしき女」
「うるわしき女」は男にとって「やっかいな存在」であるが、「うるわしき女」と見られる女性にとっても自分の「うるわしさ」は「やっかいなもの」になりうる。彼女もまたそれに「惑わされる」のである。
(心のデボーション4139)
心のデボーション4140
「そは神の我らに賜ひたるは、臆する靈にあらず、能力と愛と謹愼との靈なればなり。」 Ⅱテモテ1:7 大正文語訳聖書
「というのは、神がわたしたちに下さったのは、臆する霊ではなく、力と愛と慎みとの霊なのである。」 口語訳聖書
「臆する霊」
「神がわたしたちに下さったのは、臆する霊ではなくοὐ γὰρ ἔδωκεν ἡμῖν ὁ θεὸς πνεῦμα δειλίας,」(Ⅱテモテ1:7) 「臆する霊πνεῦμα δειλίας」はδειλία「臆病な、小心な」の意。「臆する霊」は人が神の御言葉を語ろうとするときに、それを引き留める霊である。神はいかなる時にも臆することなく伝える霊を与えて給う。
(心のデボーション4140)
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