心のデボーション412

デボーション1
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心のデボーション4111

「汝らの信仰、全世界に言ひ傳へられたれば、我まづ汝ら一同の爲にイエス・キリストによりて我が神に感謝す。」 ロマ1:8  大正文語訳聖書

「まず第一に、わたしは、あなたがたの信仰が全世界に言い伝えられていることを、イエス・キリストによって、あなたがた一同のために、わたしの神に感謝する。」 口語訳聖書

 「キリストの福音」

ローマは当時の世界の中心であり、ローマに建てられた教会は福音が「全世界に言い伝えられる」ことを意味した。それは一個の人間にすぎない私に伝えられた福音が、私のみならず全世界の人々を救済し、新しい世界を創造する福音であることを、私という存在を通して知ることを前提とするのである。(ロマ1:8)

(心のデボーション4111)

心のデボーション4112

「ヱホバの使者これに言ふ汝なにとて斯三度なんぢの驢馬を打や我汝の道の直に滅亡にいたる者なるを見て汝に敵せんとて出きたれり」 民数記22:32  明治元訳聖書

「主の使は彼に言った、「なぜあなたは三度もろばを打ったのか。あなたが誤って道を行くので、わたしはあなたを妨げようとして出てきたのだ。」 口語訳聖書

 「神とは反対の道」

占い師バラムは神とは反対の道に行こうとしていた。抜き身の剣を持った主の遣いがその道に立ちふさがっているのがバラムには見えず、ロバには見えたのであった。滅びに向かう道がある。しばしば、識者はそれを「至福の道」と誤る。乗っているロバがいつものようでないのに気づいたら、自分が神と反対の道に行こうとしているのではないか考えてみる必要がある。(民数記22:32)

(心のデボーション4112)

心のデボーション4113

「斯く汝らは凡ての賜物に缺くる所なくして、我らの主イエス・キリストの現れ給ふを待てり。」 Ⅰコリント1:7  大正文語訳聖書

「こうして、あなたがたは恵みの賜物にいささかも欠けることがなく、わたしたちの主イエス・キリストの現れるのを待ち望んでいる。」 口語訳聖書

 「カリスマ」

あなたは「恵みの賜物」に「いささかも欠けることがない」。(Ⅰコリント1:7)「恵みの賜物χάρισμα」は「恩寵、神の愛」の意。カリスマ性を誇ってはならない。むしろ、「神の愛(恩寵)において、いささかも欠けることがない」ことをこそ誇れ。

(心のデボーション4113)

心のデボーション4114

「うれひ人の心にあれば之を屈ます されど善言はこれを樂します」 箴言12:25  明治元訳聖書

「心に憂いがあればその人をかがませる、しかし親切な言葉はその人を喜ばせる。」 口語訳聖書

 「ふさぎの虫」

人の日常は平坦ではない。気持ちが妙に沈む日もある。悪いことばかりを予想し、やる気を失っている自分にまた落ち込む。ふさぎの虫はそのままほっておくがよい。何日かすれば、気分も変わる。生き生きと生きるとは、常に明るく生きることではない。落ち込みや不活発があって、生きていること楽しさも深まりまる。ふさぎの虫を根絶しようなどと思わないことだ。(箴言12:25)

(心のデボーション4114)

心のデボーション4115

「そはキリストの苦難われらに溢るる如く、我らの慰安も亦キリストによりて溢るればなり」 Ⅱコリント1:5  大正文語訳聖書

「それは、キリストの苦難がわたしたちに満ちあふれているように、わたしたちの受ける慰めもまた、キリストによって満ちあふれているからである。」 口語訳聖書

 「キリストの苦難と慰め」

「キリストの苦難がわたしたちに満ちあふれる」ことは「受ける慰めもまた、キリストによって満ちあふれる」ことである。「苦難の僕」は「慰めの僕」となられた。キリストに充ち溢れる人は慰めに充ち溢れる人である。「慰める παρακαλέω 」は「傍らに呼ぶ」の意。キリストの苦難と慰めの傍らに呼ばれたのである。」

(心のデボーション4115)

心のデボーション4116

「我は汝らが斯くも速かにキリストの恩惠をもて召し給ひし者より離れて、異なる福音に移りゆくを怪しむ。」 ガラテヤ1:6  大正文語訳聖書

「あなたがたがこんなにも早く、あなたがたをキリストの恵みの内へお招きになったかたから離れて、違った福音に落ちていくことが、わたしには不思議でなかきkらない。」 口語訳聖書

 「あきれた話」

パウロはガラテヤの教会の信徒たちの中に、早くも「キリストの福音から離れて、違った福音に落ちていくことが、わたしには不思議でならない」と書き送る。(ガラテヤ1:6)「不思議でならないθαυμάζω」を新共同訳聖書は「わたしはあきれ果てています」と訳す。「あきれ果てた話」は使徒パウロから教えを受けた人にさえも起こる。

ヨハネはキリストの福音について、「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て手でさわったもの、すなわち、いのちの言」と書いている。(Ⅰヨハネ1:1)その福音を受けた者は、自らの耳で聞き、目で見、よく見て手でさわらねばならない。そのことに欠ける信仰は、直に福音から離れ、奇妙な福音に心を奪われる。

(心のデボーション4116)

心のデボーション4117

「御前にて潔く瑕なからしめん爲に、世の創の前より我等をキリストの中に選び、」 エペソ1:4  大正文語訳聖書

「みまえにきよく傷のない者となるようにと、天地の造られる前から、キリストにあってわたしたちを選び、」 口語訳聖書

 「みまえにきよく傷のない者」

神が嘉される犠牲は「傷のないものἄμωμος」でなければならなかった。(レビ記1:3,10) 人はみな「傷ついたもの」であって、「みまえにきよく傷のない者」はイエス・キリストのみである。神は主イエスを唯一の犠牲としてお受けになり、それによって、信じる者をとして選び、「イエス・キリストにあって、みまえにきよく傷のない者」とされたのである。

(心のデボーション4117)

心のデボーション4118

「凡ての事に就きて常に我らの主イエス・キリストの名によりて父なる神に感謝し、」 エペソ5:20  大正文語訳聖書

「そしてすべてのことにつき、いつも、わたしたちの主イエス・キリストの御名によって、父なる神に感謝し、」 口語訳聖書

 「ありがたきこと」

この人とかかわりを持てたと感じる一瞬がある。人生で最も大切にしたいのは、その感覚である。人として意味ある仕事はすべて、その感覚の上に築かれるのではないか。たとえ、自分を困らせてした人であっても、この人と出会えてありがたかったと思う。感謝すべきことがないという人には、相手ばかりか、自分も見えていない。ただ、素直に自分を喜ぶことである。

(心のデボーション4118)

心のデボーション4119

「されど我は汝らに告ぐ、すべて色情を懷きて女を見るものは、既に心のうち姦淫したるなり」 マタイ5:28 大正文語訳聖書

「しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。」 口語訳聖書

 「聖なる誓い」

禅宗でこんな話がある。家路についたふたりの僧が流れの速い川の岸辺にたどりつくと、若い女性が渡れずに困っている。僧の一人が彼女の腕を取って川を渡り、無事に向こう岸に送り届けた。ふたりの僧は旅を続けるが、川を一人で渡った僧はついにがまんできなくなって、もう一人の僧を非難しはじめる。『女性に触れるのは戒律に背くことだとわかっているはず、あなたは聖なる誓いを破ったのだ』もう一人の僧が答える『兄弟よ。わたしはあの娘を川岸に降ろしてきた。あなたはまだ彼女をかかえているのか』 (デビー・フォード 『嫌いな自分をかくそうとしてはいけない』より)

(心のデボーション4119)

心のデボーション4120

「二人は言ふ『主イエスを信ぜよ、然らば汝も汝の家族も救はれん』」 使徒16:31  大正文語訳聖書

「ふたりが言った、「主イエスを信じなさい。そうしたら、あなたもあなたの家族も救われます」。」 口語訳聖書

 「いのちの連続性」

マタイの「イエスの系図」は、いのちの連続性をあかしし、神の約束と祝福を伝えている。

しかし、子を生むことが許されない者にとっては、連続性から断たれる苦しみである。この悲しみは深い。だが、それは神の罰ではない。子を生むことが許されなかった人も含めて、すべての人は「連続性」の中にあり、その責任に生きることをもって神の祝福とすべきである。

「連続性」とは、変化である。変化をもって成熟とする。したがって「連続性の中の人間」は常に途上にあり、不完全である。だが、その不完全の中に神は介入してこられる。

(心のデボーション4120)

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