心のデボーション4051
「我は汝らの衷に善き業を始め給ひし者の、キリスト・イエスの日まで之を全うし給ふべきことを確信す。」 ピリピ1:6 大正文語訳聖書
「そして、あなたがたのうちに良いわざを始められたかたが、キリスト・イエスの日までにそれを完成して下さるにちがいないと、確信している。」 口語訳聖書
「よき業」
「よき業」は神が始められ、神が完成される。(ピリピ1:6) 「始めるἐνάρχομαι」は、元来、犠牲の儀式の始めとして駕籠から大麦を取り出し犠牲の獣にふりかけることを意味したが、次第にその意味を失い、「着手する、始める、開始する」をあらわすようになった。神が着手されたことを止めることはできない。
(心のデボーション4051)
心のデボーション4052
「わが誡命は是なり、わが汝らを愛せしごとく互に相愛せよ」 ヨハネ15:12 大正文語訳聖書
「わたしのいましめは、これである。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。」 口語訳聖書
「愛の空回り」
愛が苦しく感じられることがある。過ぎた愛は、こちらにもあちらにも重荷になる。いずれにしても、相手を見失って愛が空回りしているのである。その時は、愛情深くあろうとすることを一刻忘れることだ。それで相手の望むことが見えてきたら、愛がよみがえってきた証拠である。見失っていたのは相手だけでなく、自分自身なのだということもわかる。それが空回りの原因であろう。愛は「互いにἀλλήλων(相互に)」愛し合うべきものである。(ヨハネ15:12)
(心のデボーション4052)
心のデボーション4053
「汝らが、我らと共に僕たる愛するエパフラスより學びたるは、この福音なり。彼は汝らの爲にキリストの忠實なる役者にして、」 コロサイ1:7 大正文語訳聖書
「あなたがたはこの福音を、わたしたちと同じ僕である、愛するエペフラスから学んだのであった。彼はあなたがたのためのキリストの忠実な奉仕者であって、」 口語訳聖書
「キリストの忠実な奉仕者エパフラス」
「キリストの忠実な奉仕者エパフラス᾽Επαφρᾶς」。(コロサイ1:7) 「忠実なπιστός」は「信用できる、当てになる、忠実な、信仰深い」の意。信仰深い人は「当てになるキリストの奉仕者」である。神の人は、真に人に仕えることのできる人である。
(心のデボーション4053)
心のデボーション4054
「眼をもて眴せする者は憂をおこし 口の頑愚なる者は亡さる」 箴言10:10 明治元訳聖書
「目で、めくばせする者は憂いをおこし、あからさまに、戒める者は平和をきたらせる。」 口語訳聖書
「密やかな悪意」
口で何も言わなくても「目くばせ」ひとつで人を傷つけることができる。「目くばせ」しながら、実は、「足で合図し」、「指でさし」、その「ねじれた心」で「曲がったことを言って歩き回り」、「争いをまき散らす」。口で言えないことを目に語らせる、その密やかな悪意が人の心を傷つける。(箴言10:10)目くばせの裏に、ずるがしこい顔が隠れている。「もしあなたがたの目が健全なら、あなたの全身が明るい」(マタイ6:22)
「目くばせするἐννεύω」は「うなずいて合図する」の意。
(心のデボーション4054)
心のデボーション4055
「而してマケドニヤ及びアカヤに在る凡ての信者の模範となれ」 Ⅰテサロニケ1:7 大正文語訳聖書
「こうして、マケドニヤとアカヤとにいる信者全体の模範になった。」 口語訳聖書
「模範」
テサロニケ教会は「多くの患難の中で、聖霊による喜びをもって御言を受けいれ、わたしたちと主とにならう者となり」(Ⅰテサロニケ1:6)、「マケドニヤとアカヤとにいる信者全体の模範になった。」(Ⅰテサロニケ1:7)「模範になるτύπος」は「刻印されたもの、型となる」の意。個々の教会に、それぞれの「刻印されたもの、型となるもの」がある。
(心のデボーション4055)
心のデボーション4056
「これに就きて我ら常に汝らのために祈るは、我らの神の汝等をして召に適ふ者となし、能力をもて汝らの凡て善に就ける願と信仰の業とを成就せしめ給はんことなり」 Ⅱテサロニケ1:11 大正文語訳聖書
「このためにまた、わたしたちは、わたしたちの神があなたがたを召しにかなう者となし、善に対するあらゆる願いと信仰の働きとを力強く満たして下さるようにと、あなたがたのために絶えず祈っている。」 口語訳聖書
「召しにかなう者」
「召しにかなう者ἀξιώσῃ τῆς κλήσεως」。(Ⅱテサロニケ1:11) 「かなうἄξιος」は「同等の重みがある」の意。神は人を召され、その人を召しと同等の重みある者とされる。召された人の重みは神からのものである。
(心のデボーション4056)
心のデボーション4057
「蓋わが民はふたつの惡事をなせり即ち活る水の源なる我をすて自己水溜を掘れりすなはち壞れたる水溜にして水を有たざる者なり」 エレミヤ2:13 明治元訳聖書
「それは、わたしの民が二つの悪しき事を行ったからである。すなわち生ける水の源であるわたしを捨てて、自分で水ためを掘った。それは、こわれた水ためで、水を入れておくことのできないものだ。」 口語訳聖書
「壊れた水ため」
水が溜まらず逃げてしまう井戸を「壊れた水ため」という。自分の人生をつかむということは、自分という存在を深く掘り下げ、そこからいのちの水を汲み上げることなのかもしれない。その意味では掘る努力も大切だが、確かな水脈に向かうことがもっと大切である。これまで自分の人生を支えてきたものが、「壊れた水ため」で、乾きをいやすことのできないものではないか検討する必要がある。もっと深く掘るか、新しい井戸を掘るか?
(心のデボーション4057)
心のデボーション4058
「命令の目的は清き心と善き良心と僞りなき信仰とより出づる愛にあり」 Ⅰテモテ1:5 大正文語訳聖書
「わたしのこの命令は、清い心と正しい良心と偽りのない信仰とから出てくる愛を目標としている。」 口語訳聖書
「信仰の目的」
信仰の「命令παραγγελία(告知、教え)」の目的は「清い心と正しい良心と偽りのない信仰とから出てくる愛」である。それ以外を目的とする信仰の「命令παραγγελία(告知、教え)」はすべて偽りである。(Ⅰテモテ1:5)
(心のデボーション4058)
心のデボーション4059
「まことに汝に告ぐ、一厘ものこりなく償はずば、其處をいづること能はじ」 マタイ5:26 大正文語訳聖書
「よく言っておく。最後の一円を払うまでは、あなたはけっしてそこから出ることはできない」 フランシスコ会訳聖書
「最後の一クァドランス」
兄弟の間に生じた確執は「最後の一クァドランスτὸν ἔσχατον κοδράντην」まで、すなわち「些細なことがら」が償われるまで、決して解決しない。たとえ「支払い」が済んだとしても、兄弟間に確執があったという事実は消えない。「最後の一クァドランス」はイエスに支払っていただくほかない。(マタイ5:26)
(心のデボーション4059)
心のデボーション4060
「すでにかれをすてたりわが視るところは人に異なり人は外の貌(かたち)を見ヱホバは心をみるなり」 Ⅰサムエル16:7 明治元訳聖書
「しかし主はサムエルに言われた、「顔かたちや身のたけを見てはならない。わたしはすでにその人を捨てた。わたしが見るところは人とは異なる。人は外の顔かたちを見、主は心を見る」。」 口語訳聖書
「心によって心見る」
「人は外の顔かたちを見、主は心を見るἄνθρωπος ὄψεται εἰς πρόσωπον ὁ δὲ θεὸς ὄψεται εἰς καρδίαν」(Ⅰサムエル16:7)「主は心を見る」を新共同訳聖書は「主は心によって見る」と訳す。人は外観で物事を見るが、神は心で心をご覧になる。(Ⅰサムエル16:7)
(心のデボーション4060)
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