心のデボーション4041
「此は福音と言ふべき者にあらず、ただ或人々が汝らを擾してキリストの福音を變へんとするなり。」 ガラテヤ1:7 大正文語訳聖書
「それは福音というべきものではなく、ただ、ある種の人々があなたがたをかき乱し、キリストの福音を曲げようとしているだけのことである。」 口語訳聖書
「反対者」
口語訳聖書は本節を「ある種の人々τίς」と訳すが、この表現は適切でないものがある。Τίςは「ある人々」の意であり、他の多くはそれに従う。反対者をひとまとめにして、「ある種の人々」と呼ぶのではなく、反対の意見にも真摯に向き合うことが求められる。(ガラテヤ1:7)
(心のデボーション4041)
心のデボーション4042
「婚姻するを禁じ、食を斷つことを命ず。されど食は神の造り給へる物にして、信じかつ眞理を知る者の感謝して受くべきものなり。」 Ⅰテモテ4:3 大正文語訳聖書
「これらの偽り者どもは、結婚を禁じたり、食物を断つことを命じたりする。しかし食物は、信仰があり真理を認める者が、感謝して受けるようにと、神の造られたものである。」 口語訳聖書
「神の味付け」
「食」という字は人を良くすると書く。たとへ、自分のために料理してくれ、一緒に食べてくれる人がいたとしても、それだけで「食」が自分を良くしてくれるものではない。相手に「あなたは、私を良くしてくれる」と伝えることが大切である。感謝して受けとるなら、料理に少々塩気が足りず、味がぼんやりしていても、「食」はすべてを良くしてくれる。食は神の味付けである。ギリシャ語で「食」はβρῶμαで、「食物food(「養う」が語源)」の意である。(Ⅰテモテ4:3)
(心のデボーション4042)
心のデボーション4043
「御意のままにイエス・キリストに由り愛をもて己が子となさんことを定め給へり。」 エペソ1:5 大正文語訳聖書
「わたしたちに、イエス・キリストによって神の子たる身分を授けるようにと、御旨のよしとするところに従い、愛のうちにあらかじめ定めて下さったのである。」 口語訳聖書
「神の養子」
神はイエス・キリストによって私たちに「神の子たる身分」を授けられる。(エペソ1:5) 「子たる身分υἱοθεσία」は「養子にする(される)」の意。我らはイエス・キリストによって「神と養子縁組」し、神の子たる者とされたのである。(エペソ1:5)
(心のデボーション4043)
心のデボーション4044
「われら兄弟を愛するによりて、死より生命に移りしを知る、愛せぬ者は死のうちに居る。」 Ⅰヨハネ3:14 大正文語訳聖書
「わたしたちは、兄弟を愛しているので、死からいのちへ移ってきたことを、知っている。愛さない者は、死のうちにとどまっている。」 口語訳聖書
「生きている」
送電線の工事をしている人が「おーい、この線は生きてるか」と叫ぶ。電気の通じている線は「生きてる」で、そうでないのは「死んでる」である。「生きてる」は流れがあり、「死んでる」に流れがない。「生きてる」は危険で、「死んでる」は安全である。しかし、「生きてる」は力があり、「死んでる」は何も生み出さない。生きてるか死んでるかは、見た目には分からないが、触れればすぐに分かる。(Ⅰヨハネ3:14)
(心のデボーション4044)
心のデボーション4045
「イエス此處より進みたまふ時、ふたりの盲人さけびて『ダビデの子よ、我らを憫みたまへ』と言ひつつ從ふ。」 マタイ9:27 大正文語訳聖書
「そこから進んで行かれると、ふたりの盲人が、「ダビデの子よ、わたしたちをあわれんで下さい」と叫びながら、イエスについてきた。」 口語訳聖書
「ダビデの子イエス」
最初にイエスを「ダビデの子 υἱοῦ Δαυὶδ」と呼んだのは、神殿の祭司でもエルサレムの学者でもなく、二人の視力を失った男(マタイ9:27-31)であり、エリコの道端の二人の目の不自由な男(一人はバルテマイ)であり(マタイ20:29-34、マルコ10:46-52、ルカ16:35-42)、そして異邦の地ツロ・シドンに住むカンン人の女だった。(マタイ15:22)。その後、エルサレムの民衆に「イエスはダビデの子ではないか」とのささやきがひろまった。(マタイ12:23) 十字架の直前にイエスがエルサレムに入城されると、人々は上着を道に敷き「ダビデの子にホサナ」と叫び、祭司長、律法学者たちは、子どもが宮で「ダビデの子にホサナ」と叫ぶのを聞いて腹を立て、イエスを殺害する計画が始まるのである。(マタイ21:7-15) 「ダビデの子」はⅡサムエル7:12-13のナタンのダビデの契約「わたしはあなたの身から出る世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる」(Ⅱサムエル7:12)にはじまる。ダビデは息子ソロモンを契約の「ダビデの子」としたが、ダビデ王国は滅び、イスラエルにダビデの契約に基づくメシヤ待望の信仰が生まれ、信仰の人々はイエスを「ダビデの子」と告白したのである。
(心のデボーション4045)
心のデボーション4046
「ただしきものは患難おほし されどヱホバはみなその中よりたすけいだしたまふ」 詩篇34:19
「正しい者には災が多い。しかし、主はすべてその中から彼を助け出される。」 口語訳聖書
「悪事身にとまる」
諺に「悪事身にとまる」と言う。結局は自分の悪は自分の身に戻って来るの意。英語にはAs you sow, so should you reap.(蒔いた種を刈り取る)といわれる。しかし、自分のしたことに言訳をしている限り、この諺は無力である。この種の言訳は自分を失わないための砦でもある。つまり、言訳の砦を壊さなければ新しい自分にはなれないということである。(詩篇34:19)
(心のデボーション4046)
心のデボーション4047
「即ち虚假と謊言とを我より離れしめ 我をして貧からしめずまた富しめず 惟なくてならぬ糧をあたへ給へ」 箴言30:8 明治元訳聖書
「うそ、偽りをわたしから遠ざけ、貧しくもなく、また富みもせず、ただなくてならぬ食物でわたしを養ってください。」 口語訳聖書
「私の望み」
ユダヤのジョークに、神様が一人の男に「何でも望みをかなえてあげよう。ただし、与えるものの倍をおまえの友達に与えることにする」と言われた。男は考えて「では、私の片目をつぶしてください」と答えたという。そうせれば相手は両目の視力を失うことになる。では、ある人が「貧しくもなく、また富みもせず、ただなくてならぬ食物でわたしを養ってください」と言えばどうなるだろうか。おそらく、自分も相手も同じものが与えられることになる。つまり、この人は自分に与えられるものの倍が相手に行くのがいやなのだ。(箴言30:7)
「なくてならぬ食物αὐτάρκης」は「自足の、自給自足の、他者に頼らない」の意。
(心のデボーション4047)
心のデボーション4048
「死の門なんぢのために開けたりしや 汝死蔭の門を見たり」 ヨブ38:17 明治元訳聖書
「死の門はあなたのために開かれたか。あなたは暗黒の門を見たことがあるか。」 口語訳聖書
「死の門」
ヨブにさえ、いまだ「死の門」は開かれず、「死の陰の門」を見なかった。ただ、イエスにのみこの門は開かれ、イエスのみがこの門をくぐって出てこられた。それゆえ、死の門は私のために開かれず、私は暗黒の門を見ない。(ヨブ38:17)
(心のデボーション4048)
心のデボーション4049
「なんぢを訴ふる者とともに途に在るうちに、早く和解せよ。恐らくは、訴ふる者なんぢを審判人にわたし、審判人は下役にわたし、遂になんぢは獄に入れられん」 マタイ5:25 大正文語訳聖書
「あなたを訴える人と一緒に道を行く場合、途中で早く和解しなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれるにちがいない」 新共同訳聖書
「訴え」
「訴えἀντίδικος」は審判人から下役に、下役は獄吏に渡される。「訴え」は解決されなければ、次々にステージを変え、変わる度に新しい困難な状況が出現する。請求書は早く支払うに限る。(マタイ5:25)
(心のデボーション4049)
心のデボーション4050
「われ地をつくりてそのうへに人を創造せり われ自らの手をもて天をのべ その萬象をさだめたり」 イザヤ45:12 明治元訳聖書
「わたしは地を造って、その上に人を創造した。わたしは手をもって天をのべ、その万軍を指揮した。」 口語訳聖書
「殺してはならない」
地に戦争は終わらない。この瞬間にも無辜のいのちがためらいもなく奪われていく。神は「わたしは地を造って、その上に人を創造した」と言われる。(イザヤ45:12) 神の創造された人間は、いかなる理由があっても人を殺してはならない。
(心のデボーション4050)
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