心のデボーション4001
「我なんぢの涙を憶え、わが歡喜の滿ちん爲に汝を見んことを欲す。」 Ⅰテモテ1:4 大正文語訳聖書
「わたしは、あなたの涙をおぼえており、あなたに会って喜びで満たされたいと、切に願っている。」 口語訳聖書
「テモテの涙」
パウロはテモテの涙(δάκρυον)を忘れない。テモテの涙を「別れの涙」とすることもできるが、ここでは「福音のために」流される涙」(Ⅱテモテ1:9)であったろう。テモテはパウロのように「謙遜を尽くし、涙をもって」神に仕える人であった。(使徒20:19)
(心のデボーション4001)
心のデボーション4002
「かの枝に對ひて誇るな、たとひ誇るとも汝は根を支へず、根は反つて汝を支ふるなり。」 ロマ11:18 大正文語訳聖書
「あなたはその枝に対して誇ってはならない。たとえ誇るとしても、あなたが根をささえているのではなく、根があなたをささえているのである。」 口語訳聖書
「接根」
根尾村の樹齢千五百年と伝えられる「淡墨桜」は今も美しい花をつけてる。「淡墨桜」は伊勢湾台風で倒れたのが原因で、根ゆるぎをおこし枯れそうになった。そこで、ある人が若い山桜の根を三百六十の本切り、根のくさったところに「接根」したところ、この老桜はみごとによみがえった。自分というものが根腐れをおこし、倒れそうになったら、若い根を接ぐという方法もある。根(ῥίζα)が幹を支えている。(ロマ11:18)
(心のデボーション4002)
心のデボーション4003
「時いたりて御言を宣教にて顯さんとし、その宣教を我らの救主たる神の命令をもて我に委ねたまへり。」 テトス1:3 大正文語訳聖書
「神は、定められた時に及んで、御言を宣教によって明らかにされたが、わたしは、わたしたちの救主なる神の任命によって、この宣教をゆだねられたのである」 口語訳聖書
「定められた時」
神のなさることには「定められた時καιροῖς ἰδίοις」がある。καιροῖς ἰδίοιςは直訳「御自分の時」である。「定められた時」は、ことを明らかにされ、業がはじまる「神の時」である。(テトス1:3)
(心のデボーション4003)
心のデボーション4004
「ヱホバは貧からしめ又富しめたまひ卑くしまた高くしたまふ 」 Ⅰサムエル2:7 明治元訳聖書
「主は貧しくし、また富ませ、/低くし、また高くされる。」 口語訳聖書
「貧しき者」
私を「貧しき者(πτωχός)」と教えてくださったのは神である。その恵みがなければ、自分を低くすることは決してできない。自分を「貧しき者」と知ったとき、心は豊かになった。貧しさに在るときだけ、神とお会いすることができた。「貧しき者」になるのに、勇気も知恵もいらない。今の自分を変える必要もない。ただ、魂を主に「解き放て」ばよい。(Ⅰサムエル2:7)
(心のデボーション4004)
心のデボーション4005
「イエス書を卷き、係の者に返して坐し給へば、會堂に居る者みな之に目を注ぐ。」 ルカ4:20 大正文語訳聖書
「イエスは聖書を巻いて係りの者に返し、席に着かれると、会堂にいるみんなの者の目がイエスに注がれた。」 口語訳聖書
「聖書」
イエスが安息日に会堂に入られ朗読されようとすると、会堂管理者がイザヤ書を手渡した。(ルカ4:20)「書」はβιβλίονで「巻物、書物」の意で、Bibleの語源である。当時のβιβλίονは羊皮紙やパピルスにかかれた細片であった。旧約聖書39巻929章23214節、新約聖書 27巻260章7959節が「聖書」として認定されている。カソリック教会は旧約外典7巻を加えて旧約聖書46巻とする。
(心のデボーション4005)
心のデボーション4006
「我らの姉妹アピヤ、我らと共に戰鬪をなせるアルキポ及び汝の家にある教會に贈る。」 ピレモン1:2 大正文語訳聖書
「姉妹アピヤ、わたしたちの戦友アルキポ、ならびに、あなたの家にある教会へ。」 口語訳聖書
「戦友アルキボ」
アルキポは「わたしたちの戦友アルキポἀρχίππῳ τῶ συστρατιώτῃ ἡμῶν」と呼ばれる。(ピレモン1:2) 明治元訳聖書は「我儕と共に戰爭をなせるアルキポ」と訳し、大正文語訳聖書は「我らと共に戰鬪をなせるアルキポ」と訳す。「戦友συστρατιώτης」は「共に戦う(一緒に出陣する)兵士」の意。アルキポはパウロと福音宣教のために共に出陣し戦う戦士であった。
(心のデボーション4006)
心のデボーション4007
「然れば我ら心を強くして斯く言はん 『主わが助主なり、我おそれじ。 人われに何をなさん』 と。」 へブル13:6 大正文語訳聖書
「だから、わたしたちは、はばからずに言おう、「主はわたしの助け主である。わたしには恐れはない。人は、わたしに何ができようか」。」 口語訳聖書
「走る」
ギリシャ語で「助けるβοηθέω」は「βόη 叫び+θέω走る」からなり、「叫び声を聞いて駆けつける」の意。聖書は「叫び」を聞いても「走る」ことをしないのを「助け」とは考えない。「助け」とは「叫びを聞いて、すぐさま走る」ことである。「助け人」は走っても何ができるかなどと考えない。ただ、倒れた人が立ち上がるのにちょっと手を貸す、それだけのことかもしれない。しかし、そのためにも「走る」。主は私の「叫びを」を聞いて駆け寄ってくださる。(へブル13:6)
(心のデボーション4007)
心のデボーション4008
「なんぢに請ふ者にあたへ、借らんとする者を拒むな。」 マタイ5:42 大正文語訳聖書
「求める者には与え、借りようとする者を断るな。」 口語訳聖書
「すべてを与え、凡てを所有する」
「愛ある人は…、凡てを凡てのために與へて、叉凡てを所有する」(アケンピス「基督のまねび」内村達三郎訳 春秋社昭和21年2月)惜しみなく与える(δίδωμι)者に神は「わたしたちが求めまた思うところのいっさいを、はるかに越えてかなえて下さる」(エペソ3:20)からである。(マタイ5:42)
(心のデボーション4008)
心のデボーション4009
「供物を祭壇のまへに遺しおき、先づ往きて、その兄弟と和睦し、然るのち來りて、供物をささげよ」 マタイ5:24 大正文語訳聖書
「その供え物を祭壇の前に残しておき、まず行ってその兄弟と和解し、それから帰ってきて、供え物をささげることにしなさい。」 口語訳聖書
「兄弟と和睦」
「和睦するδιαλλάσσω」はラテン語reconciliareで「和解させる、連れ戻す、調停を図る、再び得る」の意味がある。英語reconciliationはラテン語reconciliareから来たものであり、「re再び+conciliation慰め」で、「和解、調停、調和、一致」を意味する。「兄弟と和睦する」は、兄弟を連れ戻し、別れた心を再び得ることである。失われた「調和、一致」を取り戻すこと。「再びの慰め」である。(マタイ5:24)
(心のデボーション4009)
心のデボーション4010
「そは義者は七次たふるるともまた起く されど惡者は禍災によりて亡ぶ」 箴言24:16 明治元訳聖書
「正しい者は七たび倒れても、また起きあがる、しかし、悪しき者は災によって滅びる。」 口語訳聖書
「七たび倒れても」
「正しい人」は「七たび倒れても、また起きあがる」。七は完全数で、「七たび」は「繰り返し、完全に」の意。「正しい人」も倒れ、幾度でも挫折する。しかし、彼の「正しさ」が彼を幾度でも、完全に立ち直らせる。「起き上がるἀνίστημι 」は「立ち上がる、生き返る、目覚める」の意である。(箴言24:16)
(心のデボーション4010)
コメント