心のデボーション400

デボーション1
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心のデボーション3991

「ここにヘロデ、博士たちに賺(すか)されたりと悟りて、甚だしく憤ほり、人を遣し、博士たちに由りて詳細(つまびらか)にせし時を計り、ベツレヘム及び凡てその邊(ほとり)の地方なる、二歳以下の男の兒をことごとく殺せり。」 マタイ2:16  大正文語訳聖書

「さて、ヘロデは博士たちにだまされたと知って、非常に立腹した。そして人々をつかわし、博士たちから確かめた時に基いて、ベツレヘムとその附近の地方とにいる二歳以下の男の子を、ことごとく殺した。」 口語訳聖書

 「ヘロデの怒り」

パスカルはヘロデの幼児逆殺について「ヘロデが殺された二歳以下の幼児のうちに、彼自身の男の子がいたと聞いたとき、アウグストゥスは、ヘロデの子であるよりも、ヘロデの豚のであるほうがましだと言った」と書いている。(パスカル「パンセ」179  前田陽一・由木康訳 中央公論社1973) マクロビウス、二巻『サッルナリア』四章からのものであろうようだ。マタイ2章のヘロデの幼児逆殺の際の皇帝アウグストゥスの発言かどうかは定かではない。しかし、疑わしい者はわが子でも殺害したヘロデ王からはあり得ないことではない。ヘロデの怒り(θυμόω)は臆病な猜疑心からくるものである。(マタイ2:16)

(心のデボーション3991)

心のデボーション3992

「汝等その言ふところに易へて『主の御意ならば、我ら活きて此のこと、或は彼のことを爲さん』と言ふべきなり。」 ヤコブ4:15  大正文語訳聖書

「むしろ、あなたがたは「主のみこころであれば、わたしは生きながらえもし、あの事この事もしよう」と言うべきである。」 口語訳聖書

 「幸福の追求」

V・E・フランクルは「幸福の追求は、幸福を妨げる」と語った。「幸福になろうとすると、人は幸福になれない」という。むしろ、幸福へのこだわりを捨てて、なすべきことに取り組んでいれば、おのずと、幸福になっている自分に気づくという。なすべきことはひとつではなく、「このこと」「あのこと」とたくさんある。しかし、いつの日にか、「なすべきあの事、この事ποιήσομεν τοῦτο ἢ ἐκεῖνο」が、「なすべきひとつ」であったと知ることになる。それが本当の幸福であろう。(ヤコブ4:15

(心のデボーション3992)

心のデボーション3993

「それ我らの福音の汝らに至りしは、言にのみ由らず、能力と聖靈と大なる確信とに由れり。且われらが汝らの中にありて汝らの爲に如何なる行爲をなししかは、汝らの知る所なり。」 Ⅰテサロニケ1:5  大正文語訳聖書

「なぜなら、わたしたちの福音があなたがたに伝えられたとき、それは言葉だけによらず、力と聖霊と強い確信とによったからである。わたしたちが、あなたがたの間で、みんなのためにどんなことをしたか、あなたがたの知っているとおりである。」 口語訳聖書

 「福音の力」

パウロの伝えた「福音」は「言葉だけ」によるものではなく、「力と聖霊と強い確信」によった。パウロの語る「言葉だけによらず」は「福音(神の言葉)」に対するパウロ自身のことば(宣教)を指していて、「神の御言葉」の意ではない。宣教の力強さは(人の)言葉によらず、「(神の御言葉の)力と聖霊と強い確信」によるのである。(Ⅰテサロニケ1:5)

「この福音は、世界中いたる所でそうであるように、あなたがたのところでも、これを聞いて神の恵みを知ったとき以来、実を結んで成長しているのである。」(コロサイ1:6)

(心のデボーション3993)

心のデボーション3994

「即ちその跌倒る時には一箇の人その伴侶を扶けおこすべし 然ど孤身にして跌倒る者は憐なるかな之を扶けおこす者なきなり」 伝道4:10  明治元訳聖書

「すなわち彼らが倒れる時には、そのひとりがその友を助け起す。しかしひとりであって、その倒れる時、これを助け起す者のない者はわざわいである。」 口語訳聖書

 「無言電話」

無言電話にむきになって対応するのは、相手を面白がらせるだけである。相手はこちらを怒らせようとして、挑発しているのだ。電話を受けた人をどんなに怒らせても、それが自分に及ばないのを確認した上で、人が怒るのを楽しんでいるのである。だから、無言電話には、挑発に乗らず、できるだけ明るく対応するのがよい。「倒れているのに、起こす者のいないひとりぼっちの人」なのである。

(心のデボーション3994)

心のデボーション3995

「兄弟よ、われら汝等につきて常に神に感謝せざるを得ず、これ當然の事なり。そは汝らの信仰おほいに加はり、各自みな互の愛を厚くしたればなり。」 Ⅱテサロニケ1:3  大正文語訳聖書

「兄弟たちよ。わたしたちは、いつもあなたがたのことを神に感謝せずにはおられない。またそうするのが当然である。それは、あなたがたの信仰が大いに成長し、あなたがたひとりびとりの愛が、お互の間に増し加わっているからである。」 口語訳聖書

 「大いなる成長」

パウロはテサロニケ教会の信徒たちの信仰が「大いに成長しているὑπεραυξάνω」ことに感謝せずにはいられない。(Ⅱテサロニケ1:3) ὑπεραυξάνωは「非常に大きくなる、目に見えて成長する、度を越えて成長する」の意。信仰の成長は誰に目にもわかるかたちに現れる。眼を見張るような信仰の成長は神からのものである。

(心のデボーション3995)

心のデボーション3996

「我マケドニヤに往きしとき汝に勸めし如く、汝なほエペソに留まり、ある人々に命じて、異なる教を傳ふることなく、」 Ⅰテモテ1:3  大正文語訳聖書

「わたしがマケドニヤに向かって出発する際、頼んでおいたように、あなたはエペソにとどまっていて、ある人々に、違った教を説くことをせず、」 口語訳聖書

 「異なる教え」

福音が伝えられると、すぐに、「異なる教え」を伝える者があらわれた。(Ⅰテモテ) 「違った教えἑτεροδιδασκαλέω」は「異なる教え、過ちの教え」の意。「果てしのない空想話」(Ⅰテモテ1:4)であり、「信仰による神の務を果すものではない」。

(心のデボーション3996)

心のデボーション3997

「我は柔和にして心卑ければ、我が軛を負ひて我に學べ、さらば靈魂に休息を得ん。」 マタイ11:29  大正文語訳聖書

「わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。」 口語訳聖書

 「魂の安らぎ」

初心の幸せは「ひたすらな思い」にある。未熟な自分を知って、ひたすらに学ぶ。「学び(μανθάν)」が「魂の安らぎ」にとどくには、イエスについて学ぶのでなく、イエスを学ぶ必要がある。イエスがなさったように、思いを込めて生きることである。この学びに向かう人に熟練はない。ただ、未熟な自分をひたすらに生き抜く。(マタイ11:29)

(心のデボーション3997)

心のデボーション3998

「願くはわれを瞳のごとくにまもり汝のつばさの蔭にかくし」 詩篇17:8  大正文語訳聖書

「ひとみのようにわたしを守り、みつばさの陰にわたしを隠し、」 口語訳聖書

 「みつばさの陰」

イソップの「山羊たちと山羊飼」の話では、山羊飼が遅れた山羊に腹を立てて石を投げると、石は山羊の角に当たり角を折ってしまう。すると山羊飼はまずいことになったと、角の折れた山羊に、このことを主人に内緒にしてくれと頼む。山羊は「たとい私が黙っていましても、どうして隠すことができましょう。私の角が折れているのは誰の目にもすぐわかるんですから」と答える。(「イソップ寓話集」15  山本光雄訳 岩波書店1942/2)

あらゆる罪の痕跡は隠すことはできない。角が折れてしまったのだ。しかし、神はみつばさの影(ἐν σκέπῃ τῶν πτερύγων σου)にわたしを隠される。(詩篇17:8)

(心のデボーション3998)

心のデボーション3999

「供物を祭壇のまへに遺しおき、先づ往きて、その兄弟と和睦し、然るのち來りて、供物をささげよ」 マタイ5:24 大正文語訳聖書

「その供え物を祭壇の前に残しておき、まず行ってその兄弟と和解し、それから帰ってきて、供え物をささげることにしなさい。」 口語訳聖書

 「兄弟と和解」

「行ってὑπάγω」は「何よりも先に引き返す」こと。彼は今まさに「供え物」を祭壇にささげようとする手をとどめ、直ちに引き返して「兄弟と和解」し、その後、再び祭壇に戻って供え物をささげるのである。これが文字道理に実行されるならば、会衆(牧師も含めて)は教会の礼拝に向かう途中でみな兄弟の所に引き返してしまい、和解が成立するまでは容易に戻れず、教会はしばしの間、無人となるであろう。だが、彼が兄弟の所に引き返した時点から神の礼拝は始まっている。そのような礼拝を始めなさいとイエスは言われる。(マタイ5:24)

(心のデボーション3999)

心のデボーション4000

「神にちかづき奉るは我によきことなり われは主ヱホバを避所としてそのもろもろの事跡をのべつたへん」 詩篇73:28  明治元訳聖書

「しかし神に近くあることはわたしに良いことである。わたしは主なる神をわが避け所として、あなたのもろもろのみわざを宣べ伝えるであろう。」 口語訳聖書

 「もっとも素晴らしいこと」

J・ウェスレイは死に臨んで、「The best of all is,God is with us.すべてのことの中で一番すばらしいことは、主がともにいますということだ」と語ったという。(「詩篇のこころ」角田三郎 ヨルダン社1979/9) 詩篇73:28の英訳は「But it is good for me to draw near to God;I have put my trust in the Lord God,That I may declare all Your works.」(New King James Version)である。「神の近くにあるπροσκολλάω」は「神と固く結びつく、神に接着する」の意。

(心のデボーション4000)

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