心のデボーション398

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心のデボーション3971

「汝等しづまりて我の神たるをしれ」 詩篇46:10 明治元訳聖書

「静まって、わたしこそ神であることを知れ」 口語訳聖書

 「誰が言ったからではなく」

アメリカのテキサス州にあるサウスウェスタン大学Southwestern University(1873年、合同メソジスト教会により創設)の校訓は「Non quis sed quid.(誰がではなく何が)」であるという。「個人的成長への情熱、多様な視角、自己および他者への誠意、人々の価値と尊厳の尊重、正義と普遍的善を追求」をモットーとする同校の指針であろう。誰が言ったかではなく、何が言われているかに耳を傾けようとする。(詩篇46:10)

(心のデボーション3971)

心のデボーション3972

「ロトの妻は後を回顧たれば鹽の柱となりぬ」 創世記19:26  明治元訳聖書

「しかしロトの妻はうしろを顧みたので塩の柱になった。」 口語訳聖書

 「ロトの妻」

二人のみ使いはロトの家族に「いのちがけで逃げなさい。うしろ(ὀπίσω)を振り返ってはいけない」と命じた。しかし、一緒に逃げた家族の中で、ロトの妻はうしろを振り返って「塩の柱」になってしまう。人生には、決してうしろを振り返ってはいけない時がある。女性には、そんな時にも、残してきたものを振り返りたくなる誘惑があるのかもしれない。失ったものへのこだわりは時に人を「塩の柱」にする。(創世記19:26)

(心のデボーション3972)

心のデボーション3973

「また穡時の節筵を守るべし是すなはち汝が勞苦て田野に播る者の初の實を祝ふなり又収蔵の節筵を守るべし是すなはち汝の勞苦によりて成る者を年の終に田野より収蔵る者なり」 出エジプト23:16  明治元訳聖書

「また、あなたが畑にまいて獲た物の勤労の初穂をささげる刈入れの祭と、あなたの勤労の実を畑から取り入れる年の終りに、取入れの祭を行わなければならない。」 口語訳聖書

 「ふかぬ堂」

富山県には十数ヶ所の「ふかぬ堂」、場所によって「不吹堂(ふかんどう)」と呼ばれる風神堂がある。風を鎮め豊作を祈念するものである。人々は季節ごとの自然に向かって穏やかを祈り、守護に感謝しながら生きた。(出エジプト23:16)

(心のデボーション3973)

心のデボーション3974

「誰にても天にいます我が父の御意をおこなふ者は、即ち我が兄弟、わが姉妹、わが母なり」 マタイ12:50  大正文語訳聖書

「天にいますわたしの父のみこころを行う者はだれでも、わたしの兄弟、また姉妹、また母なのである」 口語訳聖書

 「霊的兄弟姉妹」

神のみこころを行う人は誰でも、「わたしの兄弟、また姉妹、また母」である。(マタイ12:50 マルコ3:35) キリスト者は、年齢によらず、立場によらず、みな霊的兄弟姉妹、父母である。「失われた兄弟姉妹」を忘れるということは決してない。

(心のデボーション3974)

心のデボーション3975

「ヱホバは磐にましましてその御行爲は完くその道はみな正しまた眞實ある神にましまして惡きところ無し只正くして直くいます」 申命記32:4  明治元訳聖書

「主は岩であって、そのみわざは全く、その道はみな正しい。主は真実なる神であって、偽りなく、義であって、正である。」 口語訳聖書

 「真実なる神」

「われわれは自分自身のことを実にわずかしか知らないので、多くに人は、健康なのに、近く死にはしないかと考えている。また、多くの人は、死が近いのに、健康だと思っている」(パスカル「パンセ」175 前田陽一・由木康訳 中央公論社1973) しかし、多くの場合、人は真実による苦しみを経て幸福に導かれるのである。幸福の前に置かれる苦しみに恐れをなして、人は「自分自身のことを実にわずかしか」知ろとしないのではあるまいか。神は「真実なる神θεός ἀληθινὰ」である。(申命記32:4)

(心のデボーション3975)

心のデボーション3976

「我もし國語の意義を知らずば、語る者に對して夷人となり、語る者も我に對して夷人とならん、」 Ⅰコリント14:11  大正文語訳聖書

「もしその言葉の意味がわからないなら、語っている人にとっては、わたしは異国人であり、語っている人も、わたしにとっては異国人である。」 口語訳聖書

 「バルバロス」

ギリシャ人は「伝説の英雄エレーンἒλλν」を始祖として自らを「エレーノスἒλληνός(エレーンの子)」と呼び、ギリシャ語を話さい民族を「バルバロスΒάρβαρος」と呼んだ。Βάρβαροςは「意味の分からない言葉を喋る人」の意で、英語の「野蛮人barbarian」の語源である。パウロは異言を「もしその言葉の意味がわからないなら、わたしは異国人(Βάρβαρος)であり、語っている人も、わたしにとっては異国人(Βάρβαρος)である。」と言っている。神の言葉は「意味の分からない言葉」で語られることはない。(Ⅰコリント14:11)

(心のデボーション3976)

心のデボーション3977

「凡てのこと試みて善きものを守り、」 Ⅰテサロニケ5:21  大正文語訳聖書

「すべてのものを識別して、良いものを守り、」 口語訳聖書

 「良きもの」

以前より社会的評価の低いところに転職すると、自分の世界が縮小されたような気分になる。転職後、家で暴君のようなわからず屋になる人は、失った自信をせめて家族で取り戻そうとしているのかもしれない。社会的な評価から離れてからが、その人の本当の評価がはじまるのではないか。内的な世界を掘り下げ、本物の自分と出会う必要がある。「堅く守る」べき「良きものκαλός」は、外にではなく内にある。(Ⅰテサロニケ5:21)

(心のデボーション3977)

心のデボーション3978

「われは終のことを始よりつげ いまだ成ざることを昔よりつげ わが謀畧はかならず立つといひ すべて我がよろこぶことを成んといへり」 イザヤ46:10  明治元訳聖書

「わたしは終りの事を初めから告げ、まだなされない事を昔から告げて言う、『わたしの計りごとは必ず成り、わが目的をことごとくなし遂げる』と。」 口語訳聖書

 「ことの目的」

「ことの終わり」は「初めから」告げられている。「ことの始まり」に告げられた「ことの目的」が失われることはない。多くの挫折は、「ことに挫折した」のではなく、挫折の中にもその目的があることを見抜けなかったからではないか。いかなる挫折も神の目的(βουλή)を打ち砕くことはできない。(イザヤ46:10)

(心のデボーション3978)

心のデボーション3979

「供物を祭壇のまへに遺しおき、先づ往きて、その兄弟と和睦し、然るのち來りて、供物をささげよ」 マタイ5:24 大正文語訳聖書

「その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい」 新共同訳聖書

 「仲直り」

『十二使徒の教え』(『ディダケー(教え)Διδαχή』 第14章)に「友人と争っている者は皆、仲直りするまではあなたがたに加えてはいけない」と教えられている。

「仲直りする(διαλλάσσω)まではあなたがたに加えてはいけない」とは、二人の間でその「争いごとが解決されるのを見届けるまでは」という意味である。私たちの多くは、「仲直り」するというよりも、むしろ、泥水が時間をおいて澄むように、問題が沈静するのを待つ。この方が、失敗すれば決裂するやもしれぬ「仲直り」よりは、ずっと安易で賢い。しかし、その底にはヘドロのような澱がたまり、底から掻き出さなければならなくなる。(マタイ5:24)

(心のデボーション3979)

心のデボーション3980

「御前にて潔く瑕なからしめん爲に、世の創の前より我等をキリストの中に選び、」 エペソ1:4  大正文語訳聖書

「みまえにきよく傷のない者となるようにと、天地の造られる前から、キリストにあってわたしたちを選び、」 口語訳聖書

 「傷のない者」

「傷のないものἄμωμος」は神の祭壇にささげられる「傷のない牛や羊」(レビ1:3,10)からきている。神の受け入れられる犠牲はἄμωμοςでなければならなかった。神はイエス・キリストを御心にかなう「傷のない者ἄμωμος」として祭壇の犠牲としてほうむられ、流された血によって「傷ある者」を「傷無き者」とされたのである。(エペソ1:4)

(心のデボーション3980)

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