心のデボーション396

デボーション1
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心のデボーション3951

「われ汝らがキリスト・イエスに在りて神より賜はりし恩惠に就きて、常に神に感謝す。」 Ⅰコリント1:4 大正文語訳聖書

「わたしは、あなたがたがキリスト・イエスにあって与えられた神の恵みを思って、いつも神に感謝している。」 口語訳聖書

 「感謝」

パウロはコリントの教会の一人一人に「キリスト・イエスにあって与えられた神の恵み」について、「いつも(常に)」神に深く感謝している。(Ⅰコリント1:4) 「いつも(常に)」を明治元訳聖書は「恆に」と訳す。「恆」は「心」+「亙」で、「亙」は「月の弦」をあらわし、「張り詰めた月の弦ように心がいつも緊張している」ことの意である。ギリシャ語πάντοτεは「常に、いつも」。パウロは、どんな時にも、教会に与えられる神の恵みに、ぴんと張り詰めた緊張感をもって感謝する。

(心のデボーション3951)

心のデボーション3952

「これヱホバの設けたまへる日なり われらはこの日によろこびたのしまん」 詩篇118:24 明治元訳聖書

「これは主が設けられた日であって、われらはこの日に喜び楽しむであろう。」 口語訳聖書

 「上手につき合う」

鍵をかけたかどうか気になって、駅から引き返したというようなことは誰にもある。心が健康な人とは、「ノイローゼや精神病を上手に生きている人」のことだといわれる。チエックしないではいられない自分とつき合うには、「今日も元気だ。チエックも楽しい」と思えればよい。「楽しいはずないじゃないか」と反論されそうだが、いや、きっとされるが、明るくチエックとつき合うのも悪くはない。

(心のデボーション3952)

心のデボーション3953

「白髮の人の前には起あがるべしまた老人の身を敬ひ汝の神を畏るべし我はヱホバなり」 レビ19:32 明治元訳聖書

「あなたは白髪の人の前では、起立しなければならない。また老人を敬い、あなたの神を恐れなければならない。わたしは主である。」 口語訳聖書

 「父を敬う者」

「父を敬う者(τιμάω)は子供から喜びを受け、祈る時に、その祈りは聞き届けられる。」(旧約聖書外典ベン=シラの知恵3:5 フランシスコ会訳聖書) 父を尊ぶ人は子らに受け入れられる。老いた父を蔑む父を見る子らは、父への蔑みを学習し、人を蔑む者となる。

(心のデボーション3953)

心のデボーション3954

「我は大に喜びて汝らの靈魂のために物を費し、また身をも費さん。我なんぢらを多く愛するによりて、汝ら我を少く愛するか。」 Ⅱコリント12:15 大正文語訳聖書

「そこでわたしは、あなたがたの魂のためには、大いに喜んで費用を使い、また、わたし自身をも使いつくそう。わたしがあなたがたを愛すれば愛するほど、あなたがたからますます愛されなくなるのであろうか。」 口語訳聖書

 「出会い」

パウロは人との出会いに、「魂のためには、大いに喜んで費用を使い、また、わたし自身をも使いつくそうἐγὼ δὲ ἥδιστα δαπανήσω καὶ ἐκδαπανηθήσομαι ὑπὲρ τῶν ψυχῶν ὑμῶν」という。魂のためには喜んで必要とする物を使い果たし(δαπανάω)、それ以上に「わたし自身を使い尽くそうἐκδαπανάω(捧げ尽くす)」と告白する。(Ⅱコリント12:15)

パウロは人間の出会いにありのままの自分を使い尽くす。こういう出会いがあって人は自分の内にある深い感情に向かうことができる。自分のたましいを意識することによって、問題の根源に近づき、自分を内から変えることができる。それはあくまでも一人で出来ることではなく、自分をきちんと生きている人との出会いからはじまるのである。自分の不安や怒り、恐れの感情を抑えるのではなく、それを生きることをうながしてくれる出会いこそ本物ではないか。パウロのこのような魂に対する姿勢は、パウロがイエス・キリストから受けた経験から来るものである。

(心のデボーション3954)

心のデボーション3955

「禍も福もともに至高者の口より出るにあらずや」 哀歌3:38 明治元訳聖書
「災もさいわいも、いと高き者の口から出るではないか。」 口語訳聖書

 「良きも悪しきも」

災いも幸いも(LXXτὰ κακὰ καὶ τὸ ἀγαθόν良きも悪しきも)主から来る。(哀歌3:38) 災いのなかに主を見る者は、災いの中にも幸いを見出す。(哀歌3:38)
(心のデボーション3955)

心のデボーション3956

「堅き食物は智力を練習して善惡を辨ふる成人の用ふるものなり。」 へブル5:14 大正文語訳聖書
「しかし、堅い食物は、善悪を見わける感覚を実際に働かせて訓練された成人のとるべきものである。」 口語訳聖書

 「善悪を見分ける」

「是貴其冠履而忘其頭足也 冠履(かんり)を貴んで頭足を忘る」淮南子 冠は頭、靴は足があってこそのものであるが、頭や足を忘れて冠や履を大切にすること。物事の本質を無視して些細なことを重んじるの意。

へブル:14「善悪を見分けるδιάκρισιν καλοῦ τε καὶ κακοῦ」は善と悪を「見分けるδιάκρισις(分離、区分、判定)」の意。明治元訳聖書は「善惡を辨(わきま)へうる」と訳す。「辨」は「刀」+音符「辡」からなり、「刀で物事を切り分ける」で「わかつ、わきまえる」の意である。善悪の本質を鋭い刃物で切り分ける感覚である。

(心のデボーション3956)

心のデボーション3957

「神は更に大なる恩惠を賜ふ。されば言ふ『神は高ぶる者を拒ぎ、へりくだる者に恩惠を與へ給ふ』と。」 ヤコブ4:6 大正文語訳聖書

「しかし神は、いや増しに恵みを賜う。であるから、「神は高ぶる者をしりぞけ、へりくだる者に恵みを賜う」とある。」 口語訳聖書

 「へりくだり」

成功の中には必ず失敗の種がまかれている。ことが順調に展開している時に、そこに含まれている衰退の原因を見届けておくことが大切である。思わぬ成功を収めると、どうしても高慢になり、変化を見極めることができにくい。流れが変わってしまってからでは、もとに戻すのは至難の業である。へりくだる(ταπεινός)人は、たとえそれが厳しい批判でも耳を傾ける。耳障りの良いことだけを聞いていては、本当の情報が入らない。(ヤコブ4:6)

(心のデボーション3957)

心のデボーション3958

「ヱホバはそのもとゐを大海のうへに置これを大川のうへに定めたまへり」 詩篇24:8 明治元訳聖書

「主はその基を大海のうえにすえ、大川のうえに定められた。」 口語訳聖書

 「主の山」

「誰が掌にすくって海を量り、手の幅をもって天を測り、手に掴んですべての土を測ったであろうか。誰が山々を秤にかけ、もろもろの谷を天秤にかけたであろうか。誰が主の思いを知り得たであろうか。」(『ユダヤ人トリュフォンとの対話』ユスティノスIoustinos 100頃-65年頃、初期キリスト教の教父) 

「手が清く、心のいさぎよい者、その魂がむなしい事に望みをかけない者、偽って誓わない者」こそ「主の山(τὸ ὄρος τοῦ κυρίου)の聖なる所」に立つ。(詩篇24:3-4)

(心のデボーション3958)

心のデボーション3959

「この故に汝もし供物を祭壇にささぐる時、そこにて兄弟に怨まるる事あるを思ひ出さば」 マタイ5:23 大正文語訳聖書

「あなたが祭壇の上に供え物をささげようとするとき、もし兄弟があなたに何か恨みを抱いているのを思い出したならば」 フランシスコ会訳聖書

 「礼拝に向かう」

兄弟から反感を持たれながらそれに気づかぬまま、祭壇に供え物を献げようと礼拝に向かう。その行為を笑うことはできない。礼拝に向かう者はみな自分に向かうのである。

(心のデボーション3959)

心のデボーション3960

「もし知識を呼求め聰明をえんと汝の聲をあげ 銀の如くこれを探り 秘れたる寳の如くこれを尋ねば 汝ヱホバを畏るることを暁り 神を知ることを得べし そはヱホバは智慧をあたへ 知識と聰明とその口より出づればなり かれは義人のために聰明をたくはへ 直く行む者の盾となる」 箴言2:3-7 明治元訳聖書

「しかも、もし知識を呼び求め、悟りを得ようと、あなたの声をあげ、銀を求めるように、これを求め、かくれた宝を尋ねるように、これを尋ねるならば、あなたは、主を恐れることを悟り、神を知ることができるようになる。これは、主が知恵を与え、知識と悟りとは、み口から出るからである。彼は正しい人のために、確かな知恵をたくわえ、誠実に歩む者の盾となって、公正の道を保ち、その聖徒たちの道筋を守られる。」 口語訳聖書

 「智慧の満ちるまで」

あまりに早く知識を深めようとしてはいけない。深い知識は人生の深まりと共にやってくるものだからである。手にあまる問題はそのままに放置するがよい。放置された問題が自ずから成熟を果すのを待つがよい。(箴言2:3-8)

(心のデボーション3960)

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