心のデボーション394

デボーション1
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心のデボーション3931

「願はくは主イエス・キリストの恩惠・神の愛・聖靈の交感、なんぢら凡ての者と偕にあらんことを」 Ⅱコリント13:13 大正文語訳聖書

「主イエス・キリストの恵みと、神の愛と、聖霊の交わりとが、あなたがた一同と共にあるように。」 口語訳聖書

 「聖霊の交わり」

「聖霊の交わりἡ κοινωνία τοῦ ἁγίου πνεύματος」。(Ⅱコリント13:13) 「交わりκοινωνία」は「関与、交わり、親密な結合」の意。American Standard Versionはthe communion of the Holy Spiritと訳す。「communion」は「(神との)霊的交わり」の意であり、「聖餐式」はcommunionである。「神の御霊があなたがたの内に宿っているなら、あなたがたは肉におるのではなく、霊におるのである」(ロマ8:9)

(心のデボーション3931)

心のデボーション3932

「汝わがあまた土の流離をかぞへたまへり なんぢの革嚢にわが涙をたくはへたまへ こは皆なんぢの冊にしるしあるにあらずや」 詩篇56:8 明治元訳聖書

「あなたはわたしのさすらいを数えられました。わたしの涙をあなたの皮袋にたくわえてください。これは皆あなたの書に/しるされているではありませんか。」口語訳聖書

 「涙の革袋」

エジプト人は涙を器に取り、悲しみを記憶した。その器を「涙(δάκρυα)のつぼ(נאד革袋)」といい、不幸な人を訪ねる時、その涙を封印するために持参したそうである。しかし、いくら涙をためても、人の心は癒されない。神は人の涙を革袋に受け取り、「さすらいの日々」を記憶される。イエスは婚礼に出席され、水がめの水をブドー酒にされる。革袋の涙は、いつかブドー酒に変容することによって、人の心は癒されるのであろう。(詩篇56:8)

(心のデボーション3932)

心のデボーション3933

「わが僕等はこころ樂きによりて歌うたへども汝等はこころ哀きによりて叫び また靈魂うれふるによりて泣嗁ぶべし」 イザヤ65:14 明治元訳聖書

「見よ、わがしもべたちは心の楽しみによって歌う、しかし、あなたがたは心の苦しみによって叫び、たましいの悩みによって泣き叫ぶ。」 口語訳聖書

 「遊び」

漢字の「遊」は水にふわふわ浮くの意で、「遊子」は定着した住まい離れてよそに出る旅人である。旅は自由に動く神の霊に導かれる「遊び」を意味した。大切なことは、しばしば遊びから生まれる。老人とは自分で自分を遊ばせることのできる人である。(イザヤ65:14)

(心のデボーション3933)

心のデボーション3934

「モーセ、ヱホバにいひけるはわが主よ我は素言辭に敏き人にあらず汝が僕に語りたまへるに及びても猶しかり我は口重く舌重き者なり」 出エジプト4:10 明治元訳聖書

「モーセは主に言った、「ああ主よ、わたしは以前にも、またあなたが、しもべに語られてから後も、言葉の人ではありません。わたしは口も重く、舌も重いのです」。」 口語訳聖書

 「口が重いままに」

神の召しに従うには自分が「ことばの人」でないことがモーセの悩みであった。さらに、モーセは「以前からそうだったし、神のことばを聞いた後も口が重い(βραδύγλωσσος)」と訴える。自分が神に出会っても、たいして変わらないことに心を重くしていたのだろうか。神はモーセを「口が重いまま」に召される。召された後も「口が重いまま」である。しかし、神はモーセを召された。大きな変化よりも、この小さな変化こそが真の変化であった。「口が重い者」と言葉をもって神に仕える者とされる変化こそが大切である。

(心のデボーション3934)

心のデボーション3935

「太初に言あり、言は神と偕にあり、言は神なりき。」 ヨハネ1:1 大正文語訳聖書

「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」 口語訳聖書

 「神のことば」

「λόγοςことば」のヘブル語対置語דָּבָר dâbârは「ことば」と共に「行為、ことがら」をあらわす。ことばは、行為と同義である。信仰はまず神のロゴスをわが身に知ることに始まる。(ヨハネ1:1)

(心のデボーション3935)

心のデボーション3936

「兄弟よ、われ汝らに示す、わが傳へたる福音は、人に由れるものにあらず」 ガラテヤ1:11 大正文語訳聖書

「兄弟たちよ。あなたがたに、はっきり言っておく。わたしが宣べ伝えた福音は人間によるものではない。」 口語訳聖書

 「福音」

パウロの宣べ伝える福音は「人間によるものではない」。(ガラテヤ1:11) 「人間によるκατὰ ἄνθρωπον」の前置詞κατὰは「~に従って、によって、に向って、を指して」である。福音は人間にからのものでなく、人間の欲望に仕えず、人間にとりいることをしない。人間を支配するものは人間から出たもので福音ではない。

(心のデボーション3936)

心のデボーション3937

「善惡を辨へ知り、キリストの日に至るまで潔よくして躓くことなく、」 ピリピ1:10 大正文語訳聖書

「それによって、あなたがたが、何が重要であるかを判別することができ、キリストの日に備えて、純真で責められるところのないものとなり、」 口語訳聖書

 「見分ける」

愛は真にすぐれたものを見分ける。「見分けるδοκιμάζω」は「吟味し、検討する」の意。愛はそのものに含まれる価値を深く試み、見分ける。「真にすぐれたもの」が何かを見分けるには、さしあたり、どうでもよい事はさらりと忘れるところからはじめるのがよいかもしれない。つまらぬ事に無関心になれるのが愛である。そして、つまらないと思えた事に価値を見るのも愛である。(ピリピ1:10)

(心のデボーション3937)

心のデボーション3938

「彼われをたづさへて酒宴の室にいれたまへり その我上にひるがへしたる旗は愛なりき」 雅歌2:4 明治元訳聖書

「彼はわたしを酒宴の家に連れて行った。わたしの上にひるがえる彼の旗は愛であった。」 口語訳聖書

 「神の旗印」

豊臣秀吉は大きな瓢箪に酒を満たし、部下が戦から戻ると瓢箪の酒を振舞った。それを見た織田信長が瓢箪を秀吉の馬印にしたらよいと助言し、以来、秀吉は大きな瓢箪を馬印とし戦に勝つたびに小さな瓢箪をつけ、やがて秀吉の「千成り瓢箪」になった。戦場において馬印は本陣の位置をしらせ、馬印を下げることは敗北を意味した。

神の旗印は愛である。(雅歌2:4) 「主はわが旗יְהוָ֥ה׀ נִסִּֽי」はLXXでは「κύριός μου καταφυγή(主はわが避け所)」である。神の愛は「わが旗、わが避け所」である。(出エジプト17:15)

(心のデボーション3938)

心のデボーション3939

「この故に汝もし供物を祭壇にささぐる時、そこにて兄弟に怨まるる事あるを思ひ出さば」 マタイ5:23 大正文語訳聖書

「あなたが祭壇の上に供え物をささげようとするとき、もし兄弟があなたに何か恨みを抱いているのを思い出したならば」 フランシスコ会訳聖書

 「兄弟の反感」

礼拝に行く途上での気づきがある。神に向かう途上で知る「兄弟の自分への反感(ἔχει τι κατὰ)」である。神に近づくほどに、人は「ありのままの自分」になる。礼拝は「私」を「ありのままの自分」と認める場である。「ありのままの自分」は意識がまだ気づいていない自分である。(マタイ5:23) 

(心のデボーション3939)

心のデボーション3940

「銀を好む者は銀に飽こと無し 豊富ならんことを好む者は得るところ有らず 是また空なり」 伝道5:10 明治元訳聖書

「金銭を好む者は金銭をもって満足しない。富を好む者は富を得て満足しない。これもまた空である。」 口語訳聖書

 「間で洟をかむ」

「間で洟をかむ」は、「金銭のやり取りにかかわって一部をくすねる」の意であるという。ピンハネ(ピン撥ね、上前をはねる)である。汚れた金銭は汚れた仕事に使われるようだ。(伝道5:10)

(心のデボーション3940)

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