心のデボーション3921
「此は福音と言ふべき者にあらず、ただ或人々が汝らを擾してキリストの福音を變へんとするなり。」 ガラテヤ1:7 大正文語訳聖書
「それは福音というべきものではなく、ただ、ある種の人々があなたがたをかき乱し、キリストの福音を曲げようとしているだけのことである。」 口語訳聖書
「曲げられた福音」
告げられる福音がすべて福音ではない。「ある種の人々が伝える福音は「曲げられた福音」であり、「あなたがたをかき乱す」ものでしかない。「かき乱すταράσσω」は「水をかき回す」の意で、「混乱をもたらし、不安をかきたて、惑わす」福音である。それははなはだしく「曲げられたμεταστρέφω(真逆に変えられ、変装(偽装)し、反対に向きを変えられた)福音である。(ガラテヤ1:7)
(心のデボーション3921)
心のデボーション3922
「なんぢの屋のゆたかなるによりてことごとく飽ことをえん なんぢはその歓樂のかはの水をかれらに飮しめたまはん」 詩篇36:8 明治元訳聖書
「あなたの家の豊かなのによって飽き足りる。あなたはその楽しみの川の水を彼らに飲ませられる。」 口語訳聖書
「楽しみの流れ」
砂漠にも川が流れる。しかし、いつも流れがあるとは限らない。流れは、地下に潜り、ワディ「枯れ川」(wadi アラビア語で「河谷」を意味するが、通常は水のない「枯れ川」で、豪雨があると激流となる川)になる。「楽しみの流れ」が枯れて、すっかり干上がってしまったと感じるのは、意味あることの中にだけ流れがあると思っているからではないか。毒にも薬にもならないようなことの中にも、流れはある。どちらが本流で、どちらがワディかは、簡単には決められない。「流れχειμάρρουν」は「冬に増水した急流」で、「楽しみの流れτὸν χειμάρρουν τῆς τρυφῆς」は「楽しみの急流」である。心ゆくばかりに飲むがよい。篇36:8)
(心のデボーション3922)
心のデボーション3923
「キリスト・イエスの僕、召されて使徒となり、神の福音のために選び別たれたるパウロ」 ロマ1:1 大正文語訳聖書
「キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び別たれ、召されて使徒となったパウロから」 口語訳聖書
「歓迎」
パウロは神に召されて使徒となった。(ロマ1:1)「召されるκλητός」は「選び出される」の意であるが、この語には「招待された、歓迎された」の意もある。人は神に「歓迎されて」招かれ、呼び出されたのである。
(心のデボーション3923)
心のデボーション3924
「我らを受け容れよ、われら誰にも不義をなしし事なく、誰をも害ひし事なく、誰をも掠めし事なし。」 Ⅱコリント7:2 大正文語訳聖書
「どうか、わたしたちに心を開いてほしい。わたしたちは、だれにも不義をしたことがなく、だれをも破滅におとしいれたことがなく、だれからもだまし取ったことがない。」 口語訳聖書
「場所をあける」
「心を開くχωρέω」は「心に場所をあける」という意味。もし、人と思いを通じたいなら、自分の心にその人に座ってもらう場所をあける。そこで心ゆくまで語り、くつろいでいただくのである。予約をした人のためだけでなく、ふらりとやってくる友のためにも場所をあけておきたいものである。「場所をあけて、お待ちしています」というのが最高のもてなしである。(Ⅱコリント7:2)
(心のデボーション3924)
心のデボーション3925
「命令を守る者は禍患を受るに至らず 智者の心は時期と判斷を知なり」 伝道8:5 明治元訳聖書
「命令を守る者は災にあわない。知者の心は時と方法をわきまえている。」 口語訳聖書
「火蓋」
「ことが始める」を「火蓋を切る」という。「火蓋」は火縄銃の火薬を入れる火皿の蓋のことで、これを開いて火縄を入れて点火の用意をすることで、正確には「切る」ではなく「落とす」で、戦闘開始のサインある。現代の戦闘開始は、ことが起こったときには、すでにあらかたが終わっている。神に従う者は「苦難の時(πονηρός)に賢者の心をもつκαιρὸν κρίσεως γινώσκει καρδία σοφοῦLXX」(伝道8:5)
(心のデボーション3925)
心のデボーション3926
「書をコリントに在る神の教會、即ちいづれの處にありても、我らの主、ただに我等のみならず彼らの主なるイエス・キリストの名を呼び求むる者とともに、聖徒となるべき召を蒙り、キリスト・イエスに在りて潔められたる汝らに贈る。」 Ⅰコリント1:2 大正文語訳聖書
「コリントにある神の教会、すなわち、わたしたちの主イエス・キリストの御名を至る所で呼び求めているすべての人々と共に、キリスト・イエスにあってきよめられ、聖徒として召されたかたがたへ。このキリストは、わたしたちの主であり、また彼らの主であられる。」 口語訳聖書
「神の教会」
「教会ἐκκλησία(集まり)」は「神の教会τῇ ἐκκλησίᾳ τοῦ θεοῦ」である。(Ⅰコリント1:2)神に属し、人に属さない。主の聖名を呼び求める二人、三人が集まる(συνάγω「集合する、結び合わせられる」)所に、主は居られる。(マタイ18:20)「主の居ます集まり」が「神の教会」である。
(心のデボーション3926)
心のデボーション3927
「柔和なる答は憤恨をとどめ厲しき言は怒を激す」 箴言15:1 明治元訳聖書
「柔らかい答は憤りをとどめ、激しい言葉は怒りをひきおこす。」 口語訳聖書
「ことばの暴力」
子どもが暴力をふるうのは、その子が乱暴な子だからではない。その子自身が長期にわたって何らかの暴力にさらされ、その結果、暴力によって自分を訴えることがはじまったのである。子どもに加えられる暴力は必ずしも腕力とは限らない。激しいことばや、冷たい態度も立派な暴力であり、子どもに怒り(ὀργή)を引き起こす。暴力を力でおさえるのではなく、その怒りが何からきているのかを理解する必要がある。子どもは暴力をふるいながらも、乱暴な自分にさみしさを感じているはずである。(箴言15:1)
(心のデボーション3927)
心のデボーション3928
「堅き食物は智力を練習して善惡を辨ふる成人の用ふるものなり。」 へブル5:14 大正文語訳聖書
「しかし、堅い食物は、善悪を見わける感覚を実際に働かせて訓練された成人のとるべきものである。」 口語訳聖書
「練習」
義の教えは、幼子の飲む「乳」から、次第におとなの「堅い食物」も摂れるようにならなければならない。それには「善悪を見わける感覚を実際に働かせる訓練」が必要である。「訓練γυμνάζω」は「訓練する、鍛錬する」の意。大正文語訳聖書は「練習」と訳す。「善悪を見分ける感覚(智力)」を得るには、それを現実的に働かせる練習を積む必要がある。(へブル5:14)
(心のデボーション3928)
心のデボーション3929
「されど我は汝らに告ぐ、すべて兄弟を怒る者は、審判にあふべし。また兄弟に對ひて、愚者よといふ者は、衆議にあふべし。また痴者よといふ者は、ゲヘナの火にあふべし」 マタイ5:22 大正文語訳聖書
「しかし、わたしはあなたがたに言う。兄弟に対して怒る者は、だれでも裁判を受けねばならない。兄弟にむかって愚か者と言う者は、議会に引きわたされるであろう。また、ばか者と言う者は、地獄の火に投げ込まれるであろう。」 口語訳聖書
「愚公山を移す」
中国には「愚公山を移す」という故事がある。愚公という名の老人が、自分の家の前に二つの山があって不自由に思い、他へ移そうと土を運びはじめた。人々は、それを「愚か」と笑ったが、愚公はひるまず、自分が死ねば子どもたちが引き継ぎ、山は移せると言った。その志は天帝の知るところとなり、山は移された。(『列子』湯門篇)「愚者千慮必有一得(愚者も多くのことを考えれば、たまにはよい考えを出す)」という言葉もある。
愚者(ῥακά)をあなどってはいけない。(マタイ5:22)
(心のデボーション3929)
心のデボーション3930
「事の終はその始よりも善し 容忍(しのぶ)心ある者は傲慢(ほこる)心ある者に勝る」 伝道7:8 明治元訳聖書
「事の終りはその初めよりも良い。耐え忍ぶ心は、おごり高ぶる心にまさる。」 口語訳聖書
「事の終わり」
「事」と訳されるヘブル語דָּבָרは「出来事、仕事、事」と共に「ことば」の意味を持つ。聖書において「ことば」は即「出来事」である。神の御言葉の終わり(ἔσχατος)はその初めよりもよい。何故なら御言葉の終わりは新たな御言葉の始めだからである。(伝道7:8)
(心のデボーション3930)
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