心のデボーション390

デボーション1
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心のデボーション3891

「ここにイエスの母と兄弟と來りて外に立ち、人を遣してイエスを呼ばしむ。」 マルコ3:31  大正文語訳聖

「さて、イエスの母と兄弟たちとがきて、外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた。」 口語訳聖書

 「テオトコス」

イエスの母マリヤについて、4世紀には「テオトコス(Θεοτόκος「神を産みし者」)」という尊称が生まれた。Θεοτόκοςは「神Θεόςを産む者τόκος」の意である。正教会のマリヤのイコンには左にMP、右にΘYの文字がある。MP ΘYは「メーテール・テウゥΜήτηρ Θεού(神の母)の略記である。MPはΜήτηρの、ΘYはΘεούの最初と最後の文字を組み合わせたものである。

聖書に「イエスの母マリヤ」が礼拝の対象になるような記述はない。単に「イエスの母ἡ μήτηρ αὐτοῦ」とだけ記されている。(マルコ3:31  ヨハネ2:1)

(心のデボーション3891)

心のデボーション3892

「されど曩に我が益たりし事はキリストのために損と思ふに至れり。」 ピリピ3:7  大正文語訳聖

「しかし、わたしにとって益であったこれらのものを、キリストのゆえに損と思うようになった。」 口語訳聖書

 「目のうろこ」

パウロはダマスコの途上でイエスに出会い、天からの光に照らされて、一時的に目が見えなくなるが、アナニヤが祈ると目から「うろこのようなものὡς λεπίδες」が落ちた。(使徒9:1-19)その時パウロが見たのは、人の為にすべてを放棄できるという心の変化であった。他者の成熟にかかわって生きるという喜びがパウロを解放した。パウロはすべてを放棄することですべてを獲得したのである。それができないのは、私たちの目にまだ「うろこのようなもの」があるからかもしれない。(ピリピ3:7)

(心のデボーション3892)

心のデボーション3893

「汝の父母を敬へ」 出エジプト20:12 明治元訳聖書

「あなたの父と母を敬え」 口語訳聖書

 「父の権威」

「主は子供を持つことによって、父に誉れを与え、息子たちに対する母の権利を確立された。」(旧約聖書外典ベン=シラの知恵3:2  フランシスコ会訳聖書) 新共同訳聖書は「主は、子に対する権威を父に授け、子が母の判断に従う義務を定めておられる。」と訳す。子に対する父と母の「権威δοξάζω」は神による。それにより、たとえ敬うことのできない父母にも、子は父母への愛と尊厳を失わないのである。

(心のデボーション3893)

心のデボーション3894

「汝牛と驢馬とを耦せて耕すことを爲べからず」 申命記22:10  明治元訳聖書

「牛と、ろばとを組み合わせて耕してはならない。」 口語訳聖書

 「牛とロバ」

牛とロバでは歩く速度も違い、一つのくびきにつなげば、うまくすきを引くことができない。弱い方は引きずられ、強い方はいたずらに疲れるだけである。負担は両者にかかる。では、つりあいのとれない相手とは一緒に行くべきではないのだろうか? キリストと私、これほど釣り合いのとれない関係はない。それにもかかわらず、その「くびきは(ζυγός)負いやすく」、「荷は軽い」(マタイ11:30)。不釣り合いの悩みはここに学ぶ必要がある。(申命記22:10  Ⅱコリント6:14)

(心のデボーション3894)

心のデボーション3895

「ヱホバはすべてかれらの心をつくり その作ところをことごとく鑒みたまふ」 詩篇33:15  明治元訳聖書

「主はすべて彼らの心を造り、そのすべてのわざに心をとめられる。」 口語訳聖書

 「人の心」

「人の心(καρδία「精神生活の中心」)」をつくられるのは神である。神は「人の心(καρδία「精神生活の中心」)」のことごとを心にとめられる。(詩篇33:15)「心にとめるσυνίημι」は「理解する、分かる」の意。神は人の心の業のことごとを理解される。(詩篇33:15)

(心のデボーション3895)

心のデボーション3896

「されば虚僞をすてて各自その隣に實をかたれ、我ら互に肢なればなり。」 エペソ4:25  大正文語訳聖書

「こういうわけだから、あなたがたは偽りを捨てて、おのおの隣り人に対して、真実を語りなさい。わたしたちは、お互に肢体なのであるから。」 口語訳聖書

 「隠された真実」

互いに真実(ἀλήθεια)が語れる関係をつくるには、ことばの表面に聞くのではなく、その奥に隠されている本音に気づく必要がある。注意深く聞けば、本人にもまだわかっていない心の動きも見えてくる。隠された真実に添いながら聴くところから、深い自己表現が出てくる。隠された感情はことばとして表現されることによって、生きる力にも変わる。隠された真実にふれるには、「聞く」のではなく「聴き」、「見る」のではなく「視る」ことが大切である。(エペソ4:25)

(心のデボーション3896)

心のデボーション3897

「主ヱホバ、イスラエルの聖者かくいひたまへり なんぢら立かへりて靜かにせば救をえ 平穩にして依賴まば力をうべしと 然どなんぢらこの事をこのまざりき」 イザヤ30:15 明治元訳聖書

「主なる神、イスラエルの聖者はこう言われた、「あなたがたは立ち返って、落ち着いているならば救われ、穏やかにして信頼しているならば力を得る」。しかし、あなたがたはこの事を好まなかった。」 口語訳聖書

 「安らかな信頼」

「あなたがたは立ち返って、落ち着いているならば救われ、穏やかにして信頼しているならば力を得る」(イザヤ30:15) 新共同訳聖書「お前たちは、立ち帰って/静かにしているならば救われる。安らかに信頼していることにこそ力がある」。フランシスコ会訳聖書「立ち返って、落ち着いていることで、お前たちは救われ、静かにして、信頼することのうちに、お前たちの力がある」。「神への安らかな信頼」の中に「力」がある。安らかな信頼が失われると力を失う。(イザヤ30:15)

(心のデボーション3897)

心のデボーション3898

「されど我は汝らに告ぐ、すべて兄弟を怒る者は、審判にあふべし。また兄弟に對ひて、愚者よといふ者は、衆議にあふべし。また痴者よといふ者は、ゲヘナの火にあふべし」 マタイ5:22 大正文語訳聖書

「しかし、わたしはあなたがたに言う。兄弟に対して怒る者は、だれでも裁判を受けねばならない。兄弟にむかって愚か者と言う者は、議会に引きわたされるであろう。また、ばか者と言う者は、地獄の火に投げ込まれるであろう。」 口語訳聖書

 「怒り」

そのつもりもないのに人を怒らせてしまうことがある。自分は怒っているのだから相手にも怒って欲しい。しかし、相手にはその怒りを自分に向けてもらっては困る。ただ、自分と同じ方向で、「怒り」を共有してほしいだけという、かなり身勝手な「怒り」である。こうした意味のつたわりにくい「怒り」を向けられると、その人は本当に怒りはじめてしまう。(マタイ5:22)

(心のデボーション3898)

心のデボーション3899

「われかれの肩より重荷をのぞき かれの手を籃よりまぬかれしめたり」 詩篇81:6  明治元訳聖書

「わたしはあなたの肩から重荷をのぞき、あなたの手をかごから免れさせた。」 口語訳聖書

 「重荷の重さ」

「愛に由りて、重荷もその重さを失って擔はれる」(アケンピス「基督の真似美」内村達三郎訳 春秋社版)私の肩から重荷がのぞかれたのは、愛をもって神が担われ、重さが除かれたからである。(詩篇81:6)

(心のデボーション3899)

心のデボーション3900

「偶像の供物に就きては我等みな知識あることを知る。知識は人を誇らしめ、愛は徳を建つ。」 Ⅰコリント8:1 大正文語訳聖書

「偶像への供え物について答えると、「わたしたちはみな知識を持っている」ことは、わかっている。しかし、知識は人を誇らせ、愛は人の徳を高める。」 口語訳聖書

 「愛出ずる者」

諺に「愛出ずる者は愛返り、福往く者は福来る」という。人を愛する者は自分を愛し、人を幸福にする者は自分もまた幸福になるとの意である。だからといって、人への愛と自分への愛のバランスなど考える必要はない。愛は一つである。 「愛は人の徳を高める」は、ἡ δὲ ἀγάπη οἰκοδομεῖ.(愛は建て上げる)である。(Ⅰコリント8:1)

(心のデボーション3900)

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