心のデボーション2_019

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心のデボーション0181

「イエス之を聞きて人を避け、其處より舟にのりて寂しき處に往き給ひしを群衆ききて町々より徒歩にて從ひゆく」 マタイ14:13 大正文語訳聖書

「イエスはこのことを聞くと、舟に乗ってそこを去り、自分ひとりで寂しい所へ行かれた。しかし、群衆はそれと聞いて、町々から徒歩であとを追ってきた。」 口語訳聖書

「イエスは、それを聞かれると、小舟でひそかにそこから寂しい場所へと立ちのかれた。けれども群衆はそれを聞くと、町を出て陸路を<歩いて>彼のあとに従った」 詳訳聖書

ἀκούσας δὲ ὁ ἰησοῦς ἀνεχώρησεν ἐκεῖθεν ἐν πλοίῳ εἰς ἔρημον τόπον κατ᾽ ἰδίαν· καὶ ἀκούσαντες οἱ ὄχλοι ἠκολούθησαν αὐτῶ πεζῇ ἀπὸ τῶν πόλεων.

 「自分の居場所」

ネイティブ・アメリカンの成人式の儀式に「自分の場所を見つける」というのがある。父親は成人する子どもを夜の山につれて行き、「自分に心地よい場所を見つけて一晩すごしなさい」と告げて別れる。成人になるには、自分で自分の居場所を見つけなければならない。そこは「寂しき處」であり、魂が疲れを癒す場所である。

「寂しき處」のない人生は居心地がよくない。

「寂しき處」はἔρημοςで「人の住まない所、荒野、砂漠、無人の地」の意。「孤独になれるところ」である。(マタイ14:13)

イザヤ43:19-20

口語訳聖書

43:19見よ、わたしは新しい事をなす。やがてそれは起るあなたがたはそれを知らないのか。わたしは荒野に道を設け、さばくに川を流れさせる。

43:20野の獣はわたしをあがめ、山犬および、だちょうもわたしをあがめる。わたしが荒野に水をいだし、さばくに川を流れさせて、わたしの選んだ民に飲ませるからだ。

イザヤ51:3

口語訳聖書

主はシオンを慰め、またそのすべて荒れた所を慰めて、その荒野をエデンのように、そのさばくを主の園のようにされる。こうして、その中に喜びと楽しみとがあり、感謝と歌の声とがある。

心のデボーション0182

「なんぢは祈るとき、己が部屋にいり、戸を閉ぢて隱れたるに在す汝の父に祈れ。さらば隱れたるに見給ふなんぢの父は報い給はん」 マタイ6:6  大正文語訳聖書

「あなたは祈る時、自分のへやにはいり、戸を閉じて、隠れた所においでになるあなたの父に祈りなさい。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。」 口語訳聖書

「あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋に入りなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます」 新改訳聖書

σὺ δὲ ὅταν προσεύχῃ, εἴσελθε εἰς τὸ ταμεῖόν σου καὶ κλείσας τὴν θύραν σου πρόσευξαι τῷ πατρί σου τῷ ἐν τῷ κρυπτῷ καὶ ὁ πατήρ σου ὁ βλέπων ἐν τῷ κρυπτῷ ἀποδώσει σοι.

 「三分の二ぐらいを埋める」

白洲正子さんは「庭石は三分の二ぐらいを地下に埋めないと、落ち着きがでない」と言います。(白洲正子 『ほとけさま』)

行為も思いも、「三分の二ぐらいを地下に埋める」のがちょうどよい。それを忘れて、全部を見せようとするので、安定のないものになる。「隠れたところταμεῖον」の深化にともなって、行為と思いが深まる。(マタイ6:6)

詩篇34:15 

ס֣וּר מֵ֭רָע וַעֲשֵׂה־ט֑וֹב בַּקֵּ֖שׁ שָׁל֣וֹם וְרָדְפֵֽהוּ׃

ὀφθαλμοὶ κυρίου ἐπὶ δικαίους καὶ ὦτα αὐτοῦ εἰς δέησιν αὐτῶν LXX詩篇33:16

口語訳聖書

主の目は正しい人をかえりみ、その耳は彼らの叫びに傾く。

イザヤ65:24

וְהָיָ֥ה טֶֽרֶם־יִקְרָ֖אוּ וַאֲנִ֣י אֶעֱנֶ֑ה ע֛וֹד הֵ֥ם מְדַבְּרִ֖ים וַאֲנִ֥י אֶשְׁמָֽע׃

καὶ ἔσται πρὶν κεκράξαι αὐτοὺς ἐγὼ ἐπακούσομαι αὐτῶν ἔτι λαλούντων αὐτῶν ἐρῶ τί ἐστιν

口語訳聖書

彼らが呼ばないさきに、わたしは答え、彼らがなお語っているときに、わたしは聞く。

心のデボーション0183

「ヱホバ我を救ひたまはん われら世にあらんかぎりヱホバのいへにて琴をひきわが歌をうたはん」 イザヤ38:20 明治元訳聖書

「主はわたしを救われる。われわれは世にあるかぎり、主の家で琴にあわせて、歌をうたおう。」 口語訳聖書

「主は、私を救ってくださる。私たちの生きている日々の間、主の宮で琴をかなでよう」 新改訳聖書

יְהוָ֖ה לְהוֹשִׁיעֵ֑נִי וּנְגִנוֹתַ֧י נְנַגֵּ֛ן כָּל־יְמֵ֥י חַיֵּ֖ינוּ עַל־בֵּ֥ית יְהוָֽה׃

κύριε τῆς σωτηρίας μου καὶ οὐ παύσομαι εὐλογῶν σε μετὰ ψαλτηρίου πάσας τὰς ἡμέρας τῆς ζωῆς μου κατέναντι τοῦ οἴκου τοῦ θεοῦ

 「風のため息」

「風鳴琴 wind harp(「アイオリアン ハープ aeolian harp ともいう。「アイオリアン」は「風のため息のような」の意味で、ギリシャ神話の風の神Αἴολος, Aiolosに由来する」。風の通り道に置くと風が音楽を奏でるという。ドイツのある貴族が城の塔と塔の間に弦をはって「風鳴琴」をつくった。夏の無風の時期は音をださなかったが、秋になり微風が吹くと、琴は微かに鳴り始め、冬の風が吹くと壮大な音楽を奏でたという。(M・R・ディハーン『日ごとの糧』)

イザヤ38:20「琴ψαλτηρίον」はヘブル語ネギノース(楽器、弦楽器)である。聖霊の風はどのような音を奏でるのだろうか。耳を澄ませる。

詩篇150:4 

הַֽ֭לְלוּהוּ בְתֹ֣ף וּמָח֑וֹל הַֽ֝לְל֗וּהוּ בְּמִנִּ֥ים וְעוּגָֽב׃

καὶ τίς ἀναγγελεῖ τῷ κυρίῳ μου αὐτὸς κύριος αὐτὸς εἰσακούει

口語訳聖書

鼓と踊りとをもって主をほめたたえよ。緒琴と笛とをもって主をほめたたえよ。

心のデボーション0184

「なんぢの荷(に)をヱホバにゆだねよ さらば汝をささへたまはん」 詩篇55:22 明治元訳聖書

「あなたの荷を主にゆだねよ。主はあなたをささえられる。主は正しい人の動かされるのを決してゆるされない。」 口語訳聖書

「あなたの重荷を主に委ねよ。主は支えてくださる。主は正しい人が揺らぐのを決して許されない」 フランシスコ会訳聖書(詩篇55:23)

חָלְק֤וּ׀ מַחְמָאֹ֣ת פִּיו֮ וּֽקֲרָב־לִ֫בּ֥וֹ רַכּ֖וּ דְבָרָ֥יו מִשֶּׁ֗מֶן וְהֵ֣מָּה פְתִחֽוֹת׃

ἐπίρριψον ἐπὶ κύριον τὴν μέριμνάν σου καὶ αὐτός σε διαθρέψει οὐ δώσει εἰς τὸν αἰῶνα σάλον τῷ δικαίῳLXX詩篇54:23

 「計らいを放棄する」

急激な変化が良い結果をもたらさないことはよく知られている。しかし、穏やかなやり方が必ず良いとも限らない。その思いやりが、むしろ相手をつらいところに追いつめることもある。

詩人はここで、自分の「計らい」を放棄する。「ゆだねる」は、重荷を主の「計らい」に放置することである。

その後は、そこから始まることを注意深く見守ればよい。「計らい」を捨て置くと、神の「計らい」が働く。

「委ねるἐπιριπττέω」は「~にむかって投げる」の意で、「重荷」を主に向かって投げる」が「委ねる」である。主が受け取ってくださる。(詩篇55:22)

詩篇37:5 

גּ֣וֹל עַל־יְהוָ֣ה דַּרְכֶּ֑ךָ וּבְטַ֥ח עָ֝לָ֗יו וְה֣וּא יַעֲשֶֽׂה׃

ἀποκάλυψον πρὸς κύριον τὴν ὁδόν σου καὶ ἔλπισον ἐπ᾽ αὐτόν καὶ αὐτὸς ποιήσειLXX詩篇36:5

口語訳聖書

あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ、主はそれをなしとげ、

心のデボーション0185

「凡て勞する者・重荷を負ふ者、われに來れ、われ汝らを休ません」 マタイ11:28 大正文語訳聖書

「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。」 口語訳聖書

「すべて勞する者、また重荷を負へる者は我が許に來れ、さればわれ汝を休ましめん」  永井直治訳聖書

Δεῦτε πρός με πάντες οἱ κοπιῶντες καὶ πεφορτισμένοι, κἀγὼ ἀναπαύσω ὑμᾶς.

 「重荷の割り当て」

「なんぢの荷(に)をヱホバにゆだねよ さらば汝をささへたまはん」 詩篇55:22 明治元訳聖書

へブル語「荷」は「くじ」の意味で、その人に割り当てられたもののこと。人にはそれぞれに割り当てられた「重荷φορτίον」がある。私に「割り当てられた方」に委ねつつ、負わせていただく。(マタイ11:28)

ヨブ5:7 

כִּֽי־אָ֭דָם לְעָמָ֣ל יוּלָּ֑ד וּבְנֵי־רֶ֝֗שֶׁף יַגְבִּ֥יהוּ עֽוּף׃

ἀλλὰ ἄνθρωπος γεννᾶται κόπῳ νεοσσοὶ δὲ γυπὸς τὰ ὑψηλὰ πέτονται

口語訳聖書

人が生れて悩みを受けるのは、/火の子が上に飛ぶにひとしい。

詩篇38:17-22

38:17わたしは倒れるばかりになり、わたしの苦しみは常にわたしと共にあります。
38:18わたしは、みずから不義を言いあらわし、わが罪のために悲しみます。
38:19ゆえなく、わたしに敵する者は強く、偽ってわたしを憎む者は多いのです。
38:20悪をもって善に報いる者は、わたしがよい事に従うがゆえに、わがあだとなります。
38:21主よ、わたしを捨てないでください。わが神よ、わたしに遠ざからないでください。
38:22主、わが救よ、すみやかにわたしをお助けください。

心のデボーション0186

「なんぢは我が子なり、われ今日なんぢを生めり」 使徒13:33 大正文語訳聖書

「神は、イエスをよみがえらせて、わたしたち子孫にこの約束を、お果しになった。それは詩篇の第二篇にも、

『あなたこそは、わたしの子。きょう、わたしはあなたを生んだ』と書いてあるとおりである。」 口語訳聖書

「あなたはわたしの子、わたしは今日あなたを産んだ」 新共同訳聖書

ὅτι ταύτην ὁ θεὸς ἐκπεπλήρωκεν τοῖς τέκνοις [αὐτῶν] ἡμῖν ἀναστήσας ἰησοῦν, ὡς καὶ ἐν τῶ ψαλμῶ γέγραπται τῶ δευτέρῳ, υἱός μου εἶ σύ, ἐγὼ σήμερον γεγέννηκά σε.

口語訳聖書

 「われ今日なんぢを生めり」

作家の大江健三郎さんは、子どものころ、強い雨の中、森に入り、発熱し、翌々日、発見され、医者からもう手当の方法も薬もないと言われた。枕元に母がおり、小さな声で尋ねた。「お母さん、僕は死ぬのだろうか」。すると母は「私は、あなたが死なないと思います。死なないようにと願っています」、「もしあなたが死んでも、私がもう一度、産んであげるから、大丈夫」と言う。かさねて「けれども、その子どもは、いま死んでゆく僕とは違う子どもでしょう」と尋ねると、「いいえ、同じですよ。私が生まれて、あなたがいままで見たり聞いたりしたこと、読んだこと、自分でしてきたこと、それら全部新しいあなたに話すことになるのだから、二人の子どもはすっかり同じですよ」と答えたという。それで大江少年は「なんだかよくわからないと思っていたが、それでも本当に静かな心になって眠った。そして翌日から回復していった。 (大江健三郎『自分の木の下で』朝日新聞出版2005)

申命記32:6

口語訳聖書

「主はあなたを生み、あなたを造り、あなたを堅く立てられてたあなたの父ではないか」  

神は私を「生み」、「私」の物語を新しい私に全部話して聞かせてくださった。

詩篇2:7

אֲסַפְּרָ֗ה אֶֽ֫ל חֹ֥ק יְֽהוָ֗ה אָמַ֘ר אֵלַ֥י בְּנִ֥י אַ֑תָּה אֲ֝נִ֗י הַיּ֥וֹם יְלִדְתִּֽיךָ

διαγγέλλων τὸ πρόσταγμα κυρίου κύριος εἶπεν πρός με υἱός μου εἶ σύ ἐγὼ σήμερον γεγέννηκά σε

口語訳聖書

わたしは主の詔をのべよう。主はわたしに言われた、「おまえはわたしの子だ。きょう、わたしはおまえを生んだ。

心のデボーション0187

「謙遜者はくらひて飽ことをえ ヱホバをたづねもとむるものはヱホバをほめたたへん 願くはなんぢらの心とこしへに生んことを」 詩篇22:26 明治元訳聖書

「貧しい者は食べて飽くことができ、主を尋ね求める者は主をほめたたえるでしょう。どうか、あなたがたの心がとこしえに生きるように。」 口語訳聖書

「いつまでも あなたがたの心に喜びあれ」 フランシスコ会訳 (昭和43年版)

מֵ֥אִתְּךָ֗ תְֽהִלָּ֫תִ֥י בְּקָהָ֥ל רָ֑ב נְדָרַ֥י אֲ֝שַׁלֵּ֗ם נֶ֣גֶד יְרֵאָֽיו׃

φάγονται πένητες καὶ ἐμπλησθήσονται καὶ αἰνέσουσιν κύριον οἱ ἐκζητοῦντες αὐτόν ζήσονται αἱ καρδίαι αὐτῶν εἰς αἰῶνα αἰῶνοςLXX詩篇21:27

 「あなたがたの心に喜びあれ」

「いつまでも あなたがたの心に喜びあれ」。この「心」は「神を尋ね求め、賛美する」心のことである。

いのちあるところに喜びあり、「あなたがたの神を尋ね求める心がいつまでも生きますようにοἱ ἐκζητοῦντες αὐτόν ζήσονται αἱ καρδίαι αὐτῶν εἰς αἰῶνα αἰῶνος」。

詩篇105:4-7

105:4主とそのみ力とを求めよ、つねにそのみ顔を尋ねよ。
105:5 105:6そのしもべアブラハムの子孫よ、その選ばれた者であるヤコブの子らよ、主のなされたくすしきみざと、その奇跡と、そのみ口のさばきとを心にとめよ。
105:7彼はわれらの神、主でいらせられる。そのさばきは全地にある。

心のデボーション0188

「ここにヘロデ、博士たちに賺(すか)されたりと悟りて、甚だしく憤ほり、人を遣し、博士たちに由りて詳細(つまびらか)にせし時を計り、ベツレヘム及び凡てその邊(ほとり)の地方なる、二歳以下の男の兒をことごとく殺せり。」 マタイ2:16 大正文語訳聖書

「さて、ヘロデは博士たちにだまされたと知って、非常に立腹した。そして人々をつかわし、博士たちから確かめた時に基いて、ベツレヘムとその附近の地方とにいる二歳以下の男の子を、ことごとく殺した。」 口語訳聖書

「さて、ヘロデは占星術の学者たちにだまされたと知って、大いに怒った」 新共同訳聖書

Τότε ῾Ηρῴδης ἰδὼν ὅτι ἐνεπαίχθη ὑπὸ τῶν μάγων ἐθυμώθη λίαν, καὶ ἀποστείλας ἀνεῖλεν πάντας τοὺς παῖδας τοὺς ἐν Βηθλέεμ καὶ ἐν πᾶσι τοῖς ὁρίοις αὐτῆς ἀπὸ διετοῦς καὶ κατωτέρω, κατὰ τὸν χρόνον ὃν ἠκρίβωσεν παρὰ τῶν μάγων.

 「危険な怒り」

「だますἐμπαίζω」は「ἐν中で+παίζω 遊ぶ、戯れる、子どものように遊ぶ」からなり、「あざける、嘲弄する、ばかにする」の意。

英語mock はラテン語「muccare軽蔑」をあらわす「鼻をぬぐう」動作から「あざける、ばかにする、欺く」の意である。(ラテン語mucus は「鼻汁」の意) mocking は「ものまね鳥」のことで他の鳥の鳴き声を巧みに真似る。相手の仕草を真似て、からかうの意味になった。

博士たちに「からかう」つもりはなかったが、ヘロデは「あざけられた」と受け取った。ヘロデの怒りは、すべてのことを思い通りにできると信じた、その子どもじみた滑稽に気づいたことへの誤魔化しである。この怒りほど危険なものはない。(マタイ2:16)

箴言27:3-4

27:3石は重く、砂も軽くはない、しかし愚かな者の怒りはこの二つよりも重い。
27:4憤りはむごく、怒りははげしい、しかしねたみの前には、だれが立ちえよう。

心のデボーション0189

「われヱホバなり 我ははじめなり終なり」 イザヤ41:4 明治元訳聖書

「主なるわたしは初めであって、また終りと共にあり、わたしがそれだ。」 口語訳聖書

「わたし、主こそ初めであり、また終わりとともにある。わたしがそれだ」 新改訳聖書

אֲנִ֤י יְהוָה֙ רִאשׁ֔וֹן וְאֶת־אַחֲרֹנִ֖ים אֲנִי־הֽוּא

ἐγὼ θεὸς πρῶτος καὶ εἰς τὰ ἐπερχόμενα ἐγώ εἰμι 

 「天を仰げば始め有り」

「仰天有始 觀物無吾」五浦釣徒(茨城県天心記念五浦美術館) 「天を仰げば始め有り、物を観るに吾無し(自我は消える)」。「釣徒」は五浦に住んだ岡倉天心の雅号で、明治41年から晩年まで使われた。岡倉天心が六角堂で海を見ながら一椀の茶をたて、飲み干したのは何であったのだろうか。

初めと共にある神は終わりと共にある。ことを始められた神のみがことを完了される。ことの始めに終わりはあり、ことの終わりに初めがある。(イザヤ41:4)

黙示21:6 

καὶ εἶπέν μοι, γέγοναν. ἐγώ [εἰμι] τὸ ἄλφα καὶ τὸ ὦ, ἡ ἀρχὴ καὶ τὸ τέλος. ἐγὼ τῶ διψῶντι δώσω ἐκ τῆς πηγῆς τοῦ ὕδατος τῆς ζωῆς δωρεάν.

口語訳聖書

そして、わたしに仰せられた、「事はすでに成った。わたしは、アルパでありオメガである。初めであり終りである。かわいている者には、いのちの水の泉から価なしに飲ませよう。

心のデボーション 00190

「驕傲(たかぶり)きたれば辱(はぢ)も亦きたる謙(へりく)だる者には智慧あり」 箴言11:2 明治元訳聖書

「高ぶりが来れば、恥もまた来る、へりくだる者には知恵がある」 口語訳聖書

「高ぶりが来れば、恥もまた来る。知恵はへりくだる者とともにある」 新改訳聖書

בָּֽא־זָ֭דֹון וַיָּבֹ֣א קָלֹ֑ון וְֽאֶת־צְנוּעִ֥ים חָכְמָֽה׃

οὗ ἐὰν εἰσέλθῃ ὕβρις ἐκεῖ καὶ ἀτιμία στόμα δὲ ταπεινῶν μελετᾷ σοφίαν

 「へりくだる者の知恵」

人にばかにされたくなくて、必要以上に頑張り、それで疲れてしまうこともある。ばかになれる人は、人からばかにされないという。問題はどうしたら、そういう賢さを手に入れられるかであるが、特別なことをする必要はない。ありのままの自分になればそれでよい。

「へりくだる者には知恵があるταπεινῶν μελετᾷ σοφίαν」(箴言11:2)「遜るταπεινόω」は「卑しくする、心を低くする」の意。遜る者に智慧があり、智慧は遜る者と共にある。遜ることがまず智慧である。(箴言11:2)

箴言15:33 

יִרְאַ֣ת יְ֭הוָה מוּסַ֣ר חָכְמָ֑ה וְלִפְנֵ֖י כָבֹ֣וד עֲנָוָֽה

φόβος θεοῦ παιδεία καὶ σοφία καὶ ἀρχὴ δόξης ἀποκριθήσεται αὐτῇ

口語訳聖書

主を恐れることは知恵の教訓である、謙遜は、栄誉に先だつ。

Ⅰコリント8:1,2

8:1偶像への供え物について答えると、「わたしたちはみな知識を持っている」ことは、わかっている。しかし、知識は人を誇らせ、愛は人の徳を高める。 

8:2もし人が、自分は何か知っていると思うなら、その人は、知らなければならないほどの事すら、まだ知っていない。 

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