心のデボーション388

デボーション1
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心のデボーション3871

「かれらは劍のごとくおのが舌をとぎ その弓をはり矢をつがへるごとく苦言をはなち、隠れたるところにて全者を射んとす俄かにこれを射ておそるることなし」 詩篇64:3-4  明治元訳聖書

「彼らはその舌をつるぎのようにとぎ、苦い言葉を矢のように放ち、隠れた所から罪なき者を射ようとする。にわかに彼を射て恐れることがない。」 口語訳聖書

 「搦手」

「搦手」という手がある。「搦」は「手+弱」からなり、「やわらかく押さえる」の意。城の正面の門「大手」に対して「搦手」は裏門である。「相手の弱点を攻める、遠回しに相手をそっとおさえる、物事の裏面をつく」ことである。ここをおさえられると身動きできない。

「苦いことば」は、しばしば、隠れたところから、弱いところを狙って放たれる「搦手」である。

(心のデボーション3871)

心のデボーション3872

「神を愛する者、すなはち御旨によりて召されたる者の爲には、凡てのこと相働きて益となるを我らは知る」 ロマ8:28  大正文語訳聖書

「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。」 口語訳聖書

 「すべてが働いて」

エリザベス・キューブラー・ロスは「私はOKじゃない。あなたもOKじゃない。でも、それでOKなの」と言う。実際には「私はOK、でもあなたはOKじゃない。それですべてはOKじゃない」というのも少なくない。「私はOK、あなたもOK。なのにどうしてOKじゃないの?」というのもある。

「私はOKじゃない。あなたもOKじゃない」と言い切るところから「すべてがあい働き」はじめることもある。「それでOK」でである。

神は、すべてのことを「(神の)ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さるπάντα συνεργεῖ εἰς ἀγαθόν」(ロマ8:28)すべてのことは「相働いてσυνεργέω(共働し、合い助け)」て益となる。(ロマ8:28) 

(心のデボーション3872)

心のデボーション3873

「收穫の主」 マタイ9:38  大正文語訳聖書

「穫り入の主」 永井直治訳聖書

 「青田を褒める」

諺に「青田を褒めるバカ」という。稲は青いうちはよい出来でも、天候しだいで収穫がどうかわるか分からないことから、あてにならないことを言う。「青田売り、青田買い」に通じそうなところもある。しかし、何事もに「青田」の季節があり、青田には青田の出来がある。青田を失敗すると取り戻すのは難しい。

主は「収穫の主τοῦ κυρίου τοῦ θερισμοῦ」である。(マタイ9:38)

(心のデボーション3873)

心のデボーション3874

「汝その隣人に對して虚妄の證據をたつるなかれ」 出エジプト20:16  明治元訳聖書

「あなたは隣人について、偽証してはならない。」 口語訳聖書

 「負債をしたアテナイ人」

イソップ寓話「アテナイのある男が負債の返済を迫られて、唯一の財産である一匹の牝豚を売ることにした。買手がその豚はよく仔を産むかと尋ねると、「信じかたいほどです、ミュステーリア祭には牝の仔を、パンアテーナイア祭には牡の仔を産むんですからね」と答えると、売り買いを見ていた債権者が横から口出しして、「驚くことはありません。この豚はディオニューシア祭には仔山羊さえ産んでくれるでしょう」と言った。「自分の利益のためには、平気で、できもしない偽証をする」というのがこの寓話の教訓である。(「イソップ寓話集」10岩波書店1942より)

加えて、「偽証(ψευδομαρτυρέω)」というものは重ねるごとに、ありもしない話にエスカレートするものだ。(出エジプト20:16)

(心のデボーション3874)

心のデボーション3875

「ヱホバかくいひたまふ劍をのがれて遺りし民は曠野の中に恩を獲たりわれ往て彼イスラエルに安息をあたへん」 エレミヤ31:2  明治元訳聖書

「主はこう言われる、「つるぎをのがれて生き残った民は、荒野で恵みを得た。イスラエルが安息を求めた時」 口語訳聖書

 「ゆううつの草」

狭い地面があって夏草の伸びるにまかせたところ、根がからみあって抜くに引けず、うんざりする。「憂鬱」は「憂(心配、悩み)+鬱(茂る、群がる)」で草が先も見えないほどに茂るさまをいう。気持ちがからんで、うっとおしい。だからといって、憂鬱の芽が出たら根絶やしにしようと張り切ったりしないことだ。草はいつか勢いを失い、自分で枯れていく。あらかた片づけたら、あとは、気がついたときに抜けばよい。

(心のデボーション3875)

心のデボーション3876

「ヱホバよ誠にわれはなんぢの僕なり われはなんぢの婢女の子にして汝のしもべなり なんぢわが縲絏をときたまへり」 詩篇116:16  明治元訳聖書

「主よ、わたしはあなたのしもべです。わたしはあなたのしもべ、あなたのはしための子です。あなたはわたしのなわめを解かれました。」 口語訳聖書

 「十八頭目のラクダ」

昔、ある人が十七頭のラクダを、長男に半分、次男に三分の一、三男に九分の一を分配するようにと遺言しました。三人の息子はどう計算しても遺言通りに分けられず、困っていると、ある人が「では、私のラクダを一頭加えて十八頭にしたらどうか」といいました。これで計算すると、長男が九頭、次男が六頭、三男が二頭、全部で十七頭になり、借りた一頭を返すことができました。十八頭目のラクダは主のみ手にあります。これを加えて計算し直してみてください。

(心のデボーション3876)

心のデボーション3877

「ヤコブよなんぢを創造せるヱホバいま如此いひ給ふ イスラエルよ汝をつくれるもの今かく言給ふ おそるるなかれ我なんぢを贖へり 我なんぢの名をよべり汝はわが有なり」 イザヤ43:1  明治元訳聖書

「ヤコブよ、あなたを創造された主はこう言われる。イスラエルよ、あなたを造られた主はいまこう言われる、「恐れるな、わたしはあなたをあがなった。わたしはあなたの名を呼んだ、あなたはわたしのものだ。」 口語訳聖書

 「あなたの名を呼ふ」

神は個々の人を個々の名をもって呼ばれる。(イザヤ43:1) 世にどれほどの人がいようと、神は人を「その人」において知られ、固有の存在として呼びかけ、呼び出される。(イザヤ42:3)

(心のデボーション3877)

心のデボーション3878

「されど我は汝らに告ぐ、すべて兄弟を怒る者は、審判にあふべし。また兄弟に對ひて、愚者よといふ者は、衆議にあふべし。また痴者よといふ者は、ゲヘナの火にあふべし」 マタイ5:22 大正文語訳聖書

「しかし、わたしはあなたがたに言う。兄弟に対して怒る者は皆裁きを受ける。また兄弟に『愚か者』と言う者は、衆議会に引き渡され、『ばか者』と言う者は、火の地獄に落とされる」 フランシスコ会訳聖書

 「愚か者」

「ばか者ῥακά」はアラム語reqa で「空虚な、頭のからっぽな、間抜け、愚者」を意味し、相手を空虚な存在と見ること。この思考から、やがて価値なき者として排除しようとする動きがはじまる。それは存在を殺すことである。「愚か者、のろまμωρός」は「ぐずの、のろのろした、気の抜けた、味のない」である。

兄弟を「ばか、能無しῥακά」、「愚か者、のろまμωρός」と呼ぶ者は、どこかでその言葉を自分に向けられたことがある。(マタイ5:22) 

(心のデボーション3878)

心のデボーション3879

「たとひ我もろもろの國人の言および御使の言を語るとも、愛なくば鳴る鐘や響く鐃鈸の如し。」 Ⅰコリント13:1  大正文語訳聖書

「たといわたしが、人々の言葉や御使たちの言葉を語っても、もし愛がなければ、わたしは、やかましい鐘や騒がしい鐃鉢と同じである。」 口語訳聖書

 「煽(おお)ちに乗る」

「煽(おお)ちに乗る」という。「煽る」は「扇でばたばたあおぐ」の意。他人のおだてにうまうまと乗せられて失敗すること。「煽(おお)ち」はさしずめ「やかましい鐘や騒がしい鐃鉢γέγονα χαλκὸς ἠχῶν ἢ κύμβαλον ἀλαλάζον.」である。乗せられるのも問題だが、ばたばたと人をあおりたてるのも罪である。(Ⅰコリント13:1)

(心のデボーション3879)

心のデボーション3880

「己の途の果を食ひおのれの策略に飽べし」 箴言1:31  明治元訳聖書

「自分の行いの実を食らい、自分の計りごとに飽きる。」 口語訳聖書

 「迷いの実」

バルバロ訳聖書は「自分の行いの実」(口語訳聖書)を「迷いの実」と訳す。「迷いの道」をゆき、その実を食べる者は己の計りごと」にも飽きる。「自分の行いの実τῆς ἑαυτῶν ὁδοῦ τοὺς καρποὺς(自分自身の道の実)」を行く者は、如何に確信をもとうとしても、「迷いの実」を結ぶことを避けられない。(箴言1:31)

(心のデボーション3880)

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