心のデボーション387

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心のデボーション3861

「その故は、神につきて知り得べきことは彼らに顯著なればなり、神これを顯し給へり。」 ロマ1:19  大正文語訳聖書

「なぜなら、神について知りうる事がらは、彼らには明らかであり、神がそれを彼らに明らかにされたのである。」 口語訳聖書

 「神について知りうべきこと」

人は「神につきて知り得べきことδιότι τὸ γνωστὸν τοῦ θεοῦ」について悩む必要はない。神御自身がそれを「明らかにされるὁ θεὸς γὰρ αὐτοῖς ἐφανέρωσε」からである。人が神について知りうることは、神が「明らかにされるφανερόω(現わす、知らす)」ことによって現される「明らかにされたことがらφανερός(知らされたこと、公にされたこと)」である。(ロマ1:19)「明らかにされた」を大正文語訳聖書は「顯し給へり」と訳す。「顯」は「顔を明るみにだしてはっきり見せる、広く世間に知らせる」の意であり、「顯著」は「はっきりとあらわされたこと」である。

(心のデボーション3861)

心のデボーション3862

「亦ヤコブ、ラバンの面を見るに己に對すること疇昔の如くならず」 創世記31:2  明治元訳聖書

「またヤコブがラバンの顔を見るのに、それは自分に対して以前のようではなかった。」 口語訳聖書

 「顔つき」

ヤコブは自分を見るラバンの顔つきが以前のようでないことに気づく。そして自分がこの土地を去るべき時がきたことを悟る。人の顔つきが以前のようではないと感じられるなら、私たちは祈る必要がある。神は私たちに語りかける前に、まず、外に変化を見せられることがあるからである。しかし、それが「昨日、おととい」のようでないからといって、すぐに旅立ちの支度をはじめるべきでもない。

(心のデボーション3862)

心のデボーション3863

「されど人もし神を愛せば、その人、神に知られたるなり」 Ⅰコリント8:3  大正文語訳聖書

「しかし、人が神を愛するなら、その人は神に知られているのである。」 口語訳聖書

 「神(愛)に知られる」

もし、人が神を愛するなら、その人は神に知られる。神は人を愛において知られ、ありのままにおいて、神は人を愛される。そのようにして人は初めてありのままの自己をありのままに愛において知る。(Ⅰコリント8:3)

(心のデボーション3863)

心のデボーション3864

「この故に汝らに告ぐ、凡て祈りて願ふ事は、すでに得たりと信ぜよ、さらば得べし。」 マルコ11:24  大正文語訳聖書

「そこで、あなたがたに言うが、なんでも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになるであろう。」 口語訳聖書

 「待つ」

待つ以外になすべきことがないという状況がある。「待つ」ことが心のいやしの作業となるには、ただ待っていてもだめである。ギリシャ語で「待つἀπεκδέχομαι」は「待ちづつける、じっと待つ、熱心に待つ」の意。「切なる思いで待ち望む」である。(ロマ8:19)

互いが本当の人間として、連なり、かかわりながら「待つ」。自分を懸命に生きることをしながら、相手の内的ないのちが必ず回復してくると信じ、期待を寄せつづける。人は、何も語らなくても深くかかわり、何もしなくても期待を寄せることを、祈りに学ぶ。そこに希望が生じる。(マルコ11:24)

(心のデボーション3864)

心のデボーション3865

「しかるにヱホバ、サムエルにいひたまひけるは其容貌と身長を觀るなかれ我すでにかれをすてたりわが視るところは人に異なり人は外の貌を見ヱホバは心をみるなり」 Ⅰサムエル16:7  明治元訳聖書

「しかし主はサムエルに言われた、「顔かたちや身のたけを見てはならない。わたしはすでにその人を捨てた。わたしが見るところは人とは異なる。人は外の顔かたちを見、主は心を見る」。 口語訳聖書

 「頭巾は修道士を造らない」 

ラテン語格言に「Concullus non facit monachum.頭巾は修道士を造らない」と言われる。人は修道服の人を見れば修道士と思う。しかし、修道服の人が修道士とは限らない。(Ⅰサムエル16:7)

(心のデボーション3865)

心のデボーション3866

「智慧ある人の敎訓はいのちの泉なり 能く人をして死の罟を脱れしむ」 箴言13:14  明治元訳聖書

「知恵ある人の教は命の泉である、これによって死のわなをのがれることができる。」 口語訳聖書

 「過大な期待」

期待感が大きいほど、それが裏切られた時の挫折感は強烈である。期待感が心の病になってしまうのは、過度に期待し、しかも、ただそれを「待ち続けるだけ」だからではないか。未来に理想的なイメージをもつことは大切である。しかし、イメージだけが先行して、それしか認められなくなってしまうのは問題である。現実が期待したイメージと違っている時には、少しだけ自分のイメージを変えてみると、それほど悪い状況ではないと思えるものだ。

(心のデボーション3866)

心のデボーション3867

「かれはヱホバによりたのめりヱホバ助くべし ヱホバかれを悦びたまふが故にたすくべしと」 詩篇22:8  明治元訳聖書

「彼は主に身をゆだねた、主に彼を助けさせよ。主は彼を喜ばれるゆえ、主に彼を救わせよ」と 口語訳聖書

 「主の御手に身を委ねよ」

「我々は人の手にではなく、主の御手に身を委ねよう。主の憐れみは、その偉大さに劣らず大きいのだから。」(旧約聖書外典ベン=シラの知恵2:18  聖書協会共同訳聖書) 

「身をゆだねるἐμπίπτω」は「落ち込む、~の中に落ちる」の意。人の手にではなく、神の御手の中に落ち込みなさい。その憐れみは大きい。

(心のデボーション3867)

心のデボーション3868

「古への人に「殺すなかれ、殺す者は審判にあふべし」と云へることあるを汝等きけり」 マタイ5:21 大正文語訳聖書

「あなたがたも聞いているとおり、昔の人々は、『殺してはいけない、人を殺した者は裁きを受ける』と命じられていた」 フランシスコ会訳聖書

 「エノラ・ゲイ」

1945年、広島に原爆を投下したアメリカ軍の爆撃機、B-29「エノラ・ゲイ」の乗組員で、唯一生存していたセオドア・バンカーク氏が、2014年7月24日老衰のため死亡した。93歳だった「エノラ・ゲイ」には12人の搭乗員がいたが、バンカーク氏は、飛行ルートの指示などを担当した。同氏は原爆の惨状を 目にしてから反核主義者に変わった。2005年に受けたAP通信のインタビューでは「戦争や原爆では何も 解決できない」と語っている。しかし、「原爆投下は明らかに戦争を早く終え、それ以上の人命被害を防ぐための『やむを得ない 選択』だった」との立場は生涯変わることはなく、原爆投下への謝罪の言葉はなかった。戦争には、「より多くのいのちを失わないための『やむを得ない選択』という武器使用の論理がある。しかし、そこで語られる「戦争や原爆では何も 解決できない」は謝罪の言葉よりも重い。(マタイ5:21)

(心のデボーション3868)

心のデボーション3869

「畏をもてヱホバにつかへ戰慄をもてよろこべ」 詩篇2:11  明治元訳聖書

「恐れつつ主に仕えよ。おののきつつ喜べ」 新改訳聖書

 「おののきつつ喜べ」

「恐れつつ主に仕えよδουλεύσατε τῷ κυρίῳ ἐν φόβῳ」。「恐れつつφόβος」は「恐れ、畏敬」の意で、明治元訳聖書「畏をもて」と訳す。「畏」は「おそれいって敬う、畏敬、尊敬」である。「おののきつつ喜べἀγαλλιᾶσθε αὐτῷ ἐν τρόμῳ」は「ἀγαλλιάω小躍りして喜び、歓呼し」つつ、神に「δουλεύω奴隷として仕える」こと。明治元訳聖書は「戰慄をもてよろこべ」と訳す。畏をもて神に仕える者はおののきつつ小躍りして喜ぶ。(詩篇2:11)

(心のデボーション3869)

心のデボーション3870

「死る日は生るる日に愈る」 伝道7:1  明治元訳聖書

「死ぬる日は生るる日にまさる。」 口語訳聖書

 「死ぬ日は生まれる日にまさる」

「死というものは、それについて考えないで、それをうけるほうが、その危険なしにそれを考えるよりも、容易である」(パスカル「パンセ」166 中央公論新社1973)死は、いざその時よりも、思い悩んでいる時のほうがはるかに重い。伝道者は「死ぬる日は生るる日にまさる。」(伝道7:1)という。新共同訳聖書は「死ぬ日は生まれる日にまさる」である。

(心のデボーション3870)

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