心のデボーション386

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心のデボーション3851

「地は皆爾の前にあるにあらずや請ふ我を離れよ爾若左にゆかば我右にゆかん又爾右にゆかば我左にゆかんと」 創世記13:9  明治元訳聖書

「全地はあなたの前にあるではありませんか。どうかわたしと別れてください。あなたが左に行けばわたしは右に行きます。あなたが右に行けばわたしは左に行きましょう」 口語訳聖書

 「鶯と燕」

イソップ物語「鶯と燕」は、人間の家の軒下で暮らす燕が人里離れた山に棲む鶯に「自分と一緒に人間と一緒に暮らそう」と誘う。すると鶯は「昔起きた不幸の苦しみを思い出したくない」と言って断る。(イソップ「イソップ寓話集」岩波文庫1993)一度ひどい目にあった場所と記憶は消えることがない。平和に暮らすには相手との適切な距離も必要だ。(創世記13:9) アブラハムは争いを避けてロトと辛い別れ(σχίζω)を告げた。(創世記13:9)

(心のデボーション3851)

心のデボーション3852

「其名をノアと名けて言けるは此子はヱホバの詛ひたまひし地に由れる我操作と我勞苦とに就て我らを慰めん」 創世記5:29  明治元訳聖書

「この子こそ、主が地をのろわれたため、骨折り働くわれわれを慰めるもの」と言って、その名をノアと名づけた。」 口語訳聖書

 「慰めの子」

ようやく二寸ほどに育ったコイの子がいる。人になつかず、エサをあげても人の気配のあるうちは食べない。遠くから見ていると、妙な上目使いをし、ふわーっと水に浮くと、バシャッと音を立てて沈む。その時にもうエサを口に含んでいて、それは見事な早わざである。その「目」に会いたくて、せっせとエサをあげに行く。心がほっとする。

ノア(‎נחם LXXΝωε)の名前は「慰めの子」の意味である。(創世記5:29)

(心のデボーション3852)

心のデボーション3853

「ヱホバの手にさかづきありて酒あわだてり その中にものまじりてみつ 神これをそそぎいだせり 誠にその滓は地のすべてのあしき者しぼりて飮むべし」 詩篇75:8  明治元訳聖書

「主の手には杯があって、よく混ぜた酒があわだっている。主がこれを注ぎ出されると、地のすべての悪しき者は/これを一滴も残さずに飲みつくすであろう。」 口語訳聖書

 「怒りの杯」

「主の手」にある「よく混ぜた酒があわだつ杯(ποτήριον)」は「怒りの杯」である。「地の悪しき者」はことごとく「これを一滴も残さずに飲みつくす」。(詩篇75:8)「よく混ぜたあわだつ酒」は甘く口当たりがよく、悪者たちは杯を重ねて酔いしれる。だが、神の怒りは彼らの身体の自由を奪う。

(心のデボーション3853)

心のデボーション3854

「誠にまことに汝らに告ぐ、一粒の麥、地に落ちて死なずば、唯一つにて在らん、もし死なば、多くの果を結ぶべし。」 ヨハネ12:24  大正文語訳聖書

「よくよくあなたがたに言っておく。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。」 口語訳聖書

 「一粒の麦」

失うことを何よりも恐れるようになったら手放す時が近づいているのかもしれない。思いきって、放してみる。しがみつくから不安になり、より強くしがみつきたくなる。失うまいとして守るよりも、放すことで充ちてくるものの方がずっと心を和らげてくれる。「一粒の麦ὁ κόκκος」は地に蒔かれ、豊かな実を結ぶために与えられたもので、手の中に大切ににぎりしめていると、いつか腐れがでてくる。(ヨハネ12:24)

(心のデボーション3854)

心のデボーション3855

「但し疑ふことなく、信仰をもて求むべし。疑ふ者は、風に動かされて翻へる海の波のごときなり。」 ヤコブ1:6  大正文語訳聖書

「ただ、疑わないで、信仰をもって願い求めなさい。疑う人は、風の吹くままに揺れ動く海の波に似ている。」 口語訳聖書

 「二心」

「ただ、疑わないで、信仰をもって願い求めなさいαἰτείτω δὲ ἐν πίστει, μηδὲν διακρινόμενος」(ヤコブ1:6)「疑うδιακρίνω」は「分解する、批判する」からきて「疑う、躊躇する」の意である。風の吹くままに揺れ動く海の波に似た「二心δίψυχος(二つのたましい)」の祈りから得るものは何もない。(ヤコブ1:6-8)

(心のデボーション3855)

心のデボーション3856

「まことに誠になんぢらに告ぐ、信ずる者は永遠の生命をもつ。」 ヨハネ6:4  大正文語訳聖書

「よくよくあなたがたに言っておく。信じる者には永遠の命がある。」 口語訳聖書

 「永遠のいのち」

看護師がチューブをはずし、身体を結んでいた機械が手ぎわよく外に運び出される。「すべてが終わった」という思いがよせてくるときである。しかし、そうだろうか? 残された人には、そこから故人を知ることをはじめなければならないのではないか。亡くなったわが子のことはすべて知っているという親でも、その作業の中で、わが子の全体は知らなかったと気づく。そのようにしてわが子と再会しながら、その人は自分とも新しく出会うのである。

(心のデボーション3856)

心のデボーション3857

「なにゆゑ糧にもあらぬ者のために金をいだし 飽ことを得ざるもののために勞するや われに聽從へ さらばなんぢら美物をくらふをえ脂をもてその靈魂をたのしまするを得ん」 イザヤ55:2  明治元訳聖書

「なぜ、あなたがたは、かてにもならぬもののために金を費し、飽きることもできぬもののために労するのか。わたしによく聞き従え。そうすれば、良い物を食べることができ、最も豊かな食物で、自分を楽しませることができる。」 口語訳聖書

 「霊魂を楽しませるもののために」

「なぜ、あなたがたは、かてにもならぬもののために金を費し、飽きることもできぬもののために労するのか?」(イザヤ55:2)とイザヤは語る。人は飽くことを得ないものに金を払い、その金を得るために労する。むしろ、霊魂を楽しませるもの(ἐντρυφάω「楽しむ、夢中になる」)のためにこそ労すべきではないか?

(心のデボーション3857)

心のデボーション3858

「古への人に「殺すなかれ、殺す者は審判にあふべし」と云へることあるを汝等きけり」 マタイ5:21 大正文語訳聖書

「昔の人々に『殺すな。殺す者は裁判を受けねばならない』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである」 口語訳聖書

 「殺すなかれ」

2014年7月26日、佐世保市の高一女子が友人の高一女生徒を殺害するという事件がおきた。殺害後遺体を切断した高一女子は、「人を殺してみたかった」と供述しているという。
「なぜ人を殺してはいけないのか?」という問いに、「人を殺してみたかった」という答にならない答が帰ってきた気がする。
聖書には「殺すなかれοὐ μοιχεύσεις」出エジプト記20:13 とある。殺さなければよいのではない。「殺すな」は「生かせ」という戒めである。

「人を殺してみたかった」という言葉の背後には、存在の意味を見出すことのできない魂の闇が「死」として広がっている。高一女子は友人を殺す手で自分を殺し、死体を「解剖」して、自分の内にある「死」を確かめようとしたのかもしれない。

(心のデボーション3858)

心のデボーション3859

「なんぢの靈魂の欲するものをも饑たる者にほどこし 苦しむものの心を滿足しめば なんぢの光くらきにてりいで なんぢの闇は晝のごとくならん 」 イザヤ58:10  明治元訳聖書

「飢えた者にあなたのパンを施し、苦しむ者の願いを満ち足らせるならば、あなたの光は暗きに輝き、あなたのやみは真昼のようになる。」 口語訳聖書

「餓えた人にパンを」

「飢えた者にあなたのパンを施し、苦しむ者の願いを満ち足らせなさい」、そうすれば「あなたの光が暁のようにあらわれ出て、あなたは、すみやかにいやされるἲαμα」。(イザヤ58:8,10) パンのない人に自分のパンを分ける人は、自らの魂の餓えをいやし、傷ついて人を癒す人は、自分の傷を癒すのである。

(心のデボーション3859)

心のデボーション3860

「神の爲したまふところは皆その時に適ひて美麗しかり 神はまた人の心に永遠をおもふの思念を賦けたまへり 然ば人は神のなしたまふ作爲を始より終まで知明むることを得ざるなり」 伝道3:11  明治元訳聖書

「神のなされることは皆その時にかなって美しい。神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。それでもなお、人は神のなされるわざを初めから終りまで見きわめることはできない。」 口語訳聖書

 「アナクロニズム」

「時代錯誤anachronism」はギリシャ語「ἀνά後ろ+χρόνος時」からきて「時を後ろにもっていく」の意。「アナクロニズム、時代遅れ」である。だが、一つの時代があまりにも早く変わり、十分に生きないままに新しい時代に移るのは危険である。そうした思考そのものがすでにアナクロだろいうか? (伝道3:11)

(心のデボーション3860)

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