心のデボーション384

デボーション1
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心のデボーション3831

「我もろもろの財貨をよろこぶごとくに汝のあかしの道をよろこべり」 詩篇119:14  明治元訳聖書

「わたしは、もろもろのたからを喜ぶように、あなたのあかしの道を喜びます。」 口語訳聖書

 「御言葉を満喫する」

「主を畏れるものは、み旨にかなうことを求め、主を愛する者は、その律法をもって満たされる。」(旧約聖書外典ベン=シラの知恵2:16  フランシスコ会訳聖書) 「主を愛する者は、その律法をもって満たされる(ἐμπίπλημι)」。

ἐμπίπλημιは「満たす、一杯にする、満足する、満喫する」の意。主を愛する者は、主の御言葉に満たされ、御言葉を満喫する。

(心のデボーション3831)

心のデボーション3832

「もし己の罪を言ひあらはさば、神は眞實にして正しければ、我らの罪を赦し、凡ての不義より我らを潔め給はん。」 Ⅰヨハネ1:9  大正文語訳聖書

「もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる。」 口語訳聖書

 「許しの分かちあい」

分かちあえる相手がいることほどうれしいことはない。分かちあいの中で最も大切にしたいのは許し(ἀφίημι  )である。互いを許しあうことができれば、関係が崩壊することはない。それには心の中心に、互いが罪人であるという認識と御子イエスの血による許しをおくことである。相手を許すだけでは和解は成立しない。相手を訪ねて行き、誤解を解くことが大切ではないだろうか。ἀφίημι  は「許す、うっちゃっておく、そままにまかせる、放免する」の意。互いに相手の罪を「見放す」ことである。(Ⅰヨハネ1:9)

(心のデボーション3832)

心のデボーション3833

「イスラエルよ聽け我らの神ヱホバは惟一のヱホバなり 汝心を盡し精神を盡し力を盡して汝の神ヱホバを愛すべし」 申命記6:4-5  明治元訳聖書

「イスラエルよ聞け。われわれの神、主は唯一の主である。 あなたは心をつくし、精神をつくし、力をつくして、あなたの神、主を愛さなければならない。」 口語訳聖書

 「シェマー」

申命記6:4の冒頭のことば「イスラエルよ聞けShema Yisrael(שְׁמַע יִשְׂרָאֵל)はユダヤ人が一日に朝夕の二度となえる最も大切な祈り(シェマー)である。LXX ἄκουε Ισραηλ。

(心のデボーション3833)

心のデボーション3834

「元始に神天地を創造たまへり」 創世記1:1  明治元訳聖書

「はじめに神は天と地とを創造された。」 口語訳聖書

 「元始に」

明治元訳聖書は聖書の冒頭の「はじめにְּרֵאשִׁ֖ית」を「元始に」と訳し、「はじめに」と読ませる。「はじめにְּרֵאשִׁ֖ית」の訳に「元始(ものごとのはじめ)」を用いるのは創世記1:1のみである。この語もって、神の「根源的なはじめ」を示す。新約聖書ヨハネ1:1  へブル1:1の「はじめ」は「太初」と訳す。「太初」は「天地が未分割の混沌した状態のときの万物の根源」を示し、創世記1:1の「元始」と区別する。創世記1:1は、さまざまな「はじめ」があり、それらの「根源的はじまり」が神によってなされたことを明言する。

(心のデボーション3834)

心のデボーション3835

「ヱホバいにしへ其御わざをなしそめたまへる前に その道の始として我をつくりたまひき」 箴言8:22  明治元訳聖書

「主が昔そのわざをなし始められるとき、そのわざの初めとして、わたしを造られた。」 口語訳聖書

 「わざのはじめ」

神が「わざをなし始められるとき」、「そのわざの初めとして、わたしを造られる(κτίζω「創造する、生み出す」)」(箴言8:22) 神はわざをなされるまえに、まず人をつくられ、わざを行わしめる。人はまず、自らの存在を知るべきである。目的は存在に先立ち、存在を明らかにする。

(心のデボーション3835)

心のデボーション3836

「汝等その行ひし諸の罪を棄去り新しき心と新しき靈魂を起すべしイスラエルの家よ汝らなんぞ死べけんや」 エセキエル18:31  明治元訳聖書

「あなたがたがわたしに対しておこなったすべてのとがを捨て去り、新しい心と、新しい霊とを得よ。イスラエルの家よ、あなたがたはどうして死んでよかろうか。」 口語訳聖書

 「鈍感」

「いい人」というのは相手の気持ちがよくわかる敏感な人であろう。しかし、相手がいわなくてもその気持に応えようとして無理をすれば、それで疲れてしまうだろう。「いい人」が不機嫌になるのは、そのような時である。「いい人」をやめるには、「悪い人」になる必要はない。相手の期待がわかっても、それに応えようとしない「鈍感さ」を身につければいい。ちょっとしたがまんである。

(心のデボーション3836)

心のデボーション3837

「この日には目をあげて高ぶるもの卑せられ 驕る人かがめられ 唯ヱホバのみ高くあげられ給はん」 イザヤ2:11  明治元訳聖書

「その日には目をあげて高ぶる者は低くせられ、おごる人はかがめられ、主のみ高くあげられる。」 口語訳聖書

 「おごる人はかがめられ」

歴史には、「高ぶる者は低くせられ、おごる人はかがめられ、主のみ高くあげられる」一つの日がある。(イザヤ2:11)それは人がつくるのではなく、神から来て、退けることができない。「驕」は馬が首を高くあげる様を示し、「背伸びして人を見下す」の意。ギリシャ語はὑψός「極端な高み」である。(イザヤ2:11)

(心のデボーション3837)

心のデボーション3838

「古への人に「殺すなかれ、殺す者は審判にあふべし」と云へることあるを汝等きけり」 マタイ5:21 大正文語訳聖書

「あなたがたも聞いているとおり、昔の人々は、『殺してはいけない、人を殺した者は裁きを受ける』と命じられていた」 フランシスコ会訳聖書

 「人を殺す」

「殺すφονεύω」は「人を殺す」である。国家であれ、個人であれ、どのような理由があっても、人間は殺人によって人間のいのちを奪う権利はない。それは神の創造された人間のいのちを損なうことだからである。

しかし、また、人は殺さなければよいのではない。「殺すな」は「生かせ」であり、「生かさない」なら「殺している」のである。(マタイ5:21)

(心のデボーション3838)

心のデボーション3839

「なんぢの作爲をヱホバに託せよ さらば汝の謀るところ必ず成るべし」 箴言16:3  明治元訳聖書

「あなたのなすべき事を主にゆだねよ、そうすれば、あなたの計るところは必ず成る。」 口語訳聖書

 「あなたのなすべき事を」

「あなたのなすべき事」を明治元訳聖書は「「なんぢの作爲」と訳す。「作為」を「わざ」と読ませる。「作」は会意兼形声文字で「刀で切れ目を入れる」さまを描く象形文字。「作為」は芸術家の作品への意図の意。「なすべきことἔργον」は「行為、計画、働き、結果」をあらわす。ものごとの始まりから結末までを「主にゆだねよ、そうすれば、あなたの計るところは必ず成る」。(箴言16:3)

(心のデボーション3839)

心のデボーション3840

「ヤコブよ イスラエルよ 此等のことを心にとめよ 汝はわが僕なり 我なんぢを造れり なんぢわが僕なり イスラエルよ我はなんぢを忘れじ」 イザヤ44:21

 「置いてきぼり」

「ヤコブよ、イスラエルよ、これらの事を心にとめよ。あなたはわがしもべだから。わたしはあなたを造った、あなたはわがしもべだ。イスラエルよ、わたしはあなたを忘れない。」 口語訳聖書

「置いてきぼり」は江戸の本所七不思議の一つで、釣った魚を魚籠に入れて持ち帰ろうとすると、どこからか「置いてけ、置いてけ」という声がし、魚を返すまで声が聞こえたという言い伝えからきている。この池は「置いてけ掘」と呼ばれ、金糸堀のあたりにある池とされている。現代は一人とりこのされることを「置いてきぼりをくらう」などと用いられるようだ。置き去りにした人は、どこからか「置いてけ、置いてけ」という声を聞いたのだろうか? 神はあなたを「置いてきぼりἐπιλήθω」にはなさらない。(イザヤ44:21)

(心のデボーション3840)

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